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2014年11月29日土曜日

安部公房が日本共産党に入党した年月日についての新しい知見



安部公房が日本共産党に入党した年月日についての新しい知見

今月号のもぐら通信(第27号)に、草月流の家元二代目である勅使河原宏の、安部公房についてのエッセイを転載致しました。

このことで、お世話になりました草月会に、この号をお届けしたあとに、安部公房の日本共産党入党の正確な年月日が、その資料の中でわかるのであればお教えいただきたいとお願いを致しましたところ、次の回答がありました。

これは、安部公房の研究者、読者にとっても、あらためて認識を新たにすべきことだとおもましたので、ここに、その戴いた回答を引用して、お伝え致します。

「入党に関わる資料は、残念ながら弊会には残されておりません。

しかし、以下のような資料がございましたので、ご参考までに記載しておきます。

瀬木慎一著『日本の前衛1945-1999』(2000.1.15生活の友社発行)には、安部らとともに1951年3月に入党申し込みをしたにもかかわらず、宏だけ受理されなかったということが記載されております。

また、宏自身も、大河内昭爾、四方田犬彦とともに著した『前衛調書』(1989.8.25学藝書林発行)という鼎談集のなかで、家元の息子なので入党は勧められなかったと語っております。」

この回答でよくわかることは、安部公房の入党の申請が、1951年3月であったということです。

初期の安部公房論者、高野斗志美は、次のように書いております(『安部公房を語る』、67ページ。あさひかわ社刊)。

「それによれば、詩人の関根弘と手を組んで安部公房は「世紀の会」という前衛芸術の運動体を起こしています。さらに、岡本太郎や花田清輝らを中心とする「アヴァンギャルド芸術研究会」に合流していきます。この間に、「夜の会」が岡本と花田によって結成され、安部公房も参加しています。そして、やがてかれは「人民芸術集団」を組織したあと、急速にコミュニズムに接近し、野間宏の推薦で、故勅使河原宏といっしょに日本共産党に入党しています。」

この高野斗志美の文章が何を根拠にしたのかわかりませんが、草月会からの今回の回答によれば、

1。勅使河原宏は、日本共産党には入党していない。
2。安部公房は、1951年3月に日本共産党に入党の申請をしたということ。

この二つです。

従い、安部公房が日本共産党に入党の許可を得たのは、3月中なのか、その後の数ヶ月の間と考えるのが順当でありませう。

既に、もぐら通信は、日本共産党に安部公房の入党の日付を照会しておりますが、その回答は、やはり資料、記録が残っておらず、分からないというものでした(もぐら通信第17号)。

世上流布している、安部公房1951年説は正しいものと思われますが、同年3月の入党は確実ではありません。

あとは、野間宏の推薦が、高野斗志美の言う通りに正しいとして、野間宏の資料の中に、何かその3月何日の特定できる資料があるかどうかということになります。








『梨という名前の天国への階段、天国への階段という名前の梨 ~従属文の中の安部公房論~』の無料キャンペーンのお知らせです


今日発行したもぐら通信の編集者通信に書いた『梨という名前の天国への階段、天国への階段という名前の梨 ~従属文の中の安部公房論~』を、Kindleで上梓しましたのでおしらせします。

いつものように無料キャンペーンを行います。

期間は、11月30日から12月4日までの5日間です。

ご関心のある方は是非ダンロードなさってください。次のURLです。


今まで誰も書いたことのない安部公房論です。

山口果林さんの『安部公房とわたし』に書かれた幾つもの逸話と、同書に掲載の安部公房製作のオブジェについて、安部公房の言語観から解釈を施し、安部公房という人間を、あたなにお伝えすることができたと思っております。



アマゾンを使って、一体どんな安部公房の作品が世界に出廻っているのかを調べました。


アマゾンを使って、英語とドイツ語圏で、一体どんな安部公房の作品が世界に出廻っているのかを調べました。

以下、表にして示します。







勿論、これ以前に翻訳された作品はあることでしょうが、この二つの言語圏では、これらのものが流通しているということです。

東欧圏など、安部公房のファンのいる地域の言語で調べると、もっと多くなるかも知れませんが、しかし、東欧圏にはアマゾンがありません。


もぐら通信(第27号)を発行しました。

こんにちは、


もぐら通信(第27号)を御届け致します。次のURLにてダウンロードして下さい。



今月号も、

1。ニュース&記録…page 2
2。目次…page 3
3。夢:勅使河原宏…page 4
4。安部公房との時代(3):中田耕治…page 7
5。詩人たちの論じた安部公房論(1):飯島耕一の『安部公房―あるいは無罪の文学』:岩田英哉…page 12 
6。もぐら感覚22:ミリタリー•ルック(1):岩田英哉…page 23
7。読者からの感想...page 40
8。編集者通信:梨という名前の天国への階段、天国への階段という名前の梨 ~従属文の中の安部公房論~ …page 4
9。編集後記:…page 46
10。次号予告... page 46


など、興味深い記事が満載です。

今月ものんびりと、ゆるやかに、安部公房との時間をお楽しみ下さい。

では、また次号まで、


もぐら通信

2014年11月28日金曜日

安部公房のベスト10をリストアップして、取材を受け、安部公房作品のレビューを書いて全国に発信してみませんか?


安部公房のベスト10をリストアップして、取材を受け、安部公房作品のレビューを書いて全国に発信してみませんか?


月刊誌『東京グラフィティ』で次の企画があります。面白い企画だと思いますので、あなたも遊び心を以って、参加なさってはいかがでしょうか?わたしも安部公房のベスト10をリストアップして、参加しようと思います。

月刊誌『東京グラフィティ』編集部が、『東京グラフィティ』1月号(12月23日発売号)の特集企画「ファンが選ぶ作家・監督ランキング」で、ぜひ安部公房ファンのあなたに取材をさせて戴きたいといっておりますので、あなたにお伝え致します。

『東京グラフィティ』は、毎月、等身大の様々な方が 1000人近く登場するカルチャー誌(全国誌)です。 (同社HPをご覧ください→http://grfft.com/ ) 

次号の特集企画「ファンが選ぶ作家・監督ランキング」で、安部公房のページを予定しています。

そこで、是非あなたに安部公房の好きな作品のランキングと、作品についてのレビューをお願いしたいとの同社からの連絡があり、また安部公房ファンを探しているとのことですので、ここに企画の詳細を掲示して、安部公房ファンのあなたにもお知らせし、楽しみながらご協力を戴ければ、ありがたいと思います。

取材の流れは下記の通りです。

①安部公房作品の中から個人的ベスト10を挙げていただき、メールにて後述するご担当の方のメールアドレス宛に送付
 ↓
②安部公房ファンから集まって来たファンの個人的ベスト10を編集部で集計し、安部公房ファンのベスト10を算出
 ↓
③編集部より安部公房ファンのあなたに、編集部の指定する1作品についてレビューを書いてもらう

このような流れになります。

さて、この場合、安部公房ファンのあなたにお願いしたいことは下記の2つです。

①安部公房作品の中からベスト10を挙げていただく(11月30日まで)
②指定の作品にかんするレビューを書いていただく(12月4日まで)
 *その際、文字数等の詳細は改めて編集部より連絡が来ます。

また、掲載の項目は下記の通りです。

・1作品のレビュー
・名前(ニックネーム可)
・年齢
・職業
・顔写真(後ろ姿やあまりにもお顔が見えないものはNG)


あなたの安部公房の作品のベスト10を、メールにて11月30日までに、次のメールアドレスに、同誌ご担当の深川紅緒(ふかがわべにお)さん宛にお送りください。


最後に同社のこの企画についてのチラシを掲げて、そのイメージをあなたにお伝えします。あなたの安部公房についてのレビューが全国のコンビニや、書店や、アマゾンに並ぶというのは、一寸楽しいことではないでしょうか。







2014年11月27日木曜日

空海と安部公房


空海と安部公房

安部公房の祖父母が、四国の讃岐の国、今の香川県の出身であり、安部公房が、その血を受け容れた記念すべき作品が『カンガルー・ノート』です。

讃岐の国は、西暦8世紀から9世紀に生きた空海、即ち弘法大師、お大師さまの国で、安部公房の『カンガルー・ノート』に和讃、御詠歌の歌われるのは、不思議なことではありません。

空海の幼名は、佐伯眞魚(さえきのまを)といいます。

空海と同じ讃岐の国の血をひく安部公房が、『箱男』の中に、眞魚ではなく、贋魚を登場させることは、誠に面白い暗合だと思います。

2014年11月25日火曜日

「10代の安部公房を読む会」(第3回)を開催します

「10代の安部公房を読む会」(第3回)を開催します

第1回の参加者の中から声が上がり、楽しかったのもう一度やりましょうということから、次の要領にて、第3回の同会を開催致します。

出席ご希望の方は、来年2015年1月9日(金)までに下記(7)「備考」欄にあるメールアドレス宛に御連絡下さい。

(1)日時:2015年1月10日(土)13:00~17:00
(2)場所:八王子市南大沢文化会館 第4会議室
(3)会費:会議室利用代金の1100円を参加者の人数で割ることに致します。
(4)アクセス:京王線(相模線)南大沢駅徒歩2分:
(5)対象作品:『詩と詩人(意識と無意識)』
(6)申込期限:来年2015年1月9日(金)まで
(7)備考:前回同様に輪読の形式とし、各人が一段落ごとに音読して、安部公房の声に耳を傾け、その文字と行間の意味を読み取ることを致します。

この20歳の論文は、10代の安部公房の思想の集大成であり、同時に10代の詩、それから『無名詩集』の詩の重要な註釈と解説(であるばかりか、その後のすべての作品成立の基礎)になっておりますので、安部公房という人間を理解するために、全集第1巻に収められている10代の安部公房の詩をも併せて読み解くことに致します。

前回第1回で、この作品の最初のページを読み込みました。全集第1巻のページ数で行きますと、106ページまでに当たります。

次回第3回は、106ページの下段左下の「諸々の声は」から始まります。

新しく参加なさる方は、あらかじめ最初の3ページをお読みになってご参加下さい。

勿論、最初に前回の3ページの復習を簡単にしてから、4ページ目に入ろうと思います。

多分2回目でも終りませんので、更に隔月としてか、何度か連続的に会を開催することを考えております。この頻度は出席者に当日相談を致します。安部公房全集第1巻をご持参下さい。お持ちでない方には事前に資料を御届けしますので、次のアドレス迄:eiya.iwata@gmail.com


