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2016年10月27日木曜日

安部公房の読者のための村上春樹論:村上春樹の「奇妙な」時間と「奇妙な」空間について

安部公房の読者のための村上春樹論

村上春樹の「奇妙な」時間と「奇妙な」空間についてお話しします。

それは、村上春樹の使う「奇妙な」と云ふ形容詞についてです。

結論を申し上げれば、この形容詞をつけた時間と場所は、死者のゐる時間であり、死者の棲む空間であるといふことです。「奇妙な」と来れば、それは常に死であり死者であるものが招来されるのです。これは繰り返し(人には知られぬやうに)、さういふ意味では呪文として、しかも名詞ではなく形容詞といふ従属的な、さういふ意味では目立たぬことばとして、何度も繰り返し出てきますから、読者は意識せずに読み過ごし、村上春樹の世界の死の領域に「いつの間にか」足を踏み入れることになります。[註1]

[註1]
上の段落で今「ことば」とひらがなで書きましたが、これは村上春樹は死者の世界の言葉である場合には平仮名で書き、生きた人間の世界の言葉である場合には、言語と呼ぶことは、既に述べたとおりです。

前者は、封印作『街と、その不確かな壁』での使用法であり(『文学界』P46ページ以後最後のページまで)、後者は、『職業としての小説家』での使用法です(P218)。村上春樹はこれらの用字法を明瞭な意識を以って使ひ分けてゐます。

前者の用字は地下世界での、後者の用字は地上世界のでコトバを意味してゐるのです。

前者の平仮名のコトバは、壁の中の、即ち死者の世界の、地下世界のコトバであり、後者の漢字のコトバである言語は、地上世界のコトバであるといふことです。

処女作『風の歌を聴け』ならば、前者は地下世界に棲む(一人称である僕と等価であり僕と等価で交換可能な三人称の)鼠のコトバなのであり、僕のコトバは同様に(鼠と等価で交換可能な一人称として)地上世界に住む生きた人間である僕のコトバだといふことになります。


『ノルウエイの森』(講談社文庫下巻)の最後の章である、主人公がレイコさんと自殺した直子の霊を弔う第十一章から「奇妙な」例を時系列順にひいてみませう。

直子の死んでしまったあとに主人公は旅に出ますが、そこは「奇妙な人々が充ち充ちてい」るのです(P248)。その前の「事象」には「不思議な」という形容詞が使われてゐますから、作者は意識的に意図的に前者の形容詞を選択してゐることが判ります。

主人公が山陰の海岸で「流木をあつめてたき火をし、魚屋で買ってきた干魚をあぶって食べ」、「ウィスキーを飲み」、「波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った」あとに来る一行は、「彼女が死んでしまってもこの世界に存在していないというのはとても奇妙なことだった。」のです(P250~P251)。[註2]

[註2]
直子が死んで、主人公が山陰海岸で「波の音に耳を澄ませながら直子のことを思った」とあるのは、実際の現実の作者の本当に愛した女性が、高原の高さの中での首吊り自殺(P258)ではなく、海に身を投じて死んだことを暗示してゐると、私には思はれます。


旅から東京に帰って、もう一人の恋人である緑との電話の後に書かれてゐるのは、主人公が直子を思って次のやうに思ふところです。

「そんな風に彼女のイメージは満ち潮の波のやうに次から次へと僕に打ち寄せ、僕の体を奇妙な場所へと押し流していった。その奇妙な場所で、僕は死者とともに生きた。そこでは直子が生きていて、僕と語りあい、あるいは抱きあうこともできた。その場所では死とは生をしめく来る決定的な要因ではなかった。そこでは死とは生を構成する多くの要因のうちのひとつでしかなかった。直子は死を含んだままでそこで生きつづけていた。そして彼女は僕にこう言った。「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」[註3]と。」(P252)

[註3]
「大丈夫よ、ワタナベ君、それはただの死よ。気にしないで」といふコトバは、封印作の第2章で太字で強調されてゐる、女性が主人公に語りかける次の言葉と互ひに照応してゐます。

「何故、何故あなたはにはわからないの?あなたが今抱いているのはただの影。あなたが今感じているのはあなた自身の温もり。なぜあなたにはそれがわからないの?」

かうしてみると、封印作はやはり「直子」が死んでゐながら、しかし生きてゐる死者の世界を「ことば」によってあらわさうとした作品なのです。しかし、この「ことば」は、人目に晒したくなかった。それほどに、村上春樹にとっては、「直子」は本当に愛した女性であった。

