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2012年9月23日日曜日

「弱者への愛にはいつだって殺意がこめられている」か?

安部公房がこのアフォリズムを「公然の秘密」で使ってから(*1)、安部公房ファンの中でこの句が頻繁にリピートされています。Twitterでもすっかりおなじみになってしまいました。

だがその提示はいつもその「意味」にまで達していないようです。つまり意味は自明とされているのです。だが果たして「自明」でしょうか。

たとえばかつてTwitterで次のような発言がありました。
「弱者への愛にはいつだって殺意が込められている、か。安部公房はヒドイことを言うなあ。いつだって、ってことはないと思う。」

私はこの疑問を正当なものと認めたい。「いつだって」と言い切れるなら、弱者への愛は不可能なのではないか? 無償の愛は存在することを許されないのか? 常に殺意を内包しながらでないと愛せないのか? いやそんなものを愛と呼ぶことは出来ないはずだ!

だが問題は「弱者」とはなにか、ということです。このとらえ方には二面性があり得ます。ひとつには「社会的弱者」というように、定義することが出来る存在論的なとらえ方です。この場合、これに対する愛にはいろいろな形があり得るし、無償の愛も当然あり得よう。上のTwitterの意見もここからの疑問であると思われます。そして意味に言及しない引用も、この句を客観的事実であるように取り扱っている以上、この存在論的立場にあるはずで、それは「いつだって」という句に矛盾を含んでいると言えましょう。

もうひとつのとらえ方は「弱者とは、(彼、我々が)弱者と思っている者」という認識論的なとらえ方です。すなわち「愛する主体」が相手を「愛を施されるべき弱者」と見なしているとき、優位な立場から傲慢の極致にあり、そのとき愛は容易に殺意に転化しうる。ここでは「いつだって」そうである。

そしてこの認識論的な立場においてこそ「いつだって」という語が成立するとすると、ここで安部公房の「犯罪的なまでの周到さ」(*2)に思いを致さなければならない。告発されているのは実に「愛の主体」たる我々であるのです。相手を「弱者」と見なすことの犯罪性を告発されているのです。

ならば「弱者」を弱者と見ない愛の形を我々は追究しなければならないに違いない。それは弱者、強者を大きく包含した新たな愛の形であるはずです。(*3)

以上、簡単なことをむつかしく述べてみました(笑)
なお、この句に対する安部公房の意図には今回関係なく書いています。
安部公房の「弱者への愛」はこの句以上に広がりがあり、いずれまた触れるつもりです。

(*1)1975/1「公然の秘密」、1977/6「イメージの展覧会」、1977/12「密会」のエピグラフ、に多少表現を変えて使用されている。
(*2)「卒論審査のために安部公房をまとめて読み直してその犯罪的なまでの周到さに戦慄。」郷原佳以http://twitter.com/deja_lu/status/32510603700469761 より借用
(*3)強者への愛は「敬愛」と呼べよう。同等の者には「友愛」が当てはまるだろう。弱者への愛は古来「仁愛」という言い方があった。家族愛、恋愛の愛は強弱立場が入り交じるように思われる。

〔OKADA HIROSHI〕

8 件のコメント:

  1. この文はすばらしいと思います。理論的で、もやもやがすっきりしました…

    すごいですね ありがとうございます。

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  2. Daeki Shikiさん、コメントをありがとうございます。

    ことば足らずを怖れていましたが、お褒めいただき恐縮です。

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  3. 安部公房は一時期、自らの血液を売らなければやっていけない程貧困に苦しんだ時期があったそうです。自らが弱者だった事が「公然の秘密」を執筆するに至った最大の理由と思います。
    私は「弱者への愛はいつだって殺意が込められている」とは自身の体験と世間への皮肉が込められた物のように感じました。
    警察による浮浪者取り締まりに遭ってしまった乞食の男性からアイデアを得た「箱男」などの作品からも、安部公房がアウトローにフォーカスしていた事は明らかです。
    とは言っても色々な角度から見る事が出来る安部文学は現代に於いても必要とされている事は間違いありせんね。

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    1. おっしゃる通りだと思ひます。安部公房の主人公は皆アウトロー、即ち世間の目から見ればみな法律の外に生きる犯罪者です。この犯罪者や犯罪といふ言葉を使って安部公房の文学と主人公の性格を明確に言い切ってゐるのが、松岡正剛ですね。私も全く同感します。yoro 148さんも既にお読みかも知れないけれども、他の読者の方たちのためにURLを此処に引用します:
      http://1000ya.isis.ne.jp/0534.html

      「色々な角度から見る事が出来る安部文学は現代に於いても必要とされている事は間違い」ないことについても同感です。私は此れを「二十一世紀の安部公房論」と読んでをります。yoro 148さんも「二十一世紀の安部公房論」をお書きになつては如何でせうか。そして、もぐら通信にご寄稿下さい。よろこんで掲載致します。

      安部公房と共にゐる佳き新年でありますやうに。

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    2. yoro 148さん、コメントありがとうございます。

      「とは言っても色々な角度から見る事が出来る安部文学は現代に於いても必要とされている事は間違いありせんね。」
      ということについては、まったくその通りですね。先日『方舟さくら丸』の読書会をしましたが、現代への予言のように思えたほどでした。

      「弱者への愛」については、安部公房はその後「弱者とは何か」ーそれは「私たち自身であり、社会的には進化の原動力であるーという思想に発展します。(https://abekobosplace.blogspot.jp/2012/09/blog-post_29.html 弱者とは何かー安部公房の愛の思想 参照)
      弱肉強食の進化論でなく、弱者を進化の原動力と見るこの思想が広く世に受け入れられていれば、先の相模原市障がい者大量殺傷のような事件も起こらなかっただろうに、と残念です。
      このように安部公房は今の世にも生きている、と感じられますね。

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  5. こちらこそ、この広場で様々な考察が見られてとても嬉しく思っております。
    「弱者を進化の原動力と見る」
    おっしゃる通り、この思想が広まっていれば相模原の事件は起こらなかったと思います。
    安部公房は小説について「無限の可能性が広がっているのが小説であり、読者が難解な迷路だと思えばそれは迷路でいいんだ」
    この様なコメントを残しています。
    時代が加速する事に、歳を重ねる事に、自分の周りの環境が変わる事に姿形を変える安部文学が私は好きです。
    これからもこちらの広場にお邪魔させて頂きたいと思います。
    もうご存知かも知れませんが、youtube に安部公房のインタビューが残っているので、このコメントを見ている全ての方の為に貼り付けて置きます。
    https://youtu.be/7vJF19xQDDI

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  6. 言葉尻をつかまえて「安部公房はヒドイことを言うなあ。」などという解釈は余りにも、この小説の読み方として視野が狭小すぎるのではないか。
    もっと大きくこの事象を捉えて、あなたのすぐ隣に立っている「現実」と見比べてみるべくだろう。

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