また、2次会を近くの焼き鳥屋「おっけい」本店(看板は焼き鳥屋ですが、本当は鮮魚が抜群に美味い)で予定しております。予算は、一寸高めで申し訳ないのですが、3000円から4000円未満です:http://tabelog.com/tokyo/A1329/A132904/13046158/

2014年11月23日日曜日

『更科源蔵と安部公房:原野の詩人と荒野の詩人』の無料キャンペーンのお知らせです。



『更科源蔵と安部公房:原野の詩人と荒野の詩人』の無料キャンペーンのお知らせです。

もぐら通信(第25号)に掲載した『更科源蔵と安部公房』をKindleにて刊行しました。

無料キャンペーンの日程は、11月24日から11月28日までの5日間です。ご興味のある方は、次のURLでダウンロードして下さると、有り難く存じます。


2014年11月22日土曜日

旭川東鷹栖安部公房の会の文学記念碑のパンフレット



旭川東鷹栖安部公房の会の文学記念碑のパンフレット

東鷹栖安部公房の会の文学記念碑のパンフレットが完成したので、安部公房の読者にご紹介します。

これが、表紙です。





次に裏表紙を。




最後に、もぐら通信の名前の載っている箇所を。名前を掲載して下さって、ありがたく思います。同会の発展を祈ります。


平塚直隆、公房「友達」に挑む 28日から愛知で公演


平塚直隆、公房「友達」に挑む 28日から愛知で公演

安部公房の戯曲『友達』が、愛知県芸術劇場で上演されます。

平塚直隆の演出。次の言葉があります。

「巻き込まれ型不条理劇が得意な平塚直隆は、自ら切り開き、歩んできたはずの道の彼方(かなた)に安部公房がいると「不惑にして気付いた」と苦笑する。「遅い出会いでよかった。演劇を始めた出発点だったら僕は違う方向に向かっていたかもしれない」。愛知県芸術劇場で28日~12月4日、「恐れ多くも」共感を抱く先達への思いを込め、安部の名作「友達」を演出する。……」

以下のURLに記事が掲載されています。

安部公房の小説の名前と、その構造について



安部公房の小説の名前と、その構造について

安部公房の名付けたすべての小説の題名は、そのまま小説の内容を表している。

『箱男』を例にとると、この小説は、箱男という、箱と男からなっていて、普通に考えると、男が主語であり、箱が述語である。即ち、ある男がいて、その男の性質を表すと、その男は、何か箱に関係のある男である、箱を被っている、箱の中で暮らしている男であるということになる。

しかし、安部公房の10代の詩の持っているその思考論理に忠実に従って、安部公房のすべての作品では、戯曲もエッセイも含めてすべて、この述語にあるものが、主語を剋する又は克する、即ち、超越するのである。

これは、このまま安部公房の言語論と、その下位の言語論であるクレオール語論の論理である。しかし、上述したように、安部公房の論理の展開では、言語論という一般的な論理に従属していた筈のクレオール語論が、主語である言語論を超えて、クレオール語論が、その主題となってしまい、これが普遍的な言語の在り方だという結論になるのである。

さて、話を『箱男』に戻すと、従い、最初は『箱男』という小説は、箱男を書いてた筈であるのに、最後には、それは男箱を書くことになっているのだ。つまり、この小説は、箱男が主題なのではなく、男箱、即ち箱が主題なのである。

安部公房は、箱男で何を書いたのかといえば、箱のことを書いたのである。

この箱のことを、10代の詩人の安部公房は、そしてその後も20代での処女作『終りし道の標べべに』では、存在と呼んだのである。箱は、存在なのである。勿論、安部公房のことであるから、陰画としての存在である。

同じ論法で、主要な小説の名前を挙げて、その主題を列挙してみよう。

1。壁
(1)S・カルマ氏の犯罪→犯罪のS・カルマ氏=壁
(2)バベルの塔の狸→狸のバベルの塔
(3)赤い繭→繭の赤、又は繭の赤さ
2。砂の女→女の砂
3。他人の顔→顔の他人
4。燃えつきた地図→地図の燃え尽きないこと、又は地図の燃え尽きの無さ
5。箱男→男箱:男の箱
6。密会→会密:会うことの秘密→会うことの秘密の公然(『笑う月』というエッセイ集に「公然の秘密」という題名の哀切な作品がある。)
7。カンガルー・ノート→ノートのカンガルー:カンガルーという有袋類のネスト(入れ籠)構造の袋が主題
8。飛ぶ男→男の飛翔

壁、塔、赤さ(又は繭でもよい)、砂、他人(顔でもよい)、地図、箱、秘密、カンガルー、飛翔、これらはみな、存在なのである。

すべての作品において、安部公房は、一生、存在を陰画で書いた。

舞台で使った布もまた存在であり、棒もまた存在であり、縄もまた存在であり、鞄もまた存在である。存在とは、変形自在のその大元であるのだから。

1970年代に創設した安部公房スタジオの俳優たちにも、陰画の存在になることを教え、これをニュートラルという言葉で説明をし、伝えた。

10代の詩人、安部公房が、未分化の実存と呼んだ状態のことである。







2014年11月21日金曜日

安部公房の心の穴を共有する詩人の詩

チャールズ・ブコフスキーといふ素晴らしいアメリカの詩人の詩が、先日論じた安部公房の心の穴と同じ場所、同じ空間を歌っていますので、引用して、安部公房の読者の理解に共したい。

2014年11月17日月曜日

夏目漱石と安部公房の共通項



夏目漱石と安部公房の共通項

今手元にある夏目漱石の『こころ』を読んで、これは全く安部公房の世界だと思ったので、思うところをお伝えします。

この小説は全部で上中下の3章からなっています。

1。先生と私
2。両親と私
3。先生と遺書

第1章の先生と呼ばれる人物(男)は、遂に、その最初からその本名を、話者によって呼ばれることがない。即ち、無名の人間です。

その冒頭から、次のようにこの話は始まります。

「わたしはその人を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚るというよりも、その方が私に取って自然だからである。」

これは、この小説の先生と呼ばれる人物を、S・カルマと呼び換えてもよいことを示しています。この小説の登場人物のひとりは、Kとさへ、記号で呼ばれているほどです。

明治という、この激動の、近代の国家を日本人が建設する最初の偉大な、偉大なという意味は外国語に通暁し且つ日本の古典にも通暁していたという意味のこの言語藝術家のこの作品の主人公が、無名であるということは、特筆に値します。勿論、同じもう一人の偉大な言語藝術家は、森鴎外です。

さて、この明治のS・カルマ氏の小説は、第2章の初めに、やはり父親について語るのです。これも、安部公房の読者であれば、安部公房が常に父親を贋の父親として描いたことを知っているでしょう。

そして、この父親は、やはり死に親しい父親であるのです。安部公房の読者であれば、『飛ぶ男』の主人公が透明人間であることをご存じでしょう。これは、その人間が存在になる、即ち無名に徹して、存在になる、更に即ち、生身の人間としては、死を意味することを、普通には意味しております。他方、息子は、飛翔する能力を獲得する。

飛翔は、10代の安部公房がリルケに学んだ、愛の形象なのです。

この愛と死を、それぞれの親子が、贋の関係の親子として、父親と息子として共有するというのが、『飛ぶ男』という世界であることが、漱石の『こころ』を見ると、よくわかります。

さて、第3章では、先生という無名の人間の遺書が、話者によって語られます。これは、このまま、安部公房の手記という体裁を持つすべての小説の形式と同じです。

安部公房の主人公の手記が、いつも最後には、その閉鎖空間からの脱出、即ち、死と引き換えに、その帰属していた社会からの脱出と、他方その尊い無名の死によって蘇生する当の社会の未来をこころ密かに信じているという、この安部公房の主人公たちのこころに通じていると思います。

夏目漱石は、この小説の題名を、心とは漢字では書かず、こころと大和言葉で表しました。

安部公房も、1970年代の安部公房スタジオの演技指導では、漢語を排して、何故なら漢語は身体を緊張させるから、大和言葉を使うことを指導して、その演技論、即ちニュートラルという、安部公房が10代のリルケ理解以来、またニーチェ理解以来思ってきた、未分化の実存という概念を日本人の役者の身体とこころに発言させようとしたことは、安部公房全集所収の演技論に詳しく語られております。

今わたしが読んでいるのは、新潮社文庫であり、その巻末に江藤淳が解説を書いております。そこで江藤淳の言っていることは、まことにそのまま安部公房に通じていると思います。次のような言葉です。

「漱石文学の核に潜んでいるのは、おそらくこの寄席趣味に象徴される江戸的な感受性である。それは感性的なあらわれかたをすれば長唄に「恍惚(うっとり)」するような感覚になるが、倫理的に表現されれば儒教的な正邪曲直の観念となる。そしてこの美意識と倫理観は、実はわかちがたくまざりあっていて、彼の文学を特徴づけているのである。」

この言葉の前に、江藤淳は、漱石の『硝子戸の中』の話をふたつ引用して、この偉大な作家が江戸文学の継承者であることを述べています。それは、ほかの近代の小説家とは全く異なり、何か過去と歴史を断絶することを疑わずに小説を書いた作家たちとは全く異なるということを述べております。その通りだと思います。私小説は、歴史を顧みずに、我がことだけを書く、日本人に特有の、歪んだ写実主義(realism)であるからです。

さて、他方、安部公房を高く最初に評価した作家たちのひとりに、石川淳がいることは、その『壁』への序文の賞賛の言葉のことを言えば、それで十分でしょう。石川淳は江戸文学に造詣の深い作家であり、安部公房の対談でも、江戸趣味が私小説の否定であることを述べております。

それから、山口果林の『安部公房とわたし』の中に、あるとき安部公房が立ち寄って、谷崎潤一郎の『吉野葛』を読んで、自分の文体によく似ていると言った逸話を思い出すだけでよいでしょう。この逸話の深い意味、即ち安部公房と谷崎純一郎の共通項については、『谷崎潤一郎と安部公房』で論じましたので、もぐら通信(第19号)をご覧ください。

