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2016年10月22日土曜日

村上春樹の最大の批判者は、やはり安部公房の読者である

村上春樹の最大の批判者は、やはり安部公房の読者である

今月号のもぐら通信(第50号)のために、今月の安部公房tweetsを眺めていたら、ノーベル文学賞についての時節柄、安部公房と村上春樹についての比較論がよくtweetされていたので、以下にまとめます。

1。ノーベル賞との関係で

GreatJPN ‏@GreatJPN 10月10日
ノーベル文学賞 13日18時(日本時間)発表

日本人が選ばれるとしたら「三島由紀夫、安部公房」が基準。候補者常連となった「村上春樹」。曖昧な定義だが「ライトノベル」テイスト。「薄い」が受賞できない理由かな、ロンドンでの茶飲み話で。 

Jeffrey ‏@jeafyanagida 10月14日
村上春樹さん嫌いじゃ無いですが安部公房の文体でノーベル賞受賞出来なかったんだからかなり難しいと思う。てかいよいよネタにされてる気がする毎度毎度。

ジェガノフ ‏@saiun694 10月13日
ノーベル文学賞、相応しい作家はみんな死んじゃったしな、遠藤周作と安部公房、吉村昭あたりは十分値すると思う。安部公房と遠藤周作は候補だったらしいし。

国家社会主義労働者ティラノ ‏@terrassak 10月1日
村上春樹とかいう終身名誉ノーベル文学賞候補
安部公房や三島由紀夫が受賞できなかったのにこいつが取るの個人的には許せないっすねえ


2。安部公房にあって、村上春樹にはないもの、それは死

れみどり ‏@osouonna 10月9日
そんなに本読む方じゃないけど1番好きな小説は安部公房のカンガルーノートで死んでしまう人間の臭いがするから

宇野タツヤ ‏@unotatsu100 10月1日
急に安部公房さんのこと好きになってきた、やっぱ死んでる人はいいね

mmまりこ ‏@mm_ypoo 10月8日
安部公房でいちばん好きなのは他人の顔
墓場に入れる本三冊選べって言われたら絶対コレ入る


これらのtweetでわかる通りに、安部公房の読者は日常的に死に近しい人間たちです。

しかし、村上春樹はそうではない。

「職業としての小説家」(新潮文庫版)に村上春樹が書いているように、村上春樹は楽しみながら小説を書いている。以下同書よりこれに類する箇所を引用します。

(1)作者にも「気持ちの良い」((267ページ))、読者にも「温泉の湯の深い温かみみたいな」(175ページ)小説を書きたいと思ったのである。

(2)『羊をめぐる冒険』を書くときには、「今ある文体をできるだけ重くすることなく、その「気持ちよさ」を損なうことなく(言い換えればいわゆる「純文学」装置に取り込まれることなく)、小説自体を深く重いものにしていきたい―それが僕の基本的な構想でした。」(272ページ)

(3)『風の歌を聴け』を書いたときには、その第一章をまづ英語で書いて、それを日本語に翻訳をしたが、その理由は「僕が目指したのはむしろ、余分な装飾を排した「ニュートラルな」、動きの良い文体を得ることでした。僕が求めたのは「日本語性を薄めた日本語」の文章を書くこととではなく、いわゆる「小説言語」「純文学言語」みたいなものからできるだけ遠ざかったところにある日本語を用いて、自分自身のナチュラルなヴォイスでもって小説を「語る」ことだったのです。そのためには捨て身になる必要がありました。極言すればそのときの僕にとって、日本語とはただの機能的なツールに過ぎなかったということになるかも知れません。」(54ページ)

(4)「最初の小説を書いたときに感じた、文章を書くことの「気持ちの良さ」「楽しさ」は、今でも基本的に変化していません。」(59ページ)
「今でも」とある今とは、この本の著者によるあとがきの日付は、2015年6月です。

(5)書くということを作業として論じていて、書くことは「自分から何かをマイナスして行くという作業が必要とされる見たいです。」と書いた同じページの次のところで、「これも自分自身の経験から言いますと、すごく単純な話ですが、「それをしているとき、あなたは楽しい気持ちになれますか?」というのがひとつの基準になるだろうと思います。」(108ページ)

この「楽しい気持ちにな」って書くという基準を適用しないで書いたのが、『1973年のピンボール』が芥川賞候補になり、その受賞第一作として発表するために書かれたと言われる作品『街で、その不確かな壁』です。この作品は文藝誌『文学界』に発表されたあと、作者自身によって謂わば封印されて、世に出ておりません。これを「封印作」と呼ぶことにします。

何故封印したかといえば、村上春樹は封印作で、安部公房の読者と共有している、生きた人間に漂い臭う死の臭いを書こうとし、書いたのです。しかし、その後、この封印作の舞台設定を明るい方へ持っていってしまって『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という長編小説を仕立ててしまった。

