何故安部公房の主人公はみな失踪するのか?
もぐら通信(第17号)に『安部公房の変形能力12:安部公房の人生の見取り図と再帰的人間像』と題して、安部公房が再帰的な人間であることを明らかにし、そうしてこの形態の人間が一体どのような人間であるのかを論じ、その人物素描を一般性があるように素描しました。
この論の中で、同じ再帰的人間として、アイヒェンドルフ、ショーペンハウアー、トーマス•マン、ジャック・デリダとわたしの名前を挙げたわけです。
さて、今アイヒェンドルフの小説『Ahnung und Gegenwart』、日本語にこの題名を訳すと『予感と現在』という題の小説を読んで、掲題に関係して思うところがあったので、安部公房の読者に供します。
この小説は、その題名の通り、実現がありません。即ち、現在はいつも予感に満ちていてるだけで、それが実現しないのです。
それは、何故かというと主要な人物のひとりがいつも失踪するからです。
この小説以外の小説も、わたしは読みましたが、およそいつも、話は次のような話なのです。
1。主人公はいつも旅をしていて定住しない。旅の話である。
2。主人公は主要な登場人物のひとりに偶然出逢い、そして別れる。
3。別れた相手、それは名前の知られないそのときは無名の騎士であったり、やはり無名の美しい女性であったりします。
4。そうして、また旅の途上でひょんなことから、それらの登場人物に出逢います。
5。そうして、また一緒になって旅をするうちに、あるとき突然、或いは忽然として、それらの一人が居なくなり、失踪してしまいます。そうして、このことを繰返す。
この失踪した段階で、旅はまた振り出しに戻り、即ち話の筋が全然前に進まないのです。
誰かが失踪すると話が分解して、成立しなくなるのです。
即ち、時間が停止してしまうか、また何も無いご破算の場所に、その今いる(Gegenwart=現在)場所が、そういう場所に変貌してしまいます。
これらの、アイヒェンドルフの小説の特徴は、そのまま安部公房の主要な作品に当て嵌まるのではないでしょうか。何故再帰的な人間は、そのような話を創造するのかについては、もぐら通信(第17号)で論じましたので、お読み戴ければと思います。:
http://goo.gl/CiGV1z
何故安部公房の主人公は失踪するのか?
それによって、その世界の現在の時間は進まず、またご破算になるからだ、というのが、わたしの結論です。
これは、『砂の女』から『カンガルー•ノート』までの根底にある考え方ではないかと思います。
安部公房は、小説を執筆することを、また演劇についても同様ですが、時間を空間化するのだと明言しています。
わたしが思い出すのは、安部公房が『リルケ』というエッセイで書いている次のことです(全集第21巻、437ページ下段)。1967年、安部公房43歳。
「ぼくはリルケの世界、とりわけ『形象詩集』と『マルテの手記』に耽溺した。(略)
あの耽溺感を、今なら分析できる。リルケの世界は、時間の停止だったのである。停止というよりも、遮断といったほうが、もっと正確かもしれない。リルケはほとんど時間をうたわない。彼の眼には、純粋な空間しか映らないかのようだ。」
このリルケの純粋空間は、生涯安部公房の意識の中から去る事はありませんでした。それどころか、その仕事の根底にいつもあったのだというべきでしょう。それは、安部公房の小説論、演劇論、言語論を読むと、わたしには明らかだと思われます。
次回のもぐら通信(第18号)では、リルケの純粋空間、この時間の無い空間だけの空間を、あなたにも、俗な言い方をすればガチンコで正面から、リルケとがっぷり四つになって経験をし、理解をしてもらいたいと思っております。
[岩田英哉]