これを表に出すために、一人称と三人称の課題を克服するのに8年を要し、やっと『ノルウエイの森』で、これを実現することができた。この作品は、封印作と見事に照応してゐる村上春樹の納得の作品なのです。しかしまだイケない。何故ならば、『ノルウエイの森』は「言語」で書かれてゐて明るい(といふ意味では処女作以来の書き方の方針通りです)が、「ことば」によって書かれて読者の前に其のやうな、登場人物に死臭の臭ふ作品を提示することができないからです。『職業としての小説家』を読むと、この試みの手応えを村上春樹は多崎つくるの物語で得たといふことなのです(P259)。


そして山陰の海岸を主人公が「西へ西へと歩い」て行くといふ此の言葉は(P253)、やはり西方浄土のことが念頭にあって選択された言葉でありませう。同じ西の方向といふ言葉を、私たちは『若い読者のための短編小説案内』中、長谷川四郎の「長谷川四郎「阿久正の話」」の中で、長谷川四郎は「長谷川四郎はなにはともあれもっと西の方に行ってみたかったのではないか。そこに何があるのかを、自分の目で見てみたかったのではないか。そういう好奇心が彼の中に抑えがたくあったのではないか。僕は彼の作品を読めば読むほど、そういう気がしててならないのです。」と書いて、実は自分自身の心事を表してをります。かうしてみますと、私は未読ですが『国境の南、太陽の西』といふ小説の題名の太陽の西の方角もまた同様の意味であると考へられます。

そして、直子の死後主人公をレイコさんが訪ねてきて、主人公が「かつて僕と直子がキヅキという死者を共有していたように、今僕とレイコさんは直子という死者を共有しているのだ。」(P264)と思った後に、「奇妙に雑然とした庭」を主人公は眺めます。

「奇妙に」とある通り、この庭は死の庭であり、死者の庭です。

さうして、この章では此の庭の前後に主人公が「かもめ」と名前をつけた猫が二人の前に姿を現します。これは猫であるにもかかわらず、海辺に棲む鳥の名前で、それも色の白い鳥ですから、やはり多崎つくるの物語のシロといふ死んだ女性と同様の値を、作者は此の言葉に割り当ててゐることがわかります。

やはり、作者の愛した女性は海で死んだのではないでせうか。[註4]

[註4]
『ノルウエイの森』(上巻)に、次の箇所がある。

主人公が直子といふ愛する女性を其の療養所に尋ね、レイコさんといふ直子を支援する女性に言はれて二人のところから席を外して、外に出て、雑木林の中を歩く時に「僕は奇妙に非現実的な月の光に照らされた道を辿って雑木林の中に入り、あてもなく歩を運んだ。そんな月の光の下ではいろんな物音が不思議な響き方をした。僕の足音はまるで海底を歩いている人の足音のように、どこかまったく別の方向から鈍く響いて聞こえてきた。」(P232)とあり、また更に其のあとで、自分自身が病を得ている人間であるレイコさんが「ねえ、私たちの病気にとっていちばん大事なのはこの信頼感なのよ。(略)そういう信頼感があれば、私たちの病気はまず再発しないの。そういう信頼感が存在する限りまずあのポンッ!は起こらないのよ。嬉しかったわ。人生ってなんてすばらしいんだろうっておもったわ。まるで荒れた冷たい海から引きあげられて毛布にくるまれて温書いベッドに横たえられているようなそんな気分ね。」(P247)



その女性が死の庭に住み、レイコと主人公のところに、それも二人が買い出しに行ってかってきたすき焼き用の肉を欲しいと行って、二人を訪ねるのです。猫の食べる肉はすき焼きの肉かもしれませんが、この猫が直子の霊であると知った後では、もっと触覚と臭覚に訴える生理的に存在する死者だといふことになりませう。(実は、村上春樹の小説の世界を構成するために此の二つの感覚は非常に重要な働きをしてゐるのですが、これは別途稿を改めて論じます。)