作家寿命を延ばす為にそうしたのだ。と辛辣な安部公房の読者ならばいうことでせう。

三島由紀夫や安部公房の列に入るには、つまりノーベル文学賞級の一級の作家になるには、やはり贋のではなく、baseballと其のstadiumのfieldという旧約聖書の贋の創世記の世界にではなく、本物の神話の世界で自分で穴を掘って、そこに身を投げなければならない。[註]これができるかどうかが、村上春樹の課題です。つまり、自分を殺すことができて、封印作にあるやうに、人間である主人公の体から死臭が立つ小説がかけるかどうかといふことです。三島由紀夫や安部公房のやうに。そして、その穴に他にボーイフレンドのいる若い娘に穴を掘らせて、この娘が身を投げ入れて死ぬのを見ているのではなくて、その娘の身代わりになってでも、自分自身が投身して、自己犠牲としての死を死ぬこと。安部公房や三島由紀夫の世界の主人公のように。

[註]
村上春樹が、このことを気づいていないわけではないことのわかる記述が「職業としての小説家」にあります。(193~194ページ)

「小説家の基本は物語を語ることです。そして物語を語るというのは、言い換えれば、意識の下部に自らが下っていくことです。心の闇の底に下降していくことです。」


そして、それは「地下の暗闇」なのであって、迷路であり、「地下の洞窟と同じです。油断していると道に迷ってしまいます。そのまま地上に戻れなくなってしまうかもしれません。その闇の中では集合的無意識と個人的無意識とが入り交じっています。太古と現代が入り交じっています。」


上の註にある「太古と現代が入り交じ」るとある此の意識は、封印作も含めて最初の四作を初期四部作と呼ぶとすれば、実質第三作の封印作を除けば、初期3部作に一貫して流れているものです。前者は鼠と呼ばれ、後者はジェイという、バーの経営者の名前で登場しており、『1973年のピンボール』で最初の導入部で言われているように、僕(一人称)は鼠(三人称)であり、鼠は僕であるという一人称と三人称の交換関係の成り立つ小説でありました。

封印作は暗い方へ、その他の三作は明るい方へ。

村上春樹は、後者の道を行くことにしたのです。

そのために、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で、僕の等身であった三人称の鼠を、金色の体毛に覆われた一角獣、鼠のように優しい物言わぬ神話の中の大きな獣に変形させたのです。さて、この「獣」と呼ばれる獣で、果たして、僕は獣でいられるのか。答えは否でした。それが、この後の長編小説の試みの結果です。

さて、しかし、上述しましたように、暗い道を、何しろそれは闇の世界ですから、これから先最晩年に向かって進むこと、これが、村上春樹がノーベル賞に値する作家になるための必須の条件だと、安部公房の読者は言っているのです。これができないなら、この勇気がないのであれば、どうしようもない男である。というのが、上のtweetの言いたいことなのです。一体に安部公房の読者は村上春樹を否定するのですが、その一番大元の理由が此れであると、私は思います。

しかし、イソップ物語のアリとキリギリスの話にあるやうに、青春と夏を謳歌して来た(本人の意識は世間の村上春樹の読者とは全く逆で、死者を弔うために夏の季節を歌って来たのですが、しかし、そうとはいえ、楽しみながら小説を書いて来た)村上春樹が、冬になったからといって、虚構の世界で自殺できるものだらうか?難しいのではないのだろうか?全ては原因であり結果であるのだから。

この因果律を逃れるためには、時間のない本物の神話の世界を創造する以外にはありません。安部公房のように。

つまり、その娘の身代わりになってでも、自分自身が投身して、自己犠牲としての死を死ぬ以外には、ないのです。

さて、小説家として、虚構の中で曖昧なまま若い娘の死に接して来た意志のない主人公を書いて来た村上春樹が、現実の中の小説家として、「引き算」の作家(107~108ページ)から、安部公房のような意志のある積算の作家に自分自身の方を変形させることができるかどうか、これが今後の(若い時からの相変わらずの)課題となるでしょう。

鼠が実は白鼠であり、地下世界という浄土に棲む鼠なんだ、僕は白鼠なんだと、一人の愛する女性にだけ洗練されたアメリカ風の会話の中で其れとなく告げるのではなく、本物の神話的な虚構の形式を借りて世界中の読者に告白することができれば、この課題を達成したことになります。[註2]

[註2]
村上春樹白鼠論については、こちら:


そうなって、そうして、ノーベル文学賞の世界中にいる推薦者たちの50%以上が、代表的なアメリカ文化の文物である贋物の諸物、即ちマクドナルドのハンバーガーやコーラやジーンズやベースボールに子供の時から親しい人間たちであれば、ひょっとしたらノーベル文学賞がやって来るかも知れません。

冒頭の安部公房の読者たちのtweetsは、このように言っているのだと、私には思われます。

村上春樹の最大の批判者は、やはり安部公房の読者なのです。

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