谷崎を見出したのは、永井荷風という、これもやはり歴史の連続を大切にして、日本の近代に抗した、江戸文学とフランス文学に通暁していた作家でありました。

上の『谷崎潤一郎と安部公房』での結論をひとことでいうと、安部公房の文学は、反私小説、反写実主義という点で、全く江戸文学につながっているということなのです。

それは、わかりやすく今様の言葉で言えば、幻想の文学であり、安部公房の言葉を引けば、私小説や写実主義の文学のような足し算の文学ではなく、それではいつまでたっても現実の全体を表現することはできないのであり、あるべき文学は、積分による積算の、掛け算の文学でなければならないということなのです。

松尾芭蕉の確立した、元禄時代の俳諧を読めば、それが誠に積算による実に抽象度の高い文藝であることが知られます。今の俳句の程度の低さとは比較になりません。即ち、そのよって来る理由は、たった一つ、当時の俳諧師たちが、支那や日本の古典を深く理解をして共有していたということなのです。この古典的な教養の共有のない今の時代の俳人には、元禄時代の程度の言語表現の高さは、望むべくもありません。私小説の作家と同様に、どのことばも、自分のことばかりで歌われているからです。

安部公房は、松尾芭蕉の俳句が好きでした。それは、安部公房全集を読んでまとめてみるとよく解る通りに、この江戸時代の元禄時代、17世紀後半を生きたこの詩人に、10代で理解をし、そのあとも生涯自分の文学の中心の座を占めていた未分化の実存を見ていたからです。これについては、『安部公房の俳句論』と題してまとめましたので、もぐら通信(第21号)をご覧ください。

また、松尾芭蕉が17世紀の人であるということから、同時代のヨーロッパを眺めれば、それはバロックの時代であって、世界文学史的に見れば、芭蕉もまたバロックの詩人だということになります。

詳細を論ずるのは後日と致しますが、安部公房の認識のあり方も、作品の構造も、典型的なバロック様式を備えております。

安部公房は終生詩人でありましたから、17世紀の芭蕉に同じ精神を見ても、少しも不思議ではありません。

さて、このように、日本の伝統的な文藝の歴史に否定的につながっているということは、実に安部公房らしいことです。

大東亜戦争に敗北した日本の戦後に、やはり、明治時代と同様に、ふたつの思潮があったことは、当然のことだと思います。ひとつは、歴史を等閑にふして、その意義と意味を忘れて、わたしの言葉でいえば、惚け、呆けた考えであり、他方もうひとつは、歴史は人間の連続としてある生のあり方として本質的であり大切であるという考えかたです。夏目漱石は、後者の文人でした。

この明治と昭和のふたつの激しい変転の時代、安部公房の先生であった花田清輝の言葉で言えば転形期の時代に、ひとりは夏目漱石、もうひとりは安部公房という、それぞれの大才を、わが日本文学が得たことは、何か歴史的な必然であったように思います。

前者は、肯定的に江戸文学を継承し、それを否定される圧力を現実の近代日本から受けたということ、これに対して、後者はニーチェとリルケに学び、哲学と数学と言語論によって物事の本質を極めて、その10代の『〈僕は今こうやって〉』で開眼した外部と内部の交換以来、反対側から、即ち否定的に陰画として現実を見ることを学んだ作家が、その戦後の軽薄な思潮の中で誤解をされて、故郷喪失の文学などという空騒ぎの当事者のひとりになったこと、これは誠に脈絡の通じたことだと思います。勿論、後者の経験した戦後の、通俗文学の世界での故郷喪失を「デラシネ」と言ってその通りに売り物にした者は、五木寛之です。それほど、戦後の日本人は軽薄であったのです。これは、五木寛之を否定しているのではありません。

さて、しかし、安部公房はその故郷の意味を、存在と考えて、一生この存在に回帰することを徹底しました。

もぐら通信の2号先でご紹介しますが、長田弘というすぐれた戦後の詩人の安部公房論は、最初の一行で、安部公房の文学の本質を射抜き、また安部公房の文学を故郷喪失の否定を歌った文学だと喝破しております。これはその通りです。詩人は詩人を知るということなのでしょう。

安部公房は、東京の北区で生を受けました。このことについては、母親の安部よりみの小説『スフィンクスは笑う』の後書きに詳しく当時の様子が描かれています。

これをもし、もっと言えば、安部公房も東京の北区という下町に生まれたこと、そして、この同じ下町に、安部公房を理解した最良の文学者であるドナルド・キーンさんが日本に帰化して、お住まいになっていること、これが、以上述べ来った安部公房の人生に、決して満洲だけではなく、やはり安部公房は日本の国で生まれた日本国籍の、自分もあるインタビューで言っている通りに、日本語の作家であることの意味を、連綿として歴史のつながりある、安部公房の生として、わたしたちに提示している事実として理解されるのではないでしょうか。


さて、安部公房の生徒のひとりであった、山口果林の著書の題名が、『安部公房と私』ではなく、『安部公房とわたし』と、わたしがひらがなであることは、安部公房の演技指導の徹底と女優のその深い理解を思わせ、また漱石が『心』と書かずに『こころ』と題したそのこころを、安部公房もまた受け継いでいるのだと、わたしは思っております。

安部公房全集第21巻の贋月報第21号に、大江健三郎が、次のように語っています。これは、やはり大江健三郎らしく、その文学の世界の慧眼で、この二人の作家の、日本文学史の上での価値を、言い当てていると思います。

「それからやはり、書いているものが全部おもしろい作家っていうのは、僕はいないと思うんですよ。安部さんの場合は、ごく短いものが独特でおもしろいし、それから小さな対話のようなもの、それからさきほども言いましたけれど、奥さんと自動車で、ひとつは四国の方に行く、ひとつは北海道に行くというものも、ほんとにおもしろいです。非常によく考えて、考えつめたことを書く、そして最初から文体がある。そして、一生、それを書き直すこともしたという作家として、もしからしたら日本で全集を全部読んでおもしろい二人の作家の一人だと思うんです。そしてもう一人の作家は誰かというと、夏目漱石だと思うんですね。」

かうしてみますと、夏目漱石というこの漱石という雅号は、支那の古典にある通りに、世間とは反対の、世間とは逆説的な関係とその関係を考える思考論理を持った偉大な作家として石に漱(くちすす)ぎ流れに枕すると号したこの精神を、そのまま戦後という時代に、安部公房も受け継いでいるのだと思わずにはいられません。勿論、時代を超えて。

歴史というものは、深いところで、わたしたちに働きかけているものだからです。








2014年11月16日日曜日

久生十蘭全集の編集委員であった安部公房



久生十蘭全集の編集委員であった安部公房

安部公房全集には載っていないのですが、安部公房が久生十蘭全集の編集委員に名を連ねていることを最近知りましたので、読者にお伝え致します。出版社は、三一書房です。





久生十蘭全集 第一巻
編集 大仏次郎・荒正人・安部公房・中井英夫
解説 荒正人
207x142x42mm 423ページ 定価980円
1969年11月30日発行


2014年11月15日土曜日

岡山典弘著『三島由紀夫外伝』を読む:三島由紀夫が安部公房と共有した19の主題、又は『安部公房外伝』


岡山典弘著『三島由紀夫外伝』を読む:三島由紀夫が安部公房と共有した19の主題、又は『安部公房外伝』

彩流社から、もぐら通信にご寄稿を戴き、安部公房と三島由紀夫について私たちに伝えて下さっている岡山典弘さんの最新刊『三島由紀夫外伝』が刊行されました。

この著書の中から、安部公房を中心に、三島由紀夫と安部公房の共通したところを引用して、言葉を付し、岡山さんの同著ご恵贈へのお礼に、以って、替えたいと思います。

外伝という言葉は、正伝に対する言葉ですから、後者が正統な伝記という意味であれば、前者は後者から零(こぼ)れ落ちた数々の逸話を集めたもの、集めてそれによってその人物の全体像を読者に伝えようとするものということになります。そうして、この外伝は、確かにそのような作品になっております。

正統の網の目から零れ落ちた数々のものにこそ、その人間の真実があるという考えが、外伝を書くということにある考えなのです。

正統が、いつもその人間を一次元の狭い世界の中に閉じ込めがちであるのに対して、外伝とは、その人間をその多面性のままに読者に伝えようとする意志であると言っても、同じです。

この著者が縫い取って行く数多くの三島由紀夫についての逸話の中から、安部公房と共有している逸話の主題を掲げて、安部公房と対比をしてみたいと思います。このこころみは、このまま、安部公房外伝を書く、素描するということになります。思いがけない、通俗的な、世間に流布しているような安部公房像ではない安部公房の発見がある筈です。

最後まで書いてみて、改めて思いますと、近い将来書こうと思っていた『安部公房と三島由紀夫』のための、実に簡潔な主題の一覧を作成するができたことに気付きました。岡山さんに感謝申し上げます。

以下、各共通項目の題名の後に、最初に同著の本文を引用し、その次に安部公房のことを述べたいと思います。


1。剣道
「真剣でならやってもいいよ」
 これが、”同業者”から挑戦されたときの三島の返答であった。

 いつだったか三島君に剣道の試合を申し入れたことがある。たしか彼が剣道四段(あるいは五段だったかもしれない)の試験に合格した時のことだ。
 ぼくの申し入れに対して三島君は、真剣でやってもいいよ、とこともなげに答えた。それから一瞬おいて、例のはじけるような高笑いがつづく。
             (安部公房「反政治的な、あまりに反政治的な」)
(同書、26ページ)


これは、『反政治的な、あまりに反政治的な』(安部公房全集第25巻、374ページ)からの引用です。

安部公房も剣道の心得があり、強かった。それで、このようなことを三島由紀夫に言ったのです。

誰の書いたものであったか、中学校か高校時代の同級生が、安部公房は警察の剣道をならっていて、道場で剣を合わせたら、負けた後にも組打ちをしてきて、ねじ伏せるようにして体をぶつけて組み伏せられるほどに攻撃的な剣道であったので驚いたし、恐怖を感じたという体験を書いてます。今この文章の出典が見つかりません。後日を期して引用元を明記します。

さて、1976年の、三島由紀夫の死後6年を経て書いたこのエッセイの中で、安部公房は、自分と三島由紀夫の共有していたというものは「文化の自己完結性に対する強い確信」だと言っています。

この言葉を読むと、安部公房が、三島由紀夫を自己の鏡像、姿見に映る自分の姿、自分の影、即ち安部公房の19歳で書いた『〈今僕はこうやって〉』で開眼した思考論理に則って、三島由紀夫を自己の客体だと考えていたことがわかります。

