もぐら感覚2
更に、しかしまた、もう少し、安部公房の感覚に忠実に考えてみましょう。
安部公房全集第1巻に「<僕は今こうやって>」と題した、見開き2ページの文章があります。これは、安部公房19歳のときの作品です。
そこにこう書いてあります。
「僕はマルテこそ一つの方向だと思っている。マルテが生とどんな関係を持つか等と云う事はもう殆ど問題ではないのだ。マルテの手記は外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記なのだ。マルテは形を持たない全体だ。マルテは誰と対立する事も無いだろう。」
この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」とは、なにかこう、いかにも土を掘るような感じを与えます。
この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」のことを、後年、安部公房は「消しゴムで書く」と言っています。
(この「えぐり取」るという感覚は、造形的な感覚です。わたしはここに、リルケの深い理解をみるものです。リルケの詩もまた、時間を捨象した、即ち変化しない、空間の、造形的な世界だからです。)
もぐらのように外面をえぐり取るということはどういうことかといいますと、目の前にある物事を形象、イメージに転化して、そのイメージを言葉で表すということ、作家のこの仕事のことを言っています。
これが、安部公房のいう「詩以前の事」(「第一の手紙~第四の手紙」)を語ることなのであり、その形式が、手記という形式なのです。(安部公房にとっての詩と小説の関係について:http://sanbunraku.blogspot.jp/2012/08/blog-post_28.html)
従い、譬喩(ひゆ)でいうならば、安部公房の書いた手記形式の小説とは、みな、語り手のもぐらの手記なのです。
遺稿の中に「もぐら日記」という日記があって、その日記にもぐらを冠した安部公房の感覚は、こう考えて来ると、よくわかります。
わたしも多分、もぐらの中の一匹なのでしょう。
いや、こうして安部公房の愛読者である、あなたもまた。
[岩田英哉]
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