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2016年10月29日土曜日

安部公房の読者のための村上春樹論:安部公房の「奉天の窓」から村上春樹の世界を眺める


安部公房の「奉天の窓」から村上春樹の世界を眺める
~村上春樹の人称と話法の問題を解く~


村上春樹は、自作の中の同じまたは類似の言葉をその後の作品の中に繰り返し引用してをります。例へば、 『ノルウエィの森』には、青豆も 「ねじ巻き」も出て来ますし、これはこのまま 『1Q84』にも『ねじまき鳥クロニクル』にも登場するのでせう。また、それ以外にも、引き算による登場人物の科白には、その引き算といふ演算に拠る論理に基づく科白が頻度高く出て来ます。

さて、繰り返しの言葉を青豆や 「ねじ巻き」の話に絞りますと、安部公房も同じで、猫は二つの小説の最後で同じcontextで、ほとんど同じ文章で、小説の最後に、即ち主人公が存在の中へと入ってゆく際に、往来の激しい道路でたくさんのトラックに轢かれてペシャンコになって煎餅のやうになつてゐます。

一つは 『燃えつきた地図』、もう一つは 『方舟さくら丸』です。 

何故猫がトラックに轢かれて死ぬかといふと、これも主人公の心と眼前に見える現実の景色を表してゐて、最後に存在の中に消えて行く主人公が、その猫の死によつて存在への方向を暗示され、また猫が轢死するのは、トラックといふ道路、即ち道の上を時間の中で疾走する乗り物によつて殺されるからです。 [註] 

[註1]
安部公房は自動車が大好きでした、何故なら自動車には、

(1)窓があるから、それから、
(2)バックミラーがついてゐて、
  1。前を見ながら後ろが見え、
  2。後ろを見ながら、前進できて、 
(安部公房は小学生のとき奉天の冬の吹雪が余りに厳しく、まっすぐ前を向いて歩けないので、後ろ向きに歩いて風を避けるために、後ろ向きで前進できる眼鏡を考へたことがあります。) 
(3) 『天使』や 『魔法のチョーク』や 『箱男』その他の作品に頻出するやうに、それは箱であって、即ち閉鎖空間であるから


安部公房は、三島由紀夫と同じ、再帰的な(recursiveな)人間で、つまり自分自身のテキスト以外のテキストからは引用しない人間、即ち合わせ鏡の中に棲む人間です。(この人間像については『安部公房の変形能力17:まとめ〜安部公房の人生の見取り図と再帰的人間像〜』もぐら通信第17号)をご覧ください。)
まとめ

としてみれば、処女作で既に僕(一人称)が鼠(三人称)であったことからわかるやうに、鼠は僕の鏡であったのであり、このやうに考へて参りますと、村上春樹も再帰的な人間といふことになります。

さうすると、その後の 『ノルウエィの森』までの村上春樹の努力は、自分自身の本来人間として持ってゐる再帰性、この自己参照の合わせ鏡の世界である地上世界と地下世界の、また鼠(村上春樹)と白鼠(喪失した最愛の女性)の関係を、どのやうに整理して秩序立て、即ち虚構の物語に変形させて復活をさせ、其の人生を褒め称え、その霊を追悼し、その地上世界と地下世界との関係に有る其の関係をも含めて、これら全体をどのやうに荘厳するかといふ腐心と苦心であつたことが判ります。 

さうであれば、村上春樹の此のやうな作品世界を理解するために、同じ再帰的な安部公房の方法論である数学の世界のtopology(位相幾何学)を使つて、また其の言語機能論を使って、村上春樹の世界を解き明かすことができます。それには、次のやうなmatrixで考へるとよいといふことになります。つまり、安部公房の「奉天の窓」から村上春樹の世界を眺めるのです。

まづは、「奉天の窓」のblancの、白紙の、余白の、ご破算のmatrixです。(クリックすと大きくなります。)



また、これ以外にも此のmatrixの列の頭、行の頭に置くべき言葉があるでせう。さて、取り敢えず、行の頭の言葉を、これらの言葉だとして置いて見て、具体的な作品に当て嵌めてみると次のやうになります。

以下の「奉天の窓」のmatrixで、黄色のセルは、処女作『風の歌を聴け』で村上春樹が抱へてゐた小説家としての課題でした。これを8年後の評判作『ノルウエイの森』で如何に此の問題を克服したかといふことが明瞭に解ります。






このmatrixを眺めて判ることは、次のことです。

つまり、処女作は、一人称/三人称と地上世界/地下世界の物語であって、地上世界の僕(一人称)はーそして何より作者自身が直接にではなく、デレク・ハートフィールドといふ架空のアメリカ人の小説家を創作しなければ、つまり間接にでなければ、この物語を語ることができなかつた。即ち、

まづ何よりも作者自身が神宮球場でのD.H.体験」といふ「啓示」に基づく架空の媒介者・媒体を必要とした。

そして、処女作せは、地下世界の女性(死者)とは通信ができなかったのに対して、『ノルウエイの森』では、手紙(書簡)といふ媒介者・媒体を介して、地上世界/地下世界の男/女が、異人称同士で通信ができるやうになったといふことである。

書簡を使用するといふ事は、これは話中話の設定であり、劇中劇の設定と同じである。つまり、小説の中にもう一つ小説を設定するわけである。これは、文法的には話法(mode)の問題であつて、話法に話法を挿入する、即ち、主語である村上春樹の語る従属文の中に更に、主語を立ててその主語に従属文を設定させたといふ此の企(たくら)み[註2]よって、村上春樹は自分の小説制作上の欠点を克服したといふ事なのである。

