人気の投稿

2013年2月28日木曜日

【もぐら通信】第6号をお届けします



注:メール購読して頂くと、一番早くお手元に届きます。
ブログでの公開は、あえてメール配信より遅らせています。
メール購読の方法は、ブログ安部公房の広場の右上の
登録ボタンをクリックして、氏名(ニックネーム可)とメールアドレスを
登録して頂くだけです。
もちろん、無料です。


頭書の件、もぐら通信第6号をお届け致します。
お読み戴ければ、幸いです。


今号は、安部ねりさんと加藤弘一さんとのトークライブの模様を記していただいた、ホッタタカシさんによるリポートに注目です。また、「友達」が2劇団によって、公演されます。笛井事務所のプロデューサーである奥村飛鳥さんによる、公演までの道のりを綴った回想録にも注目です。また、関西と関東でそれぞれ読書会が催されます。まだ、間に合うと思いますので、参加を検討していただけると有難いです。

ご感想などお聞かせ下さると、ありがたく思います。
では、安部公房とのよいひとときをお過ごし下さい。

もぐら通信
編集部一同

*******************************************************
        
   安部公房の広場:http://abekobosplace.blogspot.jp/

*******************************************************

『燃えつきた地図』の構造:ネットワークの作家安部公房




『燃えつきた地図』の構造:ネットワークの作家安部公房


関西安部公房オフ会の読書会が明後日に開催されます。

その課題図書が、『燃えつきた地図』。

もう大学生のとき以来、何十年振りでこの作品を読み返して、知ったことを図示ししましたので、ご覧下さい。

詳細な『燃えつきた地図』の構造論は、もぐら通信に書きたいと思っております。

一言でいうと、安部公房という作家は、ネットワークでものを考えた作家だということです。

それが、この図の示す襷(たすき)掛けの平行四辺形の意味です。そうして、物語の要素の対称性にも気を配って、全体の均衡(バランス)を図っています。

安部公房は時間を捨象し、構造的に物語を構築したことが、この図からよくわかります。

これはまだ、他の作品に当たって検証しておりませんが、他の作品も同様の構造を具えていると思います。

この平行四辺形の襷掛けの中心の場所が、「彼」が消失し、姿を隠して消えてしまった場所です。

そして、主人公の探偵も、依頼者(命令者)である個別の顔のない、ということは、これは『第一の手紙~第四の手紙』に初出の、運命の顔、存在の顔であることを意味していますが、その女性に対する報告をしているうちに、この平行四辺形のまん中で、行方不明者になるのです。

それも水銀灯の下、水銀灯の光という透明感覚の中で、無名になり、無役になり、無知(記憶がなくなる)になり、記憶の蘇るのを「待つ」のです。

「待つ」ことは、勿論安部公房がリルケから教わった、芸術家の基本的なものの考え方であり、態度、姿勢です。


[岩田英哉]

2013年2月24日日曜日

もぐら通信第6号目次





もぐら通信第6号目次


もぐら通信第6号も目次が確定しましたので、お伝え致します。

安部公房の広場より予約購読をして下さると、早めにお手元に届けることができます。:http://abekobosplace.blogspot.jp


1。トップニュース

(1)2月20日の紀伊国屋トークライブ→「紀伊国屋で安部ねりさんと加藤弘一さんのトークライブ」


(2)戯曲『友達』公演→「二つの「友達」劇が競演」
(3)お知らせ
 ・関西安部公房オフ会読書会3月2日(土)
 ・TAP読書会 3月9日(土)

2ページ以降は次の通りです。


2。紀伊国屋トークライブを聞いて(仮題):ホッタタカシ                       
3。 『友達』公演までの道のり :奥村飛鳥                        
4。 戯曲「友達」稽古場訪問記:編集部                    
5。 現実生活にあらわれる「安部公房現象」について:滝口健一郎
6。安部公房短編集に見る愛の思想:OKADA HIROSHI
7。デンドロカカリヤ」の引用の深み:冨士原大樹
8。安部公房ー技術と芸術が再会する場所:w1allen
9。 貼りついた未来の皮膚:竹知佑輔
10。TAP(東京•安部公房•パーティ)報告:しめじ
11。安部公房に捧げる歌:睡蓮
12。もぐら感覚8:笑い:タクランケ
13。安部公房の変形能力4:リルケ1:岩田英哉
14。安部公房の詩を読む2:贋岩田英哉
15。「もぐら通信」を読んで:ロータス
16。読者感想:大田有紀様・桐原正二様・倉田眞理様・けんけん様・滝口健一郎様
17。合評会
18。主な献呈送付先・ご感想
19。編集方針
20。バックナンバー
21。編集者短信
22。編集後記
23.次号予告