この考え方は、読者とは何かについて語る安部公房のいる、ふたりの対談『二十世紀の文学』(第20巻、82ページ上段)でも知ることができます。この対談では、三島由紀夫は、俺は混沌は嫌だといい、対する安部公房は、それが客体なのだといって、自己を投影する客体の元たる自己も混沌であること、無意識は自己でも制御(コントロール)できないことを言って、二人の対話は進み、読者の眼にも楽しく続いて、終わることがありませんでした。この対談を読むことは実に楽しい。

さて、同様に、安部公房曰くすべての接点を共有していたが、その接点において方向が正反対のふたりである(「彼との接点は、全部うらがえしになっている」全集第29巻、73ページ下段)という同じ思いが、この『反政治的な、あまりに反政治的な』というエッセイを書かせたのです。

確かに、10代で安部公房がリルケに学んで詩の世界を創造したとき以来、その鏡の世界である作品には、時間は存在しませんでした。そして、そのような小説を書きました。

「反政治的な、余りに反政治的な死であった。その死の上に、時はとどまり、当分過去になってくれそうにない。」と、書いているこころが偲ばれます。

この最後の言葉を読むと、これは安部公房流の、三島由紀夫に対する、同じ言語藝術家としての鎮魂の言葉であることがわかります。

全集第23巻の贋月報第23号に、堤清二が次のように語っています。

「安部さんは三島さんのことはファシストだとは言わなかった。絶対。三島由紀夫が死んだときに、僕はその前後の事情をある程度知っていたから、彼はもう非常な関心を持って聞きましたね。三島さんがどういうぐあいだったかとか、君はなぜ死んだと思うかとかね。僕が、お通夜での話とかいろいろすると、非常に納得したり、もっと聞きたがったりで、その時に彼は三島由紀夫の才能はかっていたんだなあと思いましたね。で、おかしいのは三島さんの方もかっているんだよね。」


2。岸田今日子
岸田今日子は、三島由紀夫の戯曲『サロメ』で主演を演じました(同書、54ページ)。

安部公房にご縁のあるのは、この女優が、日本の演劇史に名を残す岸田國士という戯曲家であり演出家であった方の娘であることです。

この父親の創刊した『悲劇喜劇』という演劇の月刊誌は、今も早川書房から出ています。

また、この雑誌の1974年10月号(第288号)は、安部公房特集を組んでいて、勅使河原宏が『夢』というエッセイを書き、妻の安部真知は『「愛の眼鏡は色ガラス」』を書いており、安部公房スタジオの女優たち、山口果林は『鏡抜け』を、条文子は『周辺蛇行』という文章をそれぞれ寄稿しています。

この父親の演劇家としてのこの雑誌の創刊にかける思いが、その創刊号(1928年(昭和3年))に述べられています。普通の読者には目に触れる機会がないでしょうから、ここに引用して、お伝えします。

「私は此の雑誌で、読者と共に、もう一度、芝居といふものを観直してみよ うと思ふ。これまでの演劇雑誌は、有為な編輯者の個性を通して、それぞれ 異つた特色を具へ、それによつて、充分、その時代を益し、読者を満足させ たには相違ないが、前にも述べた如く、雑誌といふものゝ性質を尊重した結 果が、殆ど例外なく、「演劇の流れ」の中に在つて、それを上下してゐたや うに思はれる。これは、空想の演劇をして実在の演劇と共に自滅せしめる危 険を伴ふことになる。私はあくまでも、演劇雑誌といふ約束に囚はれず、「流 れ」の外にあつて、演劇の相を観きわめたいと思ふ。 従つて、「悲劇喜劇」は、一面、研究的であり、また、啓発的であるかも 知れないが、それ以上に、趣味的であり、親和的であることを努めるつもり である。 これは決して、一般向をねらつて、売行を多くするためではない。それど ころか、私一個の考へでは、さうすることによつて、読者の範囲は一層限ら れるだらうと思つてゐる。これは止むを得ない。せめて、確実な読者を、あ る数だけ維持することができれば、それで満足しなければなるまい。長谷川 君の意向で、雑誌は市場に出さず、直接購読者を募ることにした。 」


このような父親の子供が、岸田今日子という女優です。

安部公房原作、勅使河原宏監督の『砂の女』の主演女優であることは、言うまでもないでしょう。


岸田今日子は、三島由紀夫と安部公房というふたりの優れた作家にご縁のある女優ということになります。

『三島由紀夫外伝』によれば、この女優と三島由紀夫は、「二人が軽井沢で一夜を過ごした挿話は、猪瀬直樹の『ペルソナ』(文藝春秋)に詳しいが、一時期、三島は今日子に思し召しがあった」ということです。


3。賽の河原や和讃
三島由紀夫は、中央公論社の文学新人賞の選考委員を、伊藤整、武田泰淳とともに務めておりました(同書、59ページ)。

昭和31年(1956年)に、深沢七郎の『楢山節考』が選ばれます。

この作品に対する三島由紀夫の感想は、

「何か怖いというか『説経節』や『賽の河原』や『和讃』、ああいうものを読むと気分がずっと沈んでくる、それと同じ効果を感じる」と、その読後感を編集者の京谷秀夫に伝えています。

このとき、三島由紀夫は、31歳。

これに対して、安部公房は、1991年、67歳のときに『カンガルー・ノート』という小説を書き、日本人の土俗的な、民俗的な歌謡を、深層心理に踏み込んだこの小説の第3章「火焔河原」で、賽の河原に集まり歌う小鬼としての子供たちを登場させ、一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のためと言う有名な和讃、御詠歌を歌わせています。

この情景も歌も暗いものですが、しかし、安部公房らしい悲哀と、何か突き抜けたような明るさが宿っているように感じます。

この『カンガルー・ノート』は、やはりお大師さま、即ち弘法大師の国、香川の国の血を引く安部公房に、やはり抗し難く、その力が働いて、安部公房もそれを受け入れた、記念すべき作品です。


4。超常現象
「三島は、狐狗狸や降霊術などのオカルト・超常現象にも関心を寄せた。UFO研究もこの一環であるとともに、いくばくかの救世主願望があったのかもしれない。」と著者は書いています(同書、71ページ)。

また、

「三島は、昭和三十一年七月の円盤観測会に参加して、双眼鏡を熱心にのぞきこみ、東京の空に円盤を探した。」とのことです。

「これからいよいよ夏、空飛ぶ円盤のシーズンです。去年の夏は、熱海ホテルへ双眼鏡をもつて行つて、毎夜毎夜、いはゆるUFOが着陸しないものかと、心待ちにのぞいてゐましたが、つひに目撃の機会を得ませんでした。」(三島由紀夫『現代生活の詩』)(同書、72ページ)

このとき三島由紀夫、31歳。

三島由紀夫と同様に、安部公房は安部公房で超常現象には関心を持ち、最晩年の『飛ぶ男』では、透明人間と飛ぶ男を登場させています。この主題そのものは、若い時代からの主題であって、小説家としては、表立っては芥川賞受賞作『壁』所収の「バベルの塔の狸」以来変わらぬ主題であり、その根底にある安部公房の意識の在り方と思想については、繰り返し『もぐら通信』と「安部公房の広場」で論じて来た通りです。

超常現象の最たるものは、人間の変形ですが、何故安部公房がそのような超常現象ばかりを描いたのかは、ここでは敢えて詳述をせず、安部公房の文学の3つの座標軸、即ちエドガー・アラン・ポー、フリードリヒ・ニーチェ、そしてライナー・マリーア・リルケの名前を挙げておくことにします。


5。宇宙人
昭和30年(1955年)にUFO研究者が「日本空飛ぶ円盤研究会」を発足させた。

三島由紀夫は、会員番号12番で、この会の会員になった(同書、71ページ)。このとき三島由紀夫、30歳。

三島由紀夫には、『美しい星』という SF小説がある。ある家族全員がそれぞれ別の星、火星や水星や木星やらから来た異星人であることを書いた小説です。最後に宇宙船の円盤が地球に着陸していて、この家族を迎えるという結末になっています。

この小説書いたときの三島由紀夫は、1962年、37歳。

安部公房は、この年、共産党員であった10年間を前年の1961年9月6日に共産党に除名をされて終わりになっての翌年で、『砂の女』(全集第16巻、115ページ)を上梓している。安部公房は、38歳。

三島由紀夫の『美しい星』も、水爆による地球の滅亡を前提にして働く、主人公大杉重一郎とその家族たちの物語でありますから、やはり、これは、安部公房と同じく、終末思想と方舟思想についての小説として読むことができます。この家族は、宇宙船という方舟に乗って、地球から脱出するわけです。

これに対して、安部公房は、1984年に『方舟さくら丸』を書いて、終末思想と方舟思想の批判をしております。この小説が、空へ宇宙へと方舟が飛ぶのではなく、地中へ、地下の大空洞にある方舟であるということが、安部公房のこの二つの思想への強烈な批判と否定を表しています。

この終末思想と方舟思想批判は、日本共産党員であった苦い経験と反省から生まれた批判です。来年(2015年)1月号のもぐら通信(第29号)に書く『安部公房と共産主義』で、詳細を論じます。

さて、安部公房の小説は、どれもこれもSFと言ってよいものですが、しかし宇宙人と円盤という主題に絞れば、1958年に『使者』(全集9巻、295ページ)という小説と『円盤きたる』というラジオドラマ(全集第9巻、313ページ)を書いています。

こうしてみると、三島由紀夫と安部公房は、やはり言葉の質(quality)が、従いそもそもの発想が、前者が陽画ならば、後者は陰画というように、正反対であることがわかります。

安部公房曰く、「彼との接点は、全部うらがえしになっている」(全集第29巻、73ページ下段)

最後に、安部公房が『美しい星』の批評文を書いていることを挙げて、この章の終わりとします。

それは、『三島由紀夫著『美しい星』』と題したものです(全集第17巻、37ページ)。その冒頭でいきなり、安部公房は自分の小説、即ち仮説設定の文学の本質に触れる発言をしています。

「わたしははじめ、これを一種のバロック小説として読みはじめたものだ。」

このバロック小説という小説の様式は、実は安部公房の小説の様式であるのです。この論の詳述は後日としておいて、このときこのバロック小説という言葉が出てきたことから言って、安部公房は17世紀のスペインの小説『ドン・キホーテ』を思い出していたに違いありません。

