バロック様式とは、17世紀のヨーロッパ、ドイツが諸国に蹂躙された30年戦争の起きた時代の様式で、その時代からいっても、人間が今日在ることが明日は無いかもしれない、自分は今日生きているが明日は死ぬ事があると考えたことから生まれた様式です。
その文章上の様式、即ち文体においては、息の長い文体でありました。そうして、もうひとつの特徴は、グロテスクであることを厭わないということです。
安部公房を発見した埴谷雄高は、自分と同じ主題を探究する若い作家を発見したということの他に、やはり、上に述べた死生観から言って、ともに自分自身を未分化の状態におくという、そのような物と考え方と態度に共感を覚えた筈です。
未分化の状態の人間とは、全く社会の中に生きている人間とは異なって、その外に展開する宇宙のことを思考する。そうして、法律の外に生きている無名の人間です。
また、そのようなことから言って、未分化の人間とは、社会的な役割を演ずることのない状態、即ち素っ裸の人間という意味です。従い、社会的には、無能力者であり、無力である人間です。
その同じところから書き始めた埴谷雄高には、ネスト構造(入れ籠構造)の重畳長大な文体が、他方、安部公房には、グロテスクネスが、日本語の文学の世界に生まれたということになるでしょう。
それが、大東亜戦争に敗北した後の戦後に生まれたということが興味深いことです。戦後という時代も、本来やはり、明日のことはどうなるかわからない時代だったのではないでしょうか。大多数の人間達は、芸術家も含めて、これらふたりとは全く正反対の道を歩んだように思われます。
さて、そうして、安部公房のグロテスクネスと言えば、やはり密会という小説を思わずにはいられません。
これらの特徴の他に、バロック様式の精神から生まれた、その特徴のひとつに迷宮、迷路というものがあります。
わたしの好きなドイツのバロック様式の庭園に、シュヴェッツィンゲン (Schwetzingen)という町にある宮殿の庭園があり、そこに、世界の涯(はて)と題された庭園があります。
その写真を掲示しますので、ご覧下さい。最初がその庭園の全体です、その庭園の世界の涯を眺めるために立つ場所、次に遠景、その次に近景です。
17世紀のドイツ人の創造した世界の涯をご覧下さい。
安部公房の小説が迷宮と迷路の小説であることは、いうまでもありません。
そうそう、もうひとつ。ドイツのこの17世紀のバロック小説に、わたしの好きな阿呆物語とい小説があります。
これは、安部公房の小説の主人公同様に、ふた親のいない孤児が主人公で、森の中で隠者に育てられ、その後森を出て当時の混乱した社会を遍歴する物語です。
当時出版されたこの本の表紙の写真をお目にかけます。人間の真の姿は、実は、今も昔も、このようにグロテスクな、奇怪な姿なのではないでしょうか。
[岩田英哉]
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