人気の投稿

2012年10月6日土曜日

「終わし道の標べに」を読む2:安部公房の小説と神話の構造



「終わし道の標べに」を読む2:安部公房の小説と神話の構造

この小説は、「かく在る」ことからの逸脱、逃亡、逃走、遁走の小説である。

「かく在る」ということを、ドイツ語でdas Dasein(ダス・ダーザイン)という。

「かく在る」とは、次のふたつのことからなっている。

1.今かく在る。(時間)
2.この場所、ここに、かく在る。(空間)

これが、Dasein(日本の哲学者は、現存在と訳した)という言葉の意味です。

こう書いてくると、安部公房の小説の主人公たちは皆、「かく在る」こと、即ちdaseinということからの逸脱と遁走の志を持った主人公たちであることがわかる。

これは、簡単に説明するとどういう話かというと、それは浦島太郎の話と同じ話である。

浦島太郎は、あるとき、ある場所で(これが「かく在る」ということ)、子供たちにいじめられている亀を助けるという契機によって、全く別の世界(竜宮城と呼ばれる世界)に行き、そこで暮らして歳月(時間)を忘れるが、その暮らしに飽きて、お土産(玉手箱)を貰って、もとの世界に帰って来ると、自分自身が変容しており、(白髪白髭)のおじいさんになっているか、または世界がすっかり変わっている。

埴谷雄高は、安部公房のこの小説を採用するに当たって、この小説を正しく理解したことは間違いがないと思われる。何故ならば、埴谷雄高の書いていた小説「死霊」とは、三輪家の異母兄弟たちが、人間に同義語反復の文の生成を許さない、または赦さない(これを埴谷雄高は自同律の不快と呼んでいる)、そのような存在(ドイツ語でdas Sein、ダス・ザインという)に対して挑戦する話(長編、長大の散文詩ということができる)だからである。

存在(das Sein、ダス・ザイン)に対して挑戦する以上、当然のことならが、主人公たちは、現存在(das Dasein、ダス・ダーザイン)のあり方から甚だしく逸脱をすることになる。

そのような主人公たちの登場する話を書いていた埴谷雄高は、安部公房のこの小説を理解したことは間違いがないと思われる。

この場合、ふたりの共通項は、Sein(存在)とDasein(現存在。「かく在る」こと)というドイツ語の概念を、よく知っていたということと、そのことに関係してある言語、言葉に対する深い関心と興味、または理解である。それは理解以上であるので、認識といってよい。

埴谷雄高は、その言語に対する認識を、一言、自同律の不快という言葉で言い切り、表した。

安部公房の言語に対する深い関心の持続は、最晩年に至るまで、若い時代から、全く変わることがなかった。

さて、話を浦島太郎の話、即ち安部公房の小説の構造の話に戻そう。

安部公房の小説は、どのような小説であろうと、上に述べた浦島太郎の構造、結構を備えている。これは、神話の構造である。

安部公房の小説は、色々と安部公房の様々な衣装を纏い、意匠を凝(こ)らされてはいるが、いづれも現存在からの逸脱と遁走と、異なる次元での出発点への回帰、即ち終わった地点での逆説的な出発という点では、繰り返し、神話と同じ構造をしているのだ。

カンガルー・ノートでは、浦島太郎の亀を助ける契機に相当するものが、脛(すね)からカイワレ大根が生えてくるという奇抜な着想であった。これを契機として、主人公は全く別の世界、病院という別種の世界に迷い込む。その世界を離れて戻ってくるときに、主人公は何かお土産を貰っている筈だが、それは何であっただろうか。

といったように、あなたも安部公房の色々な小説を読み解いては、如何でしょうか。

「かく在る」こと、即ちdaseinということからの逸脱と遁走の志を持った主人公たちであるというところが、安部公房に特有の、主人公たちの特徴である。

(この稿続く)


[岩田英哉]

0 件のコメント:

コメントを投稿