この発言は、そのまま自分の小説への自註となっております。

さて、ここで指摘しているこの小説の特質のひとつを、安部公房は、美、美しさにあるということを見抜いて、この批評文の最初にこう書くのです。

「空飛ぶ円盤や、宇宙人が登場してきたりするが、むろん空想科学小説などではない。かといって、そのパロディでもない。数ページも読みすすめば、円盤がじつは美の象徴であり、宇宙人がその啓示の意味を自覚し、理解したもののことであることが、すぐにあきらかになる。」

安部公房も、三島由紀夫と同様に、散文の美を真剣に考えた作家です。『密会』刊行後の『裏からみたユートピア』(全集第25巻、503ページ)というインタビューに答えて、このインタビューの最後の節「逆転した寓話」で、安部公房は次のようにこの『密会』の愛と殺意と弱者•強者の関係を解説しています。

「この小説のエピグラフとして僕は、「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」という 言葉を置いたけれども、それが最後には裏返されて「弱者の幸せには、いつも殺される期待がこめられている」という感じに逆転していった。「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」 と言っている立ち場と、小説を書いている僕の立ち場とは、ちょうど裏表なんだな。書きながら 感じたんだが、強者である「馬人間」を仮に主人公とすると、この小説はやはり、僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いたということになる。ある意 味で、「もの凄く美しく地獄を書こうとした」とも言えるし、また、ユートピアを裏から書いた とも言える。」(下線部筆者)

この「僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いたということになる。ある意味で、「もの凄く美しく地獄を書こうとした」とも言えるし、また、ユートピアを裏から書いたとも言える」という発言に、陰画師としての安部公房がおります。

これに対すれば、三島由紀夫は、陽画師です。その言葉の修辞がどんなに華麗であっても、その性格は実に素直で、真っ直ぐです。これに対して、安部公房のものの見方は、既に諸所でお伝えしているように、

「僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いた」と 言っているこの論理は、10代の安部公房の詩を解析したときに指摘した安部公房の顕著に特徴的な思考論理、即ち「安部公房は対象の周囲、周辺に着目するので す。対象以外のものに眼をやるのです。そうしておいて、その対象を、周囲にある物ではないものとして陰画で見るのです。」

という思考論理なのです。

それ故に、このふたりの言語藝術家は、これほどまでに対照的であり、対称的であったのであり、気心が、論理の世界でも、心情の世界でも通じた稀有な、陰陽の親友同士であったのです。


6。都市
「そうだ。私が連れて行かれたのは、ふしぎな一個の都市であった。どこの国の地図にもなく、おそろしく静かで、白昼の広場で死とエロスがほしいままに戯れてゐるやうな都市。」(三島由紀夫『細江英公序説』)(同書、76ページ)

細江英公は、三島由紀夫の裸体写真『薔薇刑』を撮影した有名な写真家です。

この写真は、「「薔薇をもって罪を贖う」という主題を映像化した藝術作品である」とのことです。

この写真集は、昭和38年(1963年)の刊行。三島由紀夫38歳。安部公房は39歳。

引用した三島由紀夫の言葉にある「どこの国の地図にもなく、おそろしく静かで、白昼の広場で死とエロスがほしいままに戯れてゐるやうな都市」は、そのまま「どこの国の地図にもなく、おそろしく静かで、夜の広場で死とエロスがほしいままに戯れてゐるやうな都市」と言い換えれば、そのまま安部公房の世界になります。

ここでも、昼と夜が反転している。論理と感性の違いです。勿論、このあらゆる、相違する接点を、ふたりは共有しておりました。

「燃えつきた地図」の世界を思えば、安部公房の読者には、三島由紀夫の言葉を理解するには十分ではないでしょうか。

また、三島由紀夫と安部公房の共通項に、ニーチェとリルケがあります。

「薔薇をもって罪を贖う」とあるこの薔薇は、安部公房であるならば、リルケの終生愛した薔薇であることを理解できることでしょう。リルケの薔薇は、一個の宇宙であって、リルケの認識した宇宙の構造を備えた、しかも花であるといことから、美しい宇宙の形象であるのです。

『無名詩集』の扉に、

「私の真理を害ふのは常に名前だった
        —-読人不知--」

と記(しる)した23歳の安部公房のこころは、この三島由紀夫の裸体写真への自註を十分に理解したことでしょう。

何故ならば、平家物語を読めば、源氏に敗れて朝廷に刃向かった朝敵となり、罪人となった平家の薩摩守忠度が都落ちをするに当たり、歌道をよくしたこの文化的な武人は、藤原俊成を訪ねてみづからの和歌のすべてを俊成に預けて、もし天皇の命によって勅撰和歌集を編むことがあれば、そして自分の歌によいと思うものが真にあれば採用してもらいたいと言って、京を落ち延びて西国へと向かうのです。

俊成は、忠度の歌を採用し、朝敵でありますから名前を示すことができずに、『千載和歌集』では、読人知らずとして採ったことでした。これが、平家物語がわたしたちに教える、読人不知というこの言葉の深い意味のひとつです。読人不知は、また罪人でもあるのです。

芥川賞受賞作『壁』所収の『S・カルマ氏の犯罪』の主人公が何故罪に問われ、得体の知れない組織に追跡されて、到頭裁判に掛けられ有罪になって、その次元を脱して、遂には壁になってしまうのか。既に10代の詩の中に、その淵源があったということ、学んだリルケの世界にその淵源があったということなのです。勿論、「概念から生への没落」を学んだニーチェの『ツァラトゥストラ』のことも大いに預かって、この言葉の選択には、力があると思います。

わたしたち日本人が、詠み人知らずというときには、どこかしらいつも、無名ということからも尚一層、罪の意識と無縁ではいられないというのが、人間のこころの不思議です。


7。エロチシズム
「二十世紀の精神界のもつとも中核的な問題は、エロチシズムかもしれない。」(三島由紀夫『エロチシズム』)(同書、82ページ)

この三島由紀夫の発言は、そのままふたりの対談『二十世紀の文学』の冒頭の発言、

「三島 性の問題だね、結局二十世紀の文学は。」(第20巻、55ページ)

と言って、対談を始める三島由紀夫につながっております。

これは、 『エロチシズム』を書いたときと同じころの対談なのでしょう。

対談は、1966年、安部公房42歳、三島由紀夫41歳です。

三島由紀夫も死と性愛(エロス)の作家ですが、安部公房も負けず劣らずに、死と性愛の作家です。

安部公房の場合には、いつも成熟した女と、そして性未分化の状態にある、安部公房好みの、敢えて言えば未分化の実存にいる偏奇な少女の形象をとって、作品の中に繰り返し登場します。

死について言えば、いつも話しの結末は、主人公がその閉鎖空間を脱出することと引き換えに、死ぬという気配が濃厚であり、そのことを象徴的に表す以外にはないので、安部公房の主人公はいつも失踪します。

そうして、「1。剣道」で引用した『反政治的な、あまりに反政治的な』という安部公房の、三島由紀夫に対する鎮魂の散文の題名は、ニーチェの『人間的な、余りに人間的な』という論考の、言葉の厳密な意義での、パロティーであるのです。ふたりは恐らく、ニーチェについて語り合ったのでしょう。この短文の題名は、そのことを示しています。


8。引き籠り
「川端さんのノーベル賞受賞後、今までとは違う三島の姿を感じたことも、やはり事実だ。自分自身に閉じこもり、日本の中に引きこもってゆくように見えたのである。」(E・G・サイデンステッカー『流れゆく日々』)(同書、83ページ)

川端康成のノーベル賞受賞は、1968年(昭和43年)。三島由紀夫43歳。

仄聞するところによれば、川端康成は三島由紀夫に対し、自分のノーベル賞委員会の推薦状を書かせたとのことであり、川端康成の奥さんは、夫のノーベル賞受賞を祈願して、鎌倉のあるお寺にお百度詣りをしたということです。他方、三島由紀夫自身が、ノーベル賞の候補に名前の挙がる作家であった。こころの中の葛藤を想像することができます。「三島は、三十八歳の若さでノーベル文学賞の有力候補であった。」(同書、83ページ)

三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊の駐屯地で切腹するのは、川端康成の受賞の2年後です。

他方、安部公房の引き籠りは、1970年の三島由紀夫の死のあと、10年を経て、特に安部公房スタジオが解散してから、1980年に入ってから始まります。箱根の仕事場に引き籠って、仕事をするようになります。安部公房56歳からということになります。


9。共産主義
「中共では十ヶ月で一千万以上の人が虐殺された。一千万といへば、この東京都の人口だ。それだけの人数が、原爆や水爆のためぢやなくて、一人一人同胞の手で殺されたのだ。それが共産革命といふものの実態です。それが革命といふものなんです。こんなことがわれわれの日本に起こつていいいと思ひますか。」(三島由紀夫『喜びの琴』)(同書、87ページ)


安部公房は、全く同じことを、三島由紀夫と全く逆の論理で次のように言っている。

ナンシー・S・ハーディンとのインタビュー、『安部公房との対話』(全集第24巻、478ページ下段)で、安部公房は次のように、『第四間氷期』と革命について述べて言います。これは、結局、埴谷雄高の至った「存在の革命」と同じことを、安部公房は言っているのです。それを「内部の対話を誘発すること」と言っております。下線部は筆者。

「 ---まだ話題にしていない小説のひとつに『第四間氷期』があります。あとがきのなかで、この小説の目的のひとつは「読者に、未来の残酷さとの対決をせまり、苦悩と緊張をよびさまし、内部の対話を誘発すること」(『第四間氷期』二七二頁)だと書かれていますが。
 安部 ひとことだけ説明します。ぼくは革命というものに決して反対ではありません。しかし、強調しておきたいのは、革命ではそれを望む人々が逆に殺され傷つけられたりすることが少なくないということです。革命家が自覚して己の幸福のためよりもむしろ革命のために進んで苦しんでいるならば、自分の命を賭ける自信や、革命で殺されてもよいと信じる意志がないならば、革命など起こせません。反対に、もしそれほどの強い意志があるならば、当然起こすべきです。それが『第四間氷期』のテーマです。」