さて、さういふ訳で、直子が遺書に書いて「洋服は全部レイコさんにあげて下さい」とレイコに譲って今レイコの着てゐる直子の服なのであり、その遺書の内容になにも書かずに直子が死んで行ってしまったことを、いつもの引き算をする場合の村上春樹の常として使ふ「そんなのどうだてっていいじゃない。」という言葉を口にして[註5]、更に続けて「もっと他に言いたいことは山ほどあったはずなのに」といふレイコに対して、主人公が「何もなかったのかもしれませんよ」(P268)といふ村上春樹の小説の作法である引き算を意味する此の言葉を主人公が返したのである以上、二人はそこに虚構の世界を創出せしめ、レイコは直子の霊になって主人公と交わることになりますし、また交わることの首尾一貫性が作者の中でも登場人物の中でも生まれて、そのやうに仕儀になるのです。

[註5]
『羊をめぐる冒険』の「水曜の午後のピクニック」と題した章に「どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。」とあるのは、同じ論理で「一九七〇年十一月二十五日のあの奇妙な午後」に話が進行するからであり、それが「奇妙な午後」である限り、その時間は死者の時間である以上、三島由紀夫の死もまた死の世界の出来事しては「どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。」と書く事になるのです。

また、水曜日は、村上春樹のBaseball gameの正確な理解によって旧約聖書の創世記の天地創造に則ったgameの規則である以上、天地創造の第三日目といふ意味になります。第三日目は、Godが年月といふ時間を創造し、太陽と月とそれぞれの光を昼と夜に配分し、そのやうに光と闇を分けた日です。

村上春樹が三島由紀夫と自分自身を、夜に配したのか昼に配したのか。三島由紀夫は真夏と太陽が好きでしたし、太陽めがけて飛翔するイカロスでありましたから、村上春樹は自らを夜と月に配したのでありませう。これは如何にも村上春樹らしい。


これが、村上春樹が「「心の闇の底に下降していく」と、そこには「太古と現代が入り交じってい」るという(『職業としての小説家』194ページ)、村上春樹の創作の考へ方を構成することの一つです。

それから、『職業としての小説家』の中で群像新人賞を受賞する直前に、傷ついた鳩を両手で持ち、交番へ届けた村上春樹が、此の時受賞すると確信したこと(同書、58ページ)の逸話が、その後の村上春樹の小説家の人生と其の作品の世界にどういう深い意味を持っていたかが、『ノルウエイの森』(下巻)の最後の最後のところ(P281)に書かれてをります。

そこを読みますと、自分とこの自殺した女性との関係を現実の世界では清算することになるし、そして両手に瀕死の鳩を持って交番に其の生死を委ねた「そのときに僕は間違いなく「群像」の新人賞をとるだろうと」実際にそれを直観して、「そしてそのまま小説家になって、ある程度の成功を収めるだろうと。(略)僕はなぜかそう確信しました。とてもありありと。それは論理的というよりは、ほとんど直観に近いもので」あったことであるのに対して、実際に群像新人賞をとり、(ここまでが現実の世界。これに対して)「そしてそのまま小説家になって、ある程度の成功を収め」て書く小説の虚構の世界では、(ここからは虚構の世界)「僕は直子にずっと君を待っているって言ったんですよ。でも僕は待てなかった。結局最後の最後で彼女を放り出しちゃった。(略)僕自身の問題なんです。(略)僕は自分自身に許しがたいものを感じるんです。レイコさんはそれが自然な心の動きであれば仕方ないって言うけれど、僕と直子の関係はそれほど単純なものではなかったんです。考えてみれば我々は最初から生と死の境目で結びつきあっていたんです」といふ文章、主人公がレイコさんに対して語る此の、物語の骨格が『ノルウエィの森』の結末にある限り、また結末にある以上(P281)、これら二種類の現実と虚構に関する村上春樹の文章を読むと、村上春樹はこの精神を病んだ娘を本当に愛したのであることが判るし、それ故に虚構の世界では変わらずに、この死んだ女性の死を根底にをいて、『直子とは何か?:村上春樹にとっての一人称と三人称の問題』と『ジェイとは何か?:換喩と引き算の文学』に述べる二種類の(A)と(B)の構図のうちに小説を書き続けなければならないといふことになるのです。

このやうに、両手に持った瀕死の鳩「直子」といふ女性であるとおもひ併せてみれば、偶然の暗合なのか必然の暗合なのか、あの「啓示」を得た神宮球場からの帰路道端で拾った此の「瀕死の鳩」が、村上春樹の小説に終始伏流水のやうに地下世界を流れてゐる水脈のやうな女性であり、その死であることが判ります。

