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2016年10月28日金曜日

安部公房、三島由紀夫、村上春樹の共通点

安部公房、三島由紀夫、村上春樹の共通点

村上春樹といふ作家をここまで深く理解をすると、安部公房との共通点、といふ事は三島由紀夫との共通点も思ふことができて、次のやうな三題噺ならぬ、三人噺をすることができます。

三人に共通してゐる事は、創作活動が、喪はれた尊い者への弔ひの感情に発してゐて、作品がいづれも死んだ人間のための祈念の墓碑となってゐる事です。そのために三人は三様に虚構を必要とした。どんなにその見かけが異なってゐたとしても。

1。安部公房
小学生の時からの友であり、若くして支那大陸で、「存在の中に消えていった」親友金山時夫の霊を慰め、追悼するために書いた。

[註]
満州の奉天で既に孤独な小学生であった事が判る事から、安部公房の自己喪失も一桁の学齢の時であった。これがこの作家の数学的な能力の獲得と裏腹であることが特徴的である。

2。三島由紀夫
遅くとも12歳の年齢の時までに喪失した自己の霊を慰め、追悼するために書いた。

[註]
12歳で出した詩集『笹舟』と短編小説『酸模』(すかんぽ)を読むと、そこには既に自己喪失が、さうして特に散文である後者には深い自己喪失が表現されてゐる。それ以前の10歳までに書かれた『初等科詩篇』には自己喪失はない。従ひ、この喪失は11歳から12歳の間に起こったものと推測する事ができる。

従ひ、よし詩人にならうと決心して編まれた詩集『HEKIGA』には、その決心と覚悟のほどが示されてゐて、詩作の腕が急激に上がってゐて、『笹舟』とはレヴェルが全く異なって、質の高いものになってゐる。

3。村上春樹
遅くとも15歳で知り合ひ、そして喪失した、最も愛した若い女性の霊を慰め、追悼するために書いた。

[註]
推測ではあるけれども、作品を読むと、既にやはり一桁の学齢の時に、父親に聞かされたか母親に聞かされたのか、また自分で本で読んだものか、『おむすびころりん』(別名『鼠の浄土』)の話を聞き、また知って、その家庭環境と相俟って、非常な恐怖心を抱いたことが、上の愛した女性の喪失と深く結びついてゐる。

このやうになるでせう。

また、それぞれの文学ということの特徴を、論理と譬喩と時空と形象いふ観点から挙げれば、次のやうになります。

1。安部公房
(1)積算の文学(仮説設定の文学
(2)直喩の文学
(3)純粋空間の文学
(4)私はもぐらである。

2。三島由紀夫
(1)積算の文学
(2)隠喩の文学
(3)純粋時間の文学
(4)私は蛇である。[註]

[註]
実は此の蛇は、全てのものを狩りとる鋭利な剃刀を持った理髪師であるといふ二重の形象(ダブルイメージ)になってゐる。

3。村上春樹
(1)引き算の文学
(2)換喩の文学
(3)「奇妙な」時間と「奇妙な」空間の混在した文学
(4)私は鼠である。[註]

[註]
実は此の地上世界での鼠(自分自身)は、地下世界では白鼠(喪失した女性)であるといふ二重の形象(ダブルイメージ)になってゐる。

更に、これら三人に共通する主題は、次の通りです。


1。不在の父親

また、この作家たちは、文学史で云はれる写実主義の、平凡な私小説(安部公房の言葉でいへば足し算の文学)の書き手ではなく、架空の小説、文字通りに空に虚構の現実を架ける作家でありますから、その作品形態は、架空の、幻想の、非現実のの形態をとりますので、最初の言葉を採用して、異論はあるでせうが、上のやうな語義に戻って考へて、ここでは、次のやうに代表させることにします。

2。架空小説

これから村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読みますので、更に此のリストは豊かになる筈です。勿論、私は安部公房の読者でありますので、加算ではなく、積算によって、この三人の一流の小説家たちのために、文学的な富を増やすことに致します。