2013年2月21日木曜日

安部公房がリルケから学んだモチーフ



安部公房がリルケから学んだモチーフ


安部公房がリルケから学んだモチーフ、或は素材を、マルテの手記の中から列挙してみましょう。

1。父親
2。存在象徴(時間を脱して忘却の中から現れる思い出)
3。媒介者(の否定)
4。擬似家族
5。切符
6。壁
7。内部と外部(の交換)
8。笛
9。病院
10。手紙または手記という形式
11。手
12。透明感覚
13。獣
14。無名
15。夜又は闇
16。愛または愛の飛翔
17。放蕩息子
18。隣人(最も遠いものとしての)
19。都市(パリ)
20。死
21。見捨てられた者(しかし、乞食ではない)
22。未来という時間(現在から見た)の不存在
23。地図
24。探索、探究


[岩田英哉]

2013年2月15日金曜日

日本の詩人の豊かさについて



日本の詩人の豊かさについて

今、安部公房が10代で読み耽った詩人、リルケの著した『若き詩人への手紙』を読んでいる。

その3つめの手紙(1903年4月23日付)、イタリアのピサの近傍のViareggioという場所から出したリルケの手紙があります。

その最後の文面は、次のようになっています。


最後に、わたしの本についてですが、あなたにすべての本をお送りしたいと本当に思っているのですし、そうすれば、貴方も喜んで下さることでしょう。しかし、わたしは貧しく、そして、わたしの本は、一度出版されると、わたしのものではなくなるのです。わたしは、自分で買う事もできません。そして、よくそうしたいと思うように、それらの本に対して愛するものを証明してくれる人々に差し上げたいと思っています。

それゆえに、わたしは、一枚の紙切れに、一番最近出版された本(一番新しいので、12か13冊が公開されていますが)の題名と(そして出版社名)を書き留めて、そしてあなたに、折があれば、どうかそれを註文して下さることをお任せしなければならないのです。

わたしの本が、あなたの許にあることを願っています。

お元気で。

ライナー•マリーア•リルケ


わたしは、日本の詩人達の習慣をみて、驚いたことは、みなお互いに自分の詩集を無料で配付することであった。

日本の詩人は、豊かなのである。これは、あらためて、リルケのこの手紙を読んで、思ったことなので、備忘のためにも、書いておきたい。

2013年2月11日月曜日

『18歳、19歳、20歳の安部公房』(キンドル本)が、きんどるどうでしょうに掲載される


もぐら通信に連載した『18歳、19歳、20歳の安部公房』をキンドル本にして出版したところ、文学研究分野では、初めての電子書籍ということで、取材を受けました。。『18歳、19歳、20歳の安部公房』(キンドル本)が、きんどるどうでしょうのウエッブサイトに掲載されましたので、お読み下さると、うれしく思います。

このサイトは、なかなかセンスのいいサイトですし、無料のダウンロードサービスも日替わり、週代わりでやっております。その他の企画も読んで、面白いと思います。あなたもご覧になってはいかがでしょうか。次のURLアドレスです。

2013年2月9日土曜日

マルテの手記17:放蕩息子の帰還と忘却(存在象徴)、そして愛



マルテの手記17:放蕩息子の帰還と忘却(存在象徴)、そして愛

リルケは、マルテの手記の最後に、無償の愛、即ち与えるだけで、対価を求めない愛のあり方を、放蕩息子について書く事で、描いています。

これは、聖書の題材によるものでしょうが、しかし、リルケの放蕩息子は、それとは全く異なった、リルケ独自の放蕩息子になっています。

思えば、安部公房の主人公はみな、放蕩息子だということができます。それは、このような放蕩息子です。そうして、この姿は、10代の安部公房が存在象徴という言葉で概念化した、人間のあり方でもあります。


