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2012年10月13日土曜日

安部公房の墓2 


安部公房の墓2


安部公房のお墓に今日参りました。墓参を致しました。

その写真を掲載します。

安部公房のお墓は、東京都八王子市の郊外にある上川霊園という墓地にあります。

JR八王子駅下車北口駅前のバス停7番乗り場から八23または秋03上川霊園行き乗車所要時間約45分終点上川霊園下車霊園内周回バス乗車13番停留所下車徒歩20秒2区8番区画140です。

以下に安部公房の墓地の写真を、上から上梓します。それから、安部公房の敬愛せる師匠石川淳の墓も。(その他、詩人金子光晴の墓にも、一緒に詣でました。この写真は詩文楽をご覧下さい:http://shibunraku.blogspot.jp/2012/10/blog-post_13.html


1。上川霊園の門
2。2区8番区画の全景
3。安部公房の墓の全景
4。墓石近影
5。墓石側影
6。2区8番の案内板(番地が振られている。迷わずに辿り着けるだろうか?)
7。師匠石川淳の墓のある高台から見た安部公房の墓のある区画
8。石川淳の墓(石川とだけ書いてある。)
9。安部公房の墓の住所の書いてある、管理事務所でもらった番地案内図表の一部


安部公房の墓を探すのに30分掛かった。何故なら見つからないから。これは、わたしにはよくある経験なので、そうか、やはり見つからなかったか、それもわたしらしく、また安部公房らしくてよいかな、では石川淳の墓を詣でようと歩き始めると、右手に2区8番区画の案内板が立っていたのでした。

もし石川淳の墓を詣でるという心がなかったら、安部公房の墓を見付けることはできなかったことでしょう。石川淳に感謝です。

そうして、確かにありました。

目測で、縦40cm、横30cmの小さな、これは何と言う種類の石なのでしょうか、緑の中に白の線条が幾つも練られたように走っている小さな、無名無銘の墓石でした。

これは、如何にも安部公房らしい。遺族の方のこころが偲ばれます。

この石を見て、わたしが感じたのは、侘び寂びの精神です。

それは、安部公房の作品に対する世評とは全く異なり、また裏腹に、やはり、安部公房はこの侘び寂びに通じる日本的な伝統と歴史の中に、わたしはあるのだと思いました。

それは何故かといえば、10代から既に言語の本質を知悉して、無名に徹する人生を歩んだからです。安部公房の主人公は、みな無名無能の人物です。

それは、ひととことで言えば、風狂というのです。安部公房の文学は、一見そうは見えませんが、実は、風狂の文学です。

そのように言えば、日本文学の歴史の中に、安部公房の正統な(というと、本人は嫌うでしょうが)位置が見えると思います。

(その先達の一人は、間違いなく、吉田兼好です。それから、一休和尚、そして、松尾芭蕉。)

それは、只々無名に徹するという精神から生まれた世界です。

日本人である個人が無名に徹するという人生を選択したときには、日本人のこころは、その人を、侘び寂びの境涯、風狂の世界へと運ぶもののようです。

ドナルド•キーンさんが、安部公房は実に日本的な作家だといっていることは、このことと深い関係があると、わたしは思います。

勿論、18歳、19歳、20歳の、10代の作品を読むと、実に論理的に宇宙を思考し、個としての人間を思索しています。その思索の徹底性から生まれた後年の小説群、劇作群であることは、間違いありません。

実に人間である自分自身に徹して言葉を体系的に紡いだ安部公房。

もし、あなたが安部公房の墓参にいらっしゃるのであれば、わたしは八王子に住まいしておりますので、よろこんでご案内致します。
ご連絡下さい。

そうそう、管理事務所でもらった墓地に眠っている有名人の表に、安部公房があるわけですが、その名前が阿部公房になっていたので(写真をごろうじろう)、帰り際に、その管理事務所により、地図をもらった年配の社員の方に再度声を掛けてお礼を申し上げ、安部公房の読者がこれからも来ると思うから、名前を阿部公房から安部公房に訂正して下さると有難いとお願いしたところ、それは訂正しますと言って、こころよく備忘を書いていてくれておりましたから、次回あなたが詣でるときには、貰う表の名前は安部公房に訂正されていると思います。まあ、こんなことが言えるというのは歳の功ということでしょう。

以下写真をご覧下さい。


[岩田英哉]

















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