この論理は、共産主義革命についての、三島由紀夫の陽画の論理とは全く逆の、陰画の論理ですが、「中共では十ヶ月で一千万以上の人が虐殺された。一千万といへば、この東京都の人口だ。それだけの人数が、原爆や水爆のためぢやなくて、一人一人同胞の手で殺されたのだ。それが共産革命といふものの実態です。それが革命といふものなんです。」という三島由紀夫と同じことを、安部公房らしく、対象そのものに光を当てるのではなく、対象以外のことに眼をやって、それらを否定してから、共産主義という対象を陰画で批判する安部公房がおります。

また言えば、三島由紀夫は国家の安全保障の問題を論じているのに対して、安部公房は、個人の安全保障の無さの在り方を論じているのです。全く、ここでも、両極端な二人です。

この個人の安全保障の無さの在り方のことを、安部公房スタジオの俳優たちには、演技概念としてニュートラルという名前を付けて教えました。この概念もまた、10代の安部公房の詩の世界にある、安部公房の思考論理と感性(生理感覚)には、親しい概念なのです。

このニュートラルと呼んだ演技の基本概念を、10代の安部公房は、未分化の実存と呼びました。この二つの言葉は、同じ概念なのです。


10。藝術の毒
「芸術には必ず針がある。毒がある。この毒をのまずに、ミツだけを吸ふことはできない。四方八方から可愛がられて、ぬくぬくと育てることができる芸術などは、この世に存在しない。」(三島由紀夫『文学座の諸君への『公開質問状』』)(同書、88ページ)


この三島由紀夫の言葉も全くその通りです。

読者は、上澄みだけの甘い水を飲みたいと願い、その上澄みの下に淀んでいる泥を啜ろうとはしませんし、あるとも気づかない。何故ならば、そのような読者は、誰にでもいい子いい子したい、可愛がられたいという人間の心理にやられているからだと、三島由紀夫は言い当てているのです。

それが舞台俳優の場合でも同じだと、藝術と人間の問題として、三島由紀夫はいうのです。

その好例として、著者は、北川和夫という役者の格好の逸話を示しています。

「「僕の役の反共的な科白は、僕にはしゃべれません。役者としてこの役は、どうしても、やれません」
 北村和夫が、文学座臨時総会で泣きながら訴えた。」

普通には、このようなことを言う役者は役者と呼ぶに値しない役者ということになるでしょう。現実を生きることが実際にそうであるように、芝居もまたIdeologieで演じるものではないからです。

安部公房の場合には、この同じことを、今この文章を書いていて例示できるものとして思い出すのは、安部公房が詩人から小説家になるためにはどうしたらよいかを書いた『牧神の笛』という重要なエッセイです。

このエッセイでは、10代であれほど耽溺し、惚れ込んで読み抜いたリルケという、美しい詩を書いた詩人が、どんなに冷酷で、酷薄で、人非人の人間であったかに気づいて、怒り、いきどおりを覚えて苦しむ安部公房がいます。今までの自分の詩は何だったのかと問い、苦しんだのです。そんな人非人の人間の書いたものを信用していいのか。藝術とは何か、作品を書くとは何か、このようなことを真剣に、苦しんで問う安部公房がおります。

このエッセイの最後に、如何にも詩人安部公房らしく隠喩(metaphor)を使って、リルケを受け容れて、小説家(散文家)として生きる覚悟を、次のように言って、このエッセイを締めくくっています。

「結局、ぼくのいきどおりも、その凍りはて裏がえったフォーン(筆者註:牧神のこと)の快活さにたいしてであり、それは同時に、ほかでもないぼく自身の足どり、ぼくの血を吸おうと待ちかまえるぼく自身へのいきどおりにほかならなかったのではなかろうか。ぼくもまた、フォーンの笛を吹かねばならぬのだ。」

ここでも、再帰的に自己自身の血を吸う、合わせ鏡の世界でそうやって言葉を紡ぐことを決心する、半獣半神の、人間であって人間ではないものとして生きる決心をする安部公房の言葉です。


11。キャンティ(Chianti)
「小田実のことが話題になると、氏は「数日前六本木のレストランの入り口の所にあの男が立っているのが遠くから見えてね」とひどく人なつこい表情をしながら「まるでその辺の空気がいっぺんに汚れ、曇ったように思えて、僕は一目散に逃げ出したのだ、百米くらいも走ったのだ」と身振り手振りで走る真似をして、私たちを笑わせた。」(西尾幹二『三島由紀夫の死と私』)

三島由紀夫がこの逸話でいっている「六本木のレストラン」とは、キャンティ(Chianti)というイタリア料理のレストランです。

この有名な人士の多く集まる有名なレストランの、三島由紀夫は常連でした。また、安部公房との関係では、やはり常連であったのは、勅使河原宏でありました。

この店の経営者、川添浩史は、安部公房原作、勅使河原宏監督の映画『砂の女』をひっさげて、1964年のカンヌ映画祭に出品させることを果たしております。

三島由紀夫か勅使河原宏か、このふたりのいづれかが、安部公房をこのレストランに最初に連れて来たものでしょう。安部公房も、その後この店の常連となっており、あまつさへ、3階にあった「キャンティシモ」というダンスのできる店で、三島由紀夫と一緒に、当時流行したゴーゴーを踊っております(『キャンティ物語』野地秩嘉著。幻冬舎文庫、166ページ)。

ゴーゴーを踊る三島由紀夫と安部公房の姿は、見ものであったことでしょう。

この逸話を語っている黛敏郎というこの著名な音楽家によれば、1969年のことだということです。

安部公房は、このレストランで偶々見かけたリルケの贋の息子についてのエッセイを『リルケ』という題名で書いております(全集第21巻、238ページ)。この贋の息子の履歴を見ますと、時は1964年、東京オリンピックの年だと思われます。

このレストランについては、もぐら通信(第28号)に『キャンティとリルケの贋の息子』と題してお伝えします。

何故三島由紀夫が小田実を嫌ったかというと、当時この男の組織したベトナムに平和を!市民連合(略称「ベ平連」)という組織の事務局の一人を、共産主義国家ソヴィエト連邦の秘密警察組織であるKGBが「抱き込み、その人物を通してアメリカ脱走兵の入国計画を立案・実行したのである。したがって、ベ平連がアメリカ兵の脱走を手伝い、隠れ家を与えていたのだ。」という事実があったからです。(レフチェンコ『KGBの見た日本』)(同書、92ページ)

「嫌った理由は、小田が平家蟹のような醜男だったからではない。ソ連の崩壊によて機密文書が公開されて、KGBとの関係が明らかになり、資金の流れなどが、あれこれ取り沙汰されている。国を売ることはゆるされない。「その辺の空気がいっぺんに汚れ」とは、いかにも三島らしい的確な表現である。」

このような事情は、現在の日本でも全く変わらない事態であるように、わたしには思われます。

安部公房は、蟹が大好きでしたが、対して、三島由紀夫は、蟹が大嫌いなのでした。


12。殉教
「フレーザーの「金枝篇」の古代の穀物神の章を読む者には、この起源はおそらく自明であり、ユングも、セバスチャンが、若く清らかな肉体のまま射殺されるのは、アドニス同様、古代の農耕儀礼の人間犠牲の名残だと書いてゐる。」(三島由紀夫「あとがき『聖セバスチャンの殉教』」)(同書、102ページ)


三島由紀夫が聖セバスチャンの殉教に憧れていたことは、よく知られていることです。このテーマでの裸体写真を、三島由紀夫は、篠山紀信に撮影させております。

さて、安部公房の場合も同様に、美しい若者の死を代償にして、全宇宙が鳴動し、蘇生するというリルケの主題を、10代のときに十分過ぎる位に自家薬籠中のものとしました。『オルフェウスへのソネット』という53篇からなる長編詩が、それです。

加えて、ニーチェの『ツァラトゥストラ』をも深く読んで、その思想を「概念から生への没落」と簡潔に要約できて、実践するほどでしたから、この、三島流に言えば殉教ということと同じことを、安部公房は安部公房流に繰り返し、その作品の中で描いております。

当然のことながら、その場合の主人公はみな、自己の帰属する 社会から外部へと、上位接続空間へと脱出をして、残してきた社会を陰画の社会として見て、その死を、或いはその生を、そのような社会の犠牲に供するのです。そうして、社会もまた、その死によって蘇生をする、そのことを主人公は密かに願っているのです。

ここでも、三島由紀夫と安部公房の、対照的な共通項があるわけです。


13。本物と贋物
「死ぬまで三島は、「関の孫六」を本物と信じて疑わなかった。名刀どころか、まさか四、五万円で売買されるような”安物”を掴まされたとは、考えもしなかったであろう。政治家でない三島は、人の善意を信じる甘さが抜けきれなかった。
刀剣の世界には、魑魅魍魎が巣くっている。」(同書、108ページ)

三島由紀夫は、この関の孫六を市ヶ谷の総監室に佩刀しております。

何かこの逸話に接すると、言語の世界に住むべき藝術家が、実際の現実にどれほどに、しかも政治的に足を踏み入れることが極めて危険なことであり、自分の命を賭けることになって、場合によってはその尊い命を喪うことになるのかを、わたしたちに示しています。

同じ経験を、安部公房は、マルクス主義を盲信し、日本共産党に入党して、その信ずる自分の文学を実践して、実際に革命を起こそうと考えました。

このことが、実に、この二人には共通したことだと、わたしは思います。

三島由紀夫の場合には、三島が現実に対して起こることを期待していたのは、左翼の過激派が暴徒化し警察力で抑えられない場合、自衛隊が治安出動することであり、更に、治安出動した自衛隊は憲法9条の改正を撤兵条件にし、国軍の地位を獲得するというシナリオでした。楯の会は警察力が潰えて自衛隊が治安出動するまでの間隙を自らの命を張って埋めるという目的を持って訓練していたと聞きます。そして、暴徒に素手で立ち向かい殺されることを本望としていました。

これが、三島由紀夫の描いたシナリオでした。

安部公房の場合には、安部公房が現実に対して起こることを期待していたのは、1957年に日本に革命が起きるという幻想でした。当時安部公房と親しかった画家、池田龍雄は、次のように回想しています。

「「もうすぐ、革命は近いよ」と、それが起こる可能性の年まで示して囁かれたときには、さすがに眉に唾を付けたものである。しかし、どこかでその気になっていたらしく、「1957年」という数字を読み込んだ暗号めいた文言が、わたしの当時の日記に残されているのは可笑しい。」(『安部公房を語る』所収の「詩的発明家--安部公房」。あさひかわ社刊)