「 この何年間に彼の心中には大きな変化が起こった。神へ近づく苦しい仕事のために神をほとんど忘れてしまったのであった。(略)人の子らが重きをおく運命の必然は、彼からとくに消え去ってしまった。(略)彼は彼の魂の生活のあらゆる部分を成就させることに没頭した。(略)そして、彼はなによりも初めに幼年時代を考えた。静かに思い返すにつれて、幼年時代は空白のままになっていることを感じた。(略)そして、今度は実際に生活することが、故郷から去った蕩児が再びそこへ帰って来た理由であった。僕たちは彼がそこにとどまったかどうかは知らない。彼がそこへ戻って来たことを知っているのみである。

 この物語を語った人々は、この箇所でその家がどのようであったかを思い出させようとしている。(略)家じゅうの仕事がいっせいにやめられる。老いはしたが、または、大きくはなったが、胸が迫るほどにそのままの顔が窓に現れる。すっかり年取った一つの顔に不意に愕然と識別の色が現れる。識別だろうか。本当にそれだけだろうか。― 宥恕である。ああ、神よ、愛である。

 (略)つぎの瞬間に起こったことについては、息子の身ぶりのみが語られていることは不思議ではない。聞いたことも見たこともない突飛な身ぶりであった。彼はみんなの足もとへ身を投げかけて哀願したのである。愛してくれるなと哀願したのである。かれらは驚きまどいながら彼を抱き起こした。(略)かれらが息子の思いつめた明瞭なポーズを見ながらも、その意味を誤解したことは、彼をたとえようもなく安堵させたにちがいない。(略)かれらが彼を喜ばせるにちがいないと信じてひそかに語らい合って示す愛は、彼ではない者に向けられていることが日ごとにはっきりと感じられた。かれらが心を砕くのを見て、彼はほとんど微笑を禁じられなかった。そして、彼は自分がどんなにその愛のとどかない者になったかを知った。

 彼が何者であるかをかれらは知らなかった。彼を愛することは非常に困難になっていた。そして、彼はある一人だけが彼を愛することができるのを感じていた。その一人はまだ彼を愛そうとはしなかった。」


この、放蕩息子の故郷への帰還の、この最後の場面に出て来る愛の姿に、安部公房は強烈な深い影響を受け、それを受容したのだと、わたしは思います。

これは、安部公房の、やはり、どの主人公にもある、愛の姿だと、思われるのです。如何でしょうか。

[追記]
Mian Xiaolinさんから次のコメントを戴きました。本当に、窓は、リルケからも教わったことなのだと、改めて思います。


この引用文中にある「胸が迫るほどにそのままの顔が窓に現れる」という表現にも、驚くほど安部公房との類似性を感じます。



[岩田英哉]

2013年2月7日木曜日

マルテの手記16:隣人



マルテの手記16:隣人

隣人という他人、他者は、安部公房の終生のテーマのひとつであった。

これは、マルテの隣人観。望月訳から。


「 目に見えるだけではすこしも害にならない人間がいる。僕たちはそういう人間にはほとんど気がつかないで、すぐにまた忘れてしまっている。しかし、そういう人間がどうにかして目に見えるのではなくて、耳に聞こえると、耳の中で育ち、いわば孵化し、場合によっては、犬の鼻孔からはいりこむ肺炎菌のように、脳の中へまで匐(は)いり、脳髄を食い荒らしながら成長する。

 それは隣人である。

僕はひとりぼっちで漂白するようになってから、数えきれないほど多くの隣人を持った。(略)隣人はそのたぐいの生物と同じく、僕たちのある組織内に生じさせる障害によってのみ存在を感じさせるのが特徴である。」




(この稿続く)


[岩田英哉]

2013年2月6日水曜日

マルテの手記15:愛の飛翔


マルテの手記15:愛の飛翔

安部公房のどの作品であったか、いやはっきりとしているのは、『飛ぶ男』の形象が、そうであるのだけれども、愛という言葉との関係で、人間が空を飛ぶという形象が、他にも、どの作品かにあったという記憶があるので、ここに、『マルテの手記』の関係する行を引用します。


