「終わし道の標べに」を読む7:13枚の紙に書かれた追録
3つのノートを書いた上に、何故この追録が必要であったのか。それを、以下に引用する文章によって、知ることができる。
これらの言葉を、語り手は書かずには、3つのノートを締めくくることができないと思ったのだ。これは、そういう意味では、3つのノートの種明かしでもある。勿論、既に3つのノートのあちこちで、繰り返し変奏された主題ではあるのだけれども。
以上述べ来たり、論じ来った3つのノートに対するわたしの感想を読み、以下の引用を読むと、10代、20代の安部公房の姿が、鮮明になるのではないだろうか。勿論、その姿は、晩年に至るまで、変わることがない。
1。引用1
粘土……本質的に形態をもたぬもの……したがって、あらゆる形態が可能であり、しかもそのすべての形態が、つねに過程にしかすぎぬもの……あたかも、大地の霧のように……霧……あの出発の朝……もしかすると、私の十年間は、単にあの朝の反復にしかすぎなかったのではあるまいか。境界線を踏み越えようとする、ただその瞬間の……。
しかし、いま問題なのは、この結晶の芯にあるものが、はたして行為なのか、それとも単なる認識なのかということだ。そう、それこそおそらく問題の核心に違いない。できればもう一度、あの粘土塀の終わったところ、荒野の門に、立って見ることだ。
(省略)書くことの意味を問われたら、私はたぶん、答えることだと答えるしかなかっただろう。しかし、なぜ答えなかればならないのかは、私にもさっぱり分からない。
2。引用2
しかし私は、やはり書くだろう。その若者のことを書き、陳のことを書くだろう。いずれ私はそんなふうにやってきたのだ。たとえ誤解であろうと、行為のつもりで歩きつづけてきたのである。認識のない行為は、地獄かもしれないが、行為のない認識は、たぶんそれ以上に地獄なのではあるまいか。
3。引用3
ここはもはや何処でもない。私をとらえているのは、私自身なのだ。ここは、私自身という地獄の檻なのだ。いまこそ私は、完璧に自己を占有しおわった。もはや私を奪いにくるものは何もない。おまえ(傍点あり。第2のノートに登場する10代の美しい娘のこと)の思い出さえ、すでに私には手がとどかないものになってしまった。手をうって快哉を叫ぶがいい。いまこそ私は、私の王。私はあらゆる故郷、あらゆる神々の地の、対極にたどり着いたのだ。
だが、なんという寒さ?なんという墜落感?間もなく日が沈む。そろそろ書いている字も読めなくなってきた……。
さあ、地獄へ?
(この稿続く)
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