[註2]
私は知ってゐる話中話の設定の例は、安部公房は頻度高く此の話法を使ひますので此れを外して、その他に成功してゐる例を挙げれば、谷崎潤一郎の『蓼喰ふ虫』や『蘆刈』があります。

安部公房は極く最初期の作品『白い蛾』(1947年、全集第1巻、211ページ、安部公房23歳)から、この話中話を使ってゐます。劇中劇についてはいふまでもありません。


この2人称を欠いた小説の書き方を、村上春樹は実に正確に「「すかす」ような書き方」と言っています。(『職業としての小説家』、271ページ)

そして、この欠点を克服しなければ、丸谷才一の批評してくれたやうな「深く大柄な小説」は書けないと考へたのです。(『職業としての小説家』、271ページ)

村上春樹は英語に堪能な日本語の作家として、十二分に此のことを知ってをりました。それが『職業としての小説家』で村上春樹が人称と話法についていふ次のことなのです。

「とくに小説が小説が長く大きくなるにつれて、「僕」という人称だけではいくぶん狭苦しく、息苦しく感じるようになってきました。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」では、「僕」と「私」という二種類の一人称を章ごとに使い分けていますが、それも一人称の昨日の限界を打開しようという試みのひとつだと思います。

 一人称だけを用いて書いた長編小説は、『ねじまき鳥クロニクル』(一九九四・九・五)が最後のものになります。しかしこれだけ長くなると、「僕」の視点で語られる話だけではおっつかなくて、あちこちに様々な小説的工夫が持ち込まれています。他の人の語りを入れるとか、長い書簡をもってくるとか……とにかくありとあらゆる話法のテクニックを導入して、一人称の構造的制限を突き破ろうとしています。しかしさすがに「これがもう限界だな」と感じるところがあり、その次の『海辺のカフカ』(二〇〇二)では半分だけを三人称の語りに切り替えています。カフカ少年の章はこれまで通り「僕」が語り手になって話が進みますが、それ以外の章は三人称で語られています。折衷的と言えばそのとおりなんですが、たとえ半分であるにせよ三人称というヴォイスを導入することによって、小説世界幅を広げることができた――と僕は思っています。少なくとも僕自身はこの小説を書きながら『ねじまき鳥クロニクル』のときよりは、手法的なレヴェルで自分がずっと自由になっていると感じました。」

さて、上述の作者自身による解説の念頭に置いて、上の「奉天の窓」から再度村上春樹の世界を眺めてください。作者自身による解説の通りになってゐて、それが小説の登場人物同士の関係ではどのやうであるのかを容易に知ることができることがお分かりでせう。

さうして『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』の自作がどのやうに展開するのかもまた、予測がつくのではないでせうか。何故ならば、今までの村上春樹の世界に起こらないことは、次のことだからです。

1。地上世界の僕が、決して地下世界に降りて行って、地下世界の女性たちと話をしないこと。

2。地上世界の僕の隣人である言語障害を持つ男性や指の一本多い男性(ともに地下世界の男性が地上に出て来た者)や、それから指の一本少ない女性(地下世界の女性が地上に出て来た者)が消えた後も、その男性や女性とは通信をする意志が全くないこと。

3。上記1と2といふ作者の心理的な問題を克服した上で、僕といふ一人称と三人称の男女との間の通信が、処女作『風の歌を聴け』の場合のやうには直接話をすることがまだないといふこと。つまり、僕と鼠や、僕とジェイがさうしたやうには、処女作のあとの作品では直接話ができてゐないこと。

これら3つの問題を解決した小説が書けるかどうかが、今後の村上春樹の課題なのだと、私は思ひますが、あなたは如何?

つまり、baseball gameの規則を適用して云えば、果たして村上春樹は、三塁(3rd base)を廻って、本塁(home plate)といふ自分自身のふるさとに帰還して、即ち2塁には留まらずに3塁へ行き、3塁から本塁へと線を引いて、さうして、(またさうしなければ、)地上世界と地下世界の真ん中にある虚構の世界で永遠に『ノルウエイの森』の「直子」と一緒に暮らすことができるし、(さうしなければできない)、そのやうな小説が書けるかどうかといふことなのです。

それを果たすには、村上春樹は三塁打(a triple)を、あの嫌いなbatを持ってbatterとなって振らねばならず、ball、即ち(イスラエルでの文学賞受賞式の講演で、あくまでも卵につくと云った其の)卵を自分のbatたるシステム(壁)で、父親への否定の感情と論理を克服して、打たねばなりません。

これが、自分自身で創造して来た隠喩(metaphor)の、やはり、総決算になるのです。

しかし、baseball gameのルール・ブックには、自分の打ったballが、3塁から本塁に帰って来きた打者に帰って来るといふルールが果たしてあるのでせうか?

村上春樹は、いよいよ自分の規則で虚構の世界を創造しなければならないのです。さう、自らがGodにならなければならない。さうでなければ、父親を否定して来た此の作家は、やはり日本人として八百万の神々の世界に回帰する以外にはないでありませう。

その時に、村上春樹の世界は、汎神論的存在論の世界になる筈です。今は一神教のGodを前にして自己分裂してゐる。

隠し持って来た筈の、その古典の教養を生かした神話的な世界を創造してもらひたい。それは可能な筈です。何故ならば、旧約聖書に拠って作られたアメリカ人のbaseballといふgameの創世記は、隙間(夕方)から起算され隙間(朝方)で一つの単位として、天地創造の一日が計算されてゐるからです。

ここに、村上春樹の論理上の、また感情上の、矛盾と背理は解決されます。

何故ならば、これは此のまま、空間の隙間、時間の隙間から生まれる多次元宇宙を生涯書き続けた安部公房の世界の、天地創造の方法論でもあるからです。言語の問題としても、また。








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