安部公房にも、同様にシナリオがありました。それは、専ら言語の側から描かれた革命のシナリオでした。この詳細は、『安部公房と共産主義』という論考で、もぐら通信(第29号)にてお話しします。

しかし、わたしが思わずにはいられないことは、このような天才と呼ぶべき、当時も今でも日本を代表する言語藝術家たちが、揃いも揃って、現実を信じすぎて、藝術の世界を踏み出して、現実と生きた人間に裏切られ、その命を喪い、また喪う危機に、みづから求めて死地に向かうということです。

このような三島由紀夫を自分の同類として十分深く理解している安部公房の言葉が、やはり『反政治的な、あまりに反政治的な』にありますので、これを引用して、紹介します(安部公房全集第25巻、374から375ページ)。

「ふと思う。ぼくらには案外根深い共通項があったのかもしれない。文学的にも思想的にも違っていたし、日常の趣味も違っていた。ぼくがカメラ・マニヤなら、彼は時計マニヤだった。ぼくが大の蟹好きなら、彼は大の蟹嫌いだった。しかし、ある種の存在(もしくは現象)に対する嫌悪感では、完全に一致していたように思う。いつか銀座のバーで飲んでいたとき、とつぜん二人同時に立ち上がってしまったことがある。同時にトイレに駆けこもうとしたのだ。理由に気付いて、大笑いになった。某評論家が入って来たところだった。
 ぼくらに共通していたのは、たぶん、文化の自己完結性に対する強い確信だったように思う。文化が文化以外の言葉で語られるのを聞くとき、彼はいつも感情的な拒絶反応を示した。しかもそうした拒絶反応が、しばしば三島擁護の口実に利用されたり、批判や攻撃の理由に使われたりしたのだから、ついには文化以外の場所でも武装せざるを得なくなったのも無理はない。それが有効な武装だったかどうかは、今は問うまい。安易な非政治的文化論の臭気に耐えるほど、鼻づまりの楽観主義者になるには、いささか純粋すぎたのだ。文化的政治論も、政治的文化論も、いずれ似たようなものである。
 反政治的な、あまりに反政治的な死であった。その死の上に、時はとどまり、当分過去にはなってくれそうにない。」

安部公房が、マルクス主義と日本共産党を信じたために、一体どんなにその命を喪いかけたか、どのように危機的状況だったかは、『安部公房と共産主義』という論考で論じます。


14。文化観
「三島は、文化に対する偽善的風潮を極度に嫌った。
 こと文化に関しては、”清掃”や”衛生”という観念を嫌った。」(同書、110ページ)

上の「13。本物と贋物」の共通項と全く同じように、ここでもこの嫌悪感を、安部公房は三島由紀夫と共有しております。

安部公房が安部公房らしいのは、全く独自の論理・数学的な観点からも、好きなものが便所であり、便器であり、ゴミ処理場であり、そのような対象と対象の間(はざま)、隙間、割れ目に在る、人に知られることのない対象ばかりであるということであるところが、全く安部公房らしいのです。勿論、これらのものは、安部公房の感性や感情にも強く訴えるのです。

安部公房もまた、清掃や衛生を嫌った藝術家であることは、明々白々です。

新潮文庫に『笑う月』所収の「シャボン玉の皮」というエッセイがあります。このエッセイは、何故自分は写真撮影が好きなのかという理由を、便器や塵(ごみ)との関係で語った、安部公房の思想と感情が率直に表白されている、よいエッセイです。全集第24巻、416ページにあります。引用してお伝えした箇所は沢山ありますが、例えば、その一部。

「まずたとえば、ゴミである。なぜかぼくはゴミにひきつけられる。あるいは、ゴミを捨ててある場所にひきつけられる。」

「しかし、ぼくはこうした情況の意味の面白さにひかれてシャッターを切ったわけではない。ゴミ捨て場と同じく、それら廃物や廃人たちが、恐ろしい声で叫ぶのを聞いたせいなのだ。それ以上の説明はできない。とにかく音叉のように、ぼくの内部で何かが共鳴しはじめ、身の毛もよだつ思いで、しかも強くひきつけられてしまうのだ。
 ほくはその叫びを恐れていながら、同時に聞こえなくなることを恐れているような気もする。(略)ゴミ捨て場のイメージが消滅すると同時に、あらゆる創造の衝動が消えてしまいそうな予感がある。小説も舞台も、けっきょくはゴミ捨て場から聞こえてくる叫びを、かわって叫ぶ作業のように思われる。」

「ゴミ捨て場から聞こえてくる悲鳴は、どうやら、ゴミを食う沼(筆者註:満洲奉天の小学校の側にあった底なし沼)にくわえまれ、咀嚼されはじめた「有用性」の叫びらしい。すくなくもぼくには、そんなふうに聞こえる。まだ自分がゴミそのものではないという自覚(もしくは幻想)が、かろうじて日常を支えてくれているシャボン玉の皮なのだ。そのシャボン玉の皮の上に、たぶん明日も、ぼくはなんとかゴミを食う沼の見取り図を書きつづけることだろう。もしかするとゴミは砕かれた人間の伝説なのかもしれない。」

安部公房も三島由紀夫も、文化に対する偽善的な風潮を嫌ったのです。それは、上記「13。本物と贋物」で『反政治的な、あまりに反政治的な』を引用して述べた通りです。

安部公房は、芥川賞受賞作『壁』所収の「S・カルマ氏の犯罪」や『方舟さくら丸』で、老人に箒を持たせて、そうして便所のあたりを掃除する、そのような形象を、これら以外にも、繰り返し描いております。後者の話の後半に、その中心の座を占めるのは、何でも飲み込んで処理してしまうゴミ処理機の便器なのです。


15。盾の会
「昭和四十三年十月五日、民間防衛組織「盾の会」が結成された。
 皇室を守護する神兵であり、「聖セバスチャン」の親衛隊でもあった。「盾の会」の三原則は、「軍人精神の涵養」「軍事知識の練磨」「軍事技術の体得」である。」(同書、119ページ)

安部公房もまた、軍事的なものが好きでした。ドナルド・キーンさんとの対談『反劇的人間』では、繰り返し戦時中の、それからナチス戦敗後の降伏するナチスの若い兵士の映画をみることが大好きで、繰り返し繰り返しみるのだと言っています(全集第24巻、245ページ)。 ヒットラーの演説の映像を見ることも、本当に繰り返しみるほどに好きだと率直に語っています。

また、安部公房は、ナチスの黒い鉤十字の紋章もまた愛着し、深くその意味を理解しておりました。

これらのことについては、『もぐら感覚22:ミリタリィ・ルック』で詳細に、10代の詩群から晩年の作品に至るまでを通覧して論じましたので、お読み下さい。

それにしても、『ユリイカ』(1969年(昭和44年)8月号)にある『アヴァンポップの故郷----テクノロジーとしての文学原基』と題した、巽孝之と久生十義の対談は、素晴らしい。その中で、後者が語る、安部公房のナショナリズムについての発言を以下に引用して、安部公房という人間をお伝えいたします。

「久間 誰もが知らずにアベコーボーしている(笑)つまり物象化された安部公房現象がいまではありふれた光景になっているというのは、実際ありそうな話ですね。安部公房の文学がフォルムとして受け入れされて、無意識のうちに安部公房のフォルムをなぞるようなかたちで小説が産出されてくるというのは、これは非常に当然というか、自然なことですからね。しかし、この希薄化され、出自を忘れたアベコーボーたちは、少なくとも僕自身に強くアピールしてくるわけじゃありません。仮に、安部公房のフォルムを成り立たせているある契機みたいなものについて、彼らが非常に無意識のままであるとすれば、案外、安部公房を縮小再生産している部分があるんじゃないでしょうか。

 さっきナショナリズムということをおっしゃいましたけど、安部公房の提出した文学的なシェーマは、ぐるりひとひねり回ってというか、それこそ、”メビウスの輪”的にナショナリズムの問題と重なりますね。彼一流の、ある疎外された状況を観念的にズラしていく、その状況を受け入れつつ、そうじゃないんだというふうにしていく問題というのは、普通に考えたら、非常に強い権力的なバインドがあって、我々がにっちもさっちもいかない時に、そのにっちもさっちもいかない中で自由を見出そうとする時に出てくる問題なわけです。

例えば、特攻隊員が明日死んでいく、その死んでいく中に真の自由があるんだとか、そういうような言い方と重なる部分が、僕はあると思うんですよ。つまり、現実的に成就されないものを観念の中で成就するという思考パターンがあって、安部公房はその可能性と不可能性の両方を、彼の設定した物語構造の中で逆説的に示そうとした。それは、実際には我々はひとつじゃないのも関わらず、想像の共同体としてネイションというものを考えていくのと、ある部分では重なっている思考形態です。よくいわれるような安部公房のコスモポリタニズムとナショナリズムというのはだから鏡の裏表なんです。同じような土壌から出てくるんだけれども、一方では決定的に、その共同性みたいなものを嫌い抜くというか、そういう精神のかたちを取り続けたいという思い、もう一方はその共同体のために殉じようとする。根が同じだから逆の態度もでてくるわけで、徹底した安部公房の共同体嫌悪をぼくらは額面通りに受け取るだけじゃ、大事なものを取り逃がすかもしれない。

 そしてさらに言えば、そういう、現実に成就できないことを観念の世界で成就していこうという考え方というのは、一種のオポチュニズムというか、それが引き金になった政治的な熱狂へと変化しかねないものでもあるわけです。例えば経済的に非常な不況があって、我々がそこでは物質的に自己実現できない時に、何か知らないけれども我々を熱狂させるような、非常に魅力的なものが出てきたとしたら、我々はふっともっていかれる。僕はファシズムを想定して言っているんですが、そういったものと重なってくるんじゃないか。

ですから、安部公房がシェーマとして立てた問題が立ち上げる場所と、それからファシズムのようなものが---ファシズムって、べつにバカな連中が考えたバカな政治思想じゃないですからね。実は非常に魅力のあるものだと思うんですよ。---立ち上がる場所というのは似ていて……。と言うか、じっさい同じ時代に安部さんも生きていたわけですよ。そこのところを忘却して、安部公房のフォルムだけを無意識のうちに再生産したり、我々自身のリアリティを安部公房に押しつけているようなかたちで彼を消費するようになったら、それはもう少し考え直したほうがいいんじゃないかと思うことがあるんですね。」