いや、他者に「瀕死の鳩」を委ねたのですから、自分では其の生死の結末は本当にはわからない。

瀕死の鳩」を自分の身銭を切って(動物病院へ運んでお金を払って助けるのではなく)、即ち「直子」と共に死ぬことなく、交番へと持って行って他者に預け、その愛する女性の生死と生殺与奪を人に、それも国家権力の末端に預けてしまった(自分の父親は国のために死を賭したのに、死んだ戦友たちがゐたのに、そして其の父親を全面的に激しく内心深く否定した息子であるのに)村上春樹は、「瀕死の鳩」である「直子」の死の後も現実である地上世界では其のやうな罪を犯して生きてゐるといふ贖罪感を抱へたまま、地下世界に死者として生きる「瀕死の鳩」である(「瀕死」であれば生きてゐるかも知れない)「直子」に会ひたいと思ってゐるのです。しかし現実の本当に愛した女性は他殺によるのではなく、自殺によって死んでしまった。この、現実と虚構を巡る論理と感情は複雑です。

この複雑の中に、村上春樹がゐます。[註6]

[註6]
村上春樹は『職業としての小説家』の中で、この自己の有りやうを率直に次のやうに語ってゐます。

「僕が長い歳月にわたっていちばん大事にしてきたのは(そして今でもいちばんだじにしているのは)、「自分は何かしら特別な力にyって、小説を書くチャンスを与えられたのだ」(原文傍点)という率直な認識です。そして僕はなんとかそのチャンスをつかまえ、また少なからぬ幸運にも恵まれ、こうして小説家になることができました。あくまで結果的にではありますが、僕にはそういう「資格」が、誰からかはわからないけれど、与えられたわけです。僕としてはそのようなものごとの有り様(よう)に、ただ素直に感謝したい。そして自分に与えられた資格を――ちょうど傷ついた鳩を守るように――大事に守り、今でもまだ小説を書き続けていられることをとりあえず喜びたい。あとのことはまたあとのことです。」(同書、60ページ)

この言葉の中に、上記にお伝へした鳩と「直子」の関係をお伝へしたかったことと同じことが語られてゐます。勿論、このやうに語る村上春樹であるならば、それが誰のお蔭であるのかは十分過ぎる位に知ってゐるのです。そうであれば、この小説家が小説を書くといふことの意義は、死んでしまった(いや、ひょっとしたら生きてゐるかも知れない)本当に愛した女性の命と青春を、その言葉のままに守り、また葬ひ、且つ荘厳する行為に他ならないのです。[註6-1]

また、「あとのことはまたあとのことです」といふ言ひ方の中に、この作家特有の引き算の論理(同書、P108)と感情と、それから感覚を、私たちは見ることができます。

同じこの瀕死の鳩のことを(これは神宮球場の外部での出来事)、球場の内部でのあの啓示を得た時の経験を、全く内外同等に、従ひ交換可能なものとして、次のやうに述べてゐます。

「そのときの感覚を、僕はまだはっきりと覚えています。それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止めらrたような気分でした、どうしてそれがたまたま僕の手のひらに落ちてきたのか、そのわけはよくわかりません。そのときもわからなかったし、今でもわかりません。しかし理由はともあれ、とにかくそれが起こったのです。それは、なんと言えばいいのか、ひとつの啓示のような出来事でした。」(同書、P47、原文傍線は傍点)

[註6-1]
村上春樹は同じ本の中で、何故年相応の登場人物を書かなければならないのだ?そんな必要を感じないと次のやうに述べてをります。

「ときどき「どうして自分と同じ年代の人間を主人公にした小説を書かないんだ?」と質問されることがあります。たとえば僕は今六十代半ばですが、なぜその年代の人間の物語を書かないんだ。なぜそういう人間の生き方を語らないんだ?それが作家としての自然な営みではないか、と。
 でももうひとつよくわからないのですが、どうして作家が自分と同じ年代の人間のことを書かなくてはならないのでしょう?どうしてそれが「自然な営み」なので賞?前にも申し上げましたように、小説を書いていていちばん楽しいと僕が感じることのひとつは、「なろうと思えば、誰にでもなれる」ということです。なのに僕がなぜそのすばらしい権利を、自ら放棄しなくてはならないのでしょう?」(P260ページ、原文傍線は傍点)と書いてゐて、この段落の後に、『海辺のカフカ』で主人公の年齢を15歳に設定したことを述べ、書いてゐる当時五十歳を少し過ぎてゐた自分と現在の年齢の自分との間に「すばらしい権利」を行使して、「なろうと思えば、誰にでもなれる」人物になって、書くことの楽しみを得た自分の経験を話してゐます。