「ああ、塗りつぶしたような部屋の闇。ああ、そとの闇をのぞく無表情な窓。ああ、かたく鍵をかけられた扉。(略)ああ、母よ、ああ、幼いころこの恐ろしい静けさを見えなくしてくださった一人っきりの方よ。その静けさを引き受けてくださって、「こわがらなくてもいいよ、わたしだよ」と言ってくださった母よ。(略)あなたは幼い者をおびえさせに来そうなものをはるかうしろへ追いこし、あなたのうしろには、あなたがいそいで来られた足あと、あなたのいつものはるかな道、あなたの愛が飛んで来た跡がつづいているのみである。」



(この稿続く)


[岩田英哉]

2013年2月5日火曜日

マルテの手記14:無名と夜


マルテの手記14:無名と夜

無名と夜という主題は、初期の安部公房に顕著な主題です。勿論、初期だけにそうだったわけではなく、この主題は生涯のテーマであった筈のテーマです。どの主人公も無名であるということを見れば、どの主人公も夜に生きていた人間達だと言い換えることが、容易にできます。

ここは、詩人についての考察のところです。望月訳を引用します。


「 君の噂をしてくれるようにとだれにも頼むな、さげすんだ噂でも。時節が来て君の名前が世間にひろまり始めたことを知ったら、世間のどんな噂にもましてそれを顧みるな。君の名前はよごれたものと考えて捨てたまえ。そして、神が君を深夜に呼ぶことができるようになにか新しい名前をつけたまえ。そして、その新しい名前をだれにも告げるな。」


このこころは、リルケを耽読し、リルケに耽溺し、惑溺して読んだ10代の頃から、終生、安部公房のこころでありました。


(この稿続く)


[岩田英哉]

2013年2月4日月曜日

「18歳、19歳、20歳の安部公房」をキンドルで刊行しました。


もぐら通信に連載した「18歳、19歳、20歳の安部公房」を一冊の電子書籍にまとめ、アマゾンのキンドルで刊行しました。

まとめて読みたい方は、お買い求め下さい。

http://www.amazon.co.jp/18歳、19歳、20歳の安部公房-ebook/dp/B00B90U0N2/ref=sr_1_2?ie=UTF8&qid=1359949902&sr=8-2


マルテの手記13:獣



マルテの手記13:獣

安部公房の初期の短編に、「夢の逃亡」という小説があります。

この小説に限りませんが、初期の作品に獣という言葉の出て来る作品が他にもあったと記憶しています。

獣とは、一言で言えば、生命のことです。未分化の状態の生命。それが、名前を食い破って、現実の中へと躍り出て来る。


「世間に交わらない孤独な詩人よ、世間はお前の名声によりお前に追いついてしまった。世間がお前を仇敵のように憎んだのは、どれほど前のことであったろう。その世間が今ではお前と友だちの一人のように交わっている。そして、人々はお前の言葉を無知という檻の中に入れて持ち歩き、町々のヒロアで見せものにし、檻に安心をしてお前の言葉を少し怒らせる、お前の恐ろし猛獣たちを。

 僕のなかに棲む猛獣がついに絶望して躍り出て、砂漠に住む僕に飛びかかったとき、僕はお前を初めて新しい目で読んだ。お前も最後には絶望していたのであった。お前の軌道はどの地図にもまちがってしるされている。お前の軌道の暗い双曲線は亀裂のように蒼穹を横ぎり、一度だけ地上へおりて来て、恐怖にみたされて遠ざかる。(略)」



名前と獣(生命)の関係、世間のひとが貨幣のように流通させている言葉、それも詩人の言葉をも。

このリルケの考察は、そのまま「夢の逃亡」という作品に生きていて、素晴らしい作品となっています。


(この稿続く)


[岩田英哉]

2013年2月3日日曜日

マルテの手記12:透明感覚



マルテの手記12:透明感覚


安部公房の特有の感覚に透明感覚があります。

しかし、マルテの手記にも、この透明感覚が出て参ります。これを安部公房は自家薬籠中のものとなしたのでしょう。以下、わたしの訳でお伝えします。


「空気のどの要素の中にもある驚くべきものの存在。お前は、透明なるものと一緒に、それを吸い込む。お前の中で、しかし、それは、沈着し、固くなり、尖った幾何学的な形を、器官の間でとるのだ。」


このような形象は、絵画的であり、また数学的であって、10代の安部公房のその数学的な、そして芸術的な能力に、非常に訴え、納得せしめたのではないかと思います。

この透明感覚は、内部と外部の交換の問題と裏腹に、現れます。

初期の詩から晩年の『カンガルー•ノート』に至るまで、この感覚は、主人公が何かを成し遂げたり、物事が一応終わりになったと主人公が感じるところ、小説ならば、話の最後の場面で必ず出て来ます。