この作家のいうことは、全くその通りです。

この言葉は、何故安部公房はあんなに繰り返し、ナチスの制服と映画を観ることが好きであったのかの十分な説明になっております。

そうして、また、この言葉は、何故安部公房が日本共産党員になったのか、その安部公房最大の弱点を余すところなく指摘しております。


16。クーデターと革命
上記「13。本物と贋物」で、三島由紀夫のクーデターと安部公房の革命については、既に論じましたので、これを参照下さい。

こうしてみると、安部公房と三島由紀夫の共通項のひとつに、深く、本物と贋物という主題があることに、改めて気付きます。


17。犯罪
「それにしても犯罪の中にあるあの特権的な輝きは何だらうか。」(三島由紀夫『小説とは何か』)(同書、126ページ)

安部公房の主人公がみな、無名、無知、無能、無役の人間であって、世間の管理台帳には全く未登録の人間であること、従いこれらの主人公はみな、法律の外に棲む人間であること、更に従い、犯罪者であることは、言うまでもありません。

これは、三島由紀夫が、上流階級を書いたのとは、全くここでも接点は共有しているが、方向は正反対だということになります。

この無名の人間であること、そうしてそのような人間として固有の死を死ぬということは、10代のリルケに親炙した時代から生涯持ち続けた思いです。

「14。文化観」で引用した『シャボン玉の皮』の最後のところで、安部公房はこう述べています。

「ぼくはニヒリストを気取るほど楽天家ではないが、希望を語るにはゴミと気心を通わせ過ぎた。ただ、せめて自分だけのオリジナルな死を死ぬために、一般的な死を拒絶したいと思うくらいの利己心はある。」

この言葉を書いたときは、1973 年。安部公房49歳。

1970年11月25日の三島由紀夫の死に衝撃を受けた安部公房は、その後自分本来の世界、すなわちリルケの詩の世界と10代の詩の世界に回帰することを決心し、実際にそうしたというのがわたしの仮説です。

即ち、それまでも安部公房の考え方も創作の方法も実際にはそうでありましたが、しかし、もっと意識的に、一層時間の空間化ということをいい、小説も戯曲も舞台もみな、時間の変化を空間の幾何学的な関係に変換し、置換して、関数関係で表現する道を積極的にとるようになります

以上のこれまでの考察で、これだけの共通項があるのですから、それを一挙に喪った安部公房への衝撃は誠に深甚なるものがあったと思います。


18。狼
「私の読みたいのは、動物学者の書いた狼物語ではなく、狼自身の書いた狼の物語なのである。狼がどんなに嘘を並べても、狼の目に映った事実であり嘘であれば、私は信じる。」(三島由紀夫『青春監獄』の序)(同書、134ページ)


安部公房は、作家生活の人生の最初の20年の締めくくりとして、それまでの作家活動を振り返って、若いときに書いた短編を集めた短編集『夢の逃亡』を発刊します。その後書きに、三島由紀夫とそっくり同じことを、しかもこれも同じように青春との関係で、書いております。1968年、安部公房44歳。

「ここに収められた作品は、すべて昭和二十年代に書かれたものである。なかには、私自身、読み返してみるまでその存在さえ、すっかり失念していたものがあるほどだ。
 当時の私は、濃霧の中をさまよっているような状態だった。今でも霧がはれたと思っているわけではないが、あの時代の霧はまた格別だった。書くことによって、わたしはその霧を切り抜け、しかし書かれた結果にはついては、どうでもよかったのかもしれない。あれは戦後だった。そして、私の青春の最後の数年間だった。
 当時、私には長い間、住む家がなく、また金がなく、したがて飢え疲れていた。明日の糧どころか、今日の糧を得るさえ困難なことがしばしばだった。そのくせ作品には、貧困や飢えのことはあまり出てこない。多分、そうした状況を、なにも特別なことではなく、恒常のものとして受け止めていたせいだろう。だが、この作品集の背景にあるものは、まさに飢えた青春そのものなのである。私は、森の木蔭で、憎悪の牙をむき出している、飢えた狼のような自分自身の姿を、ありありと思い出す。ほとんどモラルの問題が顔を出さないのが、飢えの哲学の特徴なのである。」(新潮文庫、248ページ。平成六年七月十五日十九刷。)

と書いて、続けて、戦争中のリルケの意味について語っています。

このような青春時代に、安部公房と三島由紀夫の20代の後半に、二人は出会い、親しき友となるのです。

三島由紀夫は、安部公房という狼の目に映った嘘を信じ、安部公房も同様にまた、三島由紀夫という狼の目に映じた嘘を信じたのです。

初めて、安部公房が三島由紀夫と会ったときのことを、当時の親しき友、中田耕治が全集第2巻の贋月報第2号で回顧しておりますので、それを引用します。

当時、中田耕治は、1949年3月から、安部公房と一緒に世紀の会を創設して活動を始めていた。これはその世紀の会のごく初期のころの逸話だと思われますす。

「安部さんと三島さんが出会った時を覚えています。三島由紀夫の創作集を取り上げて、安部と僕でそれぞれ一冊ずつ書評を発表して討論する集まりがありました。武田泰淳、埴谷がいて。本多秋五が「安部公房は頭いいね」と言ったのを覚えています。このとき三島さんが出席していました。神田の昭森社の関係でラドリオかランボーだったと思います。僕は『夜の仕度』を取り上げました。安部さんが何をやったか覚えていませんが、全否定していました。「こういう小説は可能性がない」というようなことを言っていたと思います。三島さんも安部はすごい奴だと思ったみたいでした。それから二ヶ月ぐらい後だったか、本郷のバーで、安部さんと、三島、花田清輝、加藤周一が大論争していたのを覚えています。そのころから安部さんの議論の展開は非常にポエティックだった。一九四八年頃のことでした。」

安部公房は、三島由紀夫の『夜の仕度』について、何故「こういう小説は可能性がない」と言ったのか、これはまた別に稿を改めて論じます。

また、今度は、ふたりが出会った後、如何に急速にふたりは親しくなり、お互いを理解し合っていたかを証言する、これも当時の安部公房と親しかった友、画家池田龍雄の回想があります。全集第11巻贋月報第11号。

「あれはいつだったけなあ…。安部公房を励ます会っていうのやったのですよ。「幽霊はここにいる」の上演の年ですから、 五八年頃だと思います。はじめのほうでスピーチを三島由紀夫がやったんです。それが安部公房をちょっとけなすようなことを言いながら、ものすごく持ち上げていて、うまいスピーチでしたね。けなし方を聞いていて、相当親しいんだ、という印象をうけたんです。安部さんは当時はコミュニストでしたから、でも三島はバリバリの右翼ですからね。安部公房は私と反対側にいる、警戒すべき男だ、とかなんとか言いながら誉めていたんだと思います。」

これが、二匹の狼同士の出会いであった。

安部公房の10代から大切にしてきた詩的形象のひとつに、獣という形象があります。

上記に言及した『夢の逃亡』という短編集の中のその名前の短編は、主人公が獣であるといっていいのです。この主人公は、表立った主人公たちの無意識の中に棲んでいて、彼らを変形させてしまうほどの根源的な力を持っているのです。10代の詩にも、これらの作品以外の小説にも、獣は出てまいります。これは稿を改めて論じます。


19。青春
「三島は青年の”潔さ”を好み、老人の”怯懦”を嫌った。
 わけても偽善的な美濃部亮吉を毛嫌いした。」(同書、153ページ)

「現下日本で、イデオロギーを超えたもつとも甘い超党派理念は「偽善」である。『黒い雪』に目クジラを立てた婦人層の何割かは「清潔」な美濃部都知事には安心して投票したにちがひない。」(三島由紀夫『黒い雪』裁判)

『黒い雪』は、武智鉄二の監督した映画で、昭和40年(1965年)に公開され、大ヒットした映画です。検察庁は、この映画を猥褻図画公然陳列罪で起訴しました。

三島由紀夫は、この弁護を買って出て、被告人側の証人となったのです。

三島由紀夫が人間の、文化的退廃として、老人の偽善を嫌ったことは、すでに「14。文化観」で語った通りです。

これを安部公房流に言うと、つぎのような言い方になります。山田真知子と結婚したときに、哲学談義をした親友、中埜肇に宛てた、結婚に対する考え方、一般的な世間の生活の中に入るように見えるが、そうではないという決意を述べた書簡です(『中埜肇宛書簡第9信』全集第1巻、267ページ)。

「サンボルと言ふものは経験の年によつて次第に老け込み、終ひには習慣と言ふ恒数に迄追ひやられて終ふでせう。これが何よりも恐ろしい生存の没落です。それは或る意味で生存の不注意から来るものです。僕はしつかりと各瞬間の存在の生誕であるサンボルを掴んで行きたい。」

また、安部公房が三島由紀夫をどのように深く理解していたかも、特に「1。剣道」と「13。本物と贋物」で、『反政治的な、あまりに反政治的な』を引用して、また「18。狼」で、お話した通りです。

安部公房全集第30巻の索引をみますと、安部公房は、青春という言葉を使った次のような題名の資料を残しております。

(1)青春のたまり場をゆく:1955年:第5巻、7ページ
(2)青春の生甲斐(座談会):1956年:第5巻、411ページ
(3)青春(東欧を行く):1956年:第7巻、91ページ
(4)青春の心:1957年:第30巻、72ページ
(5)青春と暴力と性(対談):1978年:第26巻、267ページ

『黒い雪』が世上、その過激な性的映像で問題になった同じ1965年、8月1日に、安部公房は『被告席から』と題した文学とセックス描写の関係を、ノーマン・メイラーを主題に据えて論じております。

ここには、この映画の名前は出てきませんが、同じ年ですから、また三島由紀夫のこともありましょうから、安部公房がこの映画のことを意識しなかったことは、なかったでしょう。

ここでの安部公房も、やはり、「14。文化観」や『反政治的な、あまりに反政治的な』を引用してお伝えしたように、”清掃”や”衛生”という観念を嫌い、老人の怯懦に強く反発しております。

「それとも、クロンハウゼン流に、芸術の精神衛生学的効用でも論じていただろうか。馬鹿々々しい限りである。そんな論法は、検事の諭告以上に、ぼくのプライドを傷つけるだけのことだ。
 まあ、プライドのことは、ひとまずおくとしても、性描写が