追記

金山時夫の訃報に接する前に、安部公房の経験した喪失は、全部で次の5つです。

1。満洲国という安部公房にとっての祖国の喪失
2。奉天という圧倒的に幾何学的な町、即ち安部公房の古里の喪失
3。父親の喪失
4。安部家の喪失(父親の死による)
5。自己の喪失

そして、

7。親友金山時夫の喪失

この喪失が、筆を以って立たうといふ時に、最後にある喪失です。

安部公房が金山時夫の訃報を知ったのは、昭和22年、西暦1947年、東大医学部を卒業する前年でした。下記に引用する高谷治といふ成城高校以来の親しい友人宛の手紙が、安部公房の鎮魂と追悼の決意を示してゐます。

この思ひを小説にしたのが処女作『終りし道の標べに』です。この原稿を恩師阿部六郎にみせ、阿部六郎から埴谷雄高に連絡され、安部公房が郵送して(直接出版社に足を運びましたが、埴谷不在にて会ふこと叶はず)、文藝誌『個性』に掲載されて日本文学の世界に初めて登場します。

もぐら通信第33号『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~(後編)』より以下に当該箇所を引用して、お伝へします。安部公房という人間を少しでも理解して下さると、嬉しい。

金山時夫とは、このような親友であったのです。

「さて、こういうわけで、安部公房の作品の冒頭に登場する案内人は皆、安部公房の呪文によっ て呼び出された、存在の方向への立て札となっているのです。それが実は存在しない手記であれ、失われた名前の書いてある名刺であれ、とらぬ狸であれ、ニワハンミョウであれ、損傷した顔であれ、失踪した依頼人の夫であれ、失踪した男の書いた箱の製法マニュアルであれ、救急車に誘拐されて失踪した妻であれ、ユープケッチャという贋の虫(しかし「既にして」 存在になっている虫)であれ、カイワレ大根の生えた脛(「既にして」存在になっている脛) であれ、その他なんであれ。

このこころは、リルケの詩の世界からみると、リルケの詩の言葉の教える通りに、「予(あらかじ)め喪われたもの」を褒め称え、荘厳(しょうごん)するこころなのです。安部公房 は、リルケを本当によく読み、その詩想と思想を自家薬籠中のものとしました。金山時夫への鎮魂と弔意のこころと此の幼い時から私事を語った親友の蘇生と復活への強い思い、強い念は、どの作品にも、既に喪われた者との絶対的に超えることのできない「遥かな距離」の差異を0にすることで、自分の愛の真正を証明しようとする安部公房のこころを体した主人公となって、現れているのです。

「亡き友金山時夫に

 何故そうしつように故郷を拒んだのだ。
 僕だけが帰って来たことさえ君は拒むだろうか。
そんなにも愛されることを拒み客死せねばならなかった君に、
記念碑を建てようとすることはそれ自身君を殺した理由につな がるのかも知れぬが......。」
 (『終りし道の標べに』全集第1巻、271ページ)

この思いが、作者の現実の私事の思いであり、

この思いが、作者の物語を語る(騙る)虚構の中に仮構する私事への、即ち存在の方向への思いなのです。

「 尚ほ、今の計画としては、金山の伝記を書き度いと思つてゐる。これは容易な仕事では ない。詩であつてもならないし、伝説であつてもならない。やはり、悩み、生き、そして最 后に、存在に対決する為に、永遠の孤独に消えて行つて、人知れず夜の中に潜入して、悲しみでもない悦びでもない歌を信じながら死んで行つた一人の友を、此処で再び永遠に生かさ ねばならないのだとしたら......」
(『高谷治宛書簡』全集第29巻、277ページ)

「悩み、生き、そして最后に、存在に対決する為に、永遠の孤独に消えて行つて、人知れず夜の中に潜入して、悲しみでもない悦びでもない歌を信じながら死んで行つた一人の友を、此処で再 び永遠に生かさねばならないのだとしたら......」、この最後の「......」という余白の中に安部公房の総ての作品は書かれているのです。その直前の「ならないのだとしたら」という接続法(非現実話法)という時間の無い、そしていつも過去形から生成される条件文を前提にして。

安部公房の作品の総ての主人公は、奉天の窓という差異を潜り抜けて、存在の中へと入って行く。」





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