詳細は、「もぐら感覚7:透明感覚」と題して、第5号のもぐら通信にて論じましたので、お読み戴ければと思います。ダウンロードは、次のところから:



(この稿続く)


[岩田英哉]

2013年2月2日土曜日

マルテの手記11:手




マルテの手記11:手


安部公房のモチーフのひとつに、手があります。

マルテは、子供のころ、小さな体に大きな机で絵を描いていて、色鉛筆を机の下に落としてしまいます。

そうして、暗い、闇の領する机の下で、毛の深い絨毯の中に、鉛筆を手探りで探し求める経験を素描するときに、手について、自分のものではない手についてのある経験を、次のように書くのです。望月訳です。


「毛皮の感触はひどく快かったが、鉛筆は指にふれなかった。僕は時間をひどく空費しているような気がされ、小母様を呼んでランプの光を見せてもらおうと思ったが、そのときに、無意識に大きく見ひらいた目に暗さがすこしずつ透明になり始めたことに気がついた。白い細い桟でかぎられている向かいの壁も見えるようになった。机のあしの場所もわかって来た。それよりも、指をひろげている自分の手が見えるようになった。その手はなんとなく水棲動物のようにひっそりと下を泳ぎまわり、毛皮のなかをさがしまわっていた。
今でもおぼえているが、僕は自分のその手をほとんど息をひそめて見つめていた。僕の手がそれまでに見せたことがないような運動をつづけながら下を自由に動きまわっているのを見ていると、それは教えられたことのない運動さえもできそうに感じられた。僕は手が進んで行くのを目で追っていた。興味を呼びさまされ、あらゆる場合を予期していた。しかし、不意に向かいの壁から別の手が進んで来たことはどうして予期できただろう。僕の手よりも大きかったが、今までに見たことがないほどやせている手が、向こう側から同じようにさがして来て、二つの手は指をひろげながら傍目(わきめ)もふらずに向かい合って進みよった。僕の興味はしばらくつづいたが、突然それが消えて、恐ろしさだけが残った。僕は二つの手の一つが僕の手であって、それが取り返しのつかないことにかかり合っていることを感じた。僕は自分の自由になる手を必死に引きとめ、毛皮の上へ平らに押さえつけながら徐(おもむ)ろに引っこめた。僕は引っこめながらも向こうの手がさがしつづけて来るのから目をはなさなかった。僕はその手がさがすことをやめないだろうと知った。どう椅子へ這いあがったかおぼえがない。肘掛椅子に深くすわって、歯をがちがちと鳴らしていた。」



(この稿続く)


[岩田英哉]

2013年2月1日金曜日

マルテの手記10:手紙という形式



マルテの手記10:手紙という形式

安部公房は、その主要な作品で、手紙という形式、或は手記という形式を多様して、その作品世界を構築しました。

マルテの手記と呼ばれるこの作品も、主人公が読者を想定して書かれている告白体、独白体の手紙の形式です。

このマルテの手記の中に更に、敢えて「手紙の下書き」(或は、「手紙の構想」)という題の小節を、リルケは書いています。

言わば、手紙の中の手紙です。これも、安部公房の意識の中にある、話中話、劇中劇という構造に同じです。

この「手紙の下書き」のような書き方は、安部公房の手記体の小説によく見られる追録、後書きに似ていると思います。附属的な場所を設けて、註釈的に書くことが必要な場合と、必要な言葉があるのです。

望月訳には、何故か、この「手紙の下書き」という一語、Briefentwurfという大事が言葉が訳されておりません。その文章は次のようなものです。


「ああして別れるべくして別れたのだから、君に書くべきことはほんとうはなにもないが、やはり書いてみよう。やはり書くことにする。いや、どうしても書かなければならないと思う。偉人廟(パンテオン)であの聖女の絵を見たからだ。(略)彼女は眠っている町を護っているのだ。僕は泣いた。一枚の絵のなかに思いがけなくそういうものを見たので涙が流れた。僕はその絵の前で嗚咽をした、泣かずにはいられなかった。」




(この稿続く)


[岩田英哉]