当然のことながら、村上春樹は死者としての「直子」にもなることができて、喪失した異性と其の時間を恢復することが、虚構の世界で、この論考の中でお伝へしたやうに、できるのです

としてみれば、村上春樹が使ふ「楽しい」といふ言葉もまた、「奇妙な」という形容詞共々、普通の日常の、生きてゐる私たちの用法とは相当に異なってゐるのです。村上春樹が作品中であれエッセイであれ、「楽しい」といふ言葉を使ってゐるところを理解するには、読者としての相当な注意を要します


この場所が、ノルウエイの森の最後に主人公が、もう一人の、これは現実の恋人緑の「あなた、今どこにいるの?」といふ問ひに対して、主人公が最後の段落で自らに問ふ「いったいここはどこなんだ?(略)僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた」電話ボックスといふ箱の意味なのであり、そこにゐて此の問ひを自問自答する理由なのです。

瀕死の鳩」を交番へ持って行ったといふ逸話は、このやうに実に象徴的であり、その後の村上春樹の「職業としての小説家」としての人生を決定的なものにしてをります。

さて、多崎つくるの物語の後に、この「二種類の(A)と(B)の構図のうちに」構図で果たして、愛した死者に対する贖罪の心情がおさまるものか、おさまるためにはどのやうな構造化を小説にしなければならないのか、これが今の村上春樹の課題です。

「二種類の(A)と(B)の構図のうちに」村上春樹が書き継いで来た構図については、別途稿を改めてお伝へします。

最後に、『ノルウエイの森』の最後の最後にレイコさんが主人公を尋ねて演奏する曲数は、いふまでもなくbaseball gameのルールに則って意味があり、9回といふ一式の数で割って余る回数は延長戦なのであり、またその第11章の表裏に演奏される、この最後の章が死の章なのであってみれば、それはビートルズの曲としての死者を葬送する曲なのであり(章立てのininngとしてはこれが表)、またレイコさんが「五十一曲目にいつものバッハのフーガを弾いた」後(章立てのininngとしてはこれが裏)、主人公が(直子の霊が憑依したと古代の人はいふことでせうが、そのやうなヒトとしてある)レイコさんと性交する4回といふ回数もまた、旧約聖書では四日目はGodが(人間以外の)鯨、獣類、鳥類を創造した日であって、この日までには人間はまだ創造されてはをらずにゐて、獣として交わったのか又はこれから生きた人間として地上に生まれて来るといふ意味であるのか、いづれにせよthree Outで二人は死んで、余ったone ininngである次の新しい4日目のininngの新しい天地創造の日の連続が、7日目の安息日まで至ることを意味してゐます。

「五十一曲目にいつものバッハのフーガを弾いた」といふレイコさんのバッハは、baseball gameの9回までを一式として割り算すると、48回+3回といふことですから、楽園から追放された二人が、表と裏を攻守ところを代えて性愛を交わして、その後に10回、10th ininngの表に死者としての二人の不毛な性交[註7]を祝福するために演奏された曲といふ事になり、その裏の回には、二人は別れ、レイコさんは確かな意志を持って北海道の旭川へ、主人公は東京に留まって緑に電話をするといふ段になり、後者は「あなた、今どこにいるの?」といふもう一人の恋人緑の質問に対して、電話ボックスの中で「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけてい」て答へる事ができない中ブラリンの贖罪の状態状態のままになってゐるのです。

[註7]
この死者の国での、根の国での男女の性の交換は、処女作『風の歌を聴け』の「ハートフィールド、再び……(あとがきにかえて)」の最後に言及されてゐる、作者が引用した典拠として謝辞を述べてゐる「マックリュア氏の労作、「不妊の星の伝説」(Thomas McCLure; The Legend of the Sterlie Stars: 1968)」の「不妊」(Sterlie)といふ形容詞を想起させます。


追記:
初期3部作では、死と死者と死の場所を意味する「奇妙な」といふ形容詞は、『風の歌を聴け』では3回、『1973年のピンボール』では3回、『羊をめぐる冒険』では(目次のも入れて)43回出てきます。

1作目、2作目の3回といふ数から飛躍的に数を増やした3作目の数は、量的に見れば、やはり此の作品が次の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』への飛躍する特徴ある作品と考へることができます。

さうしてまた、2作目と3作目の間にある封印作もまた、この観点から吟味する事によって、村上春樹の文学を一層理解を深く理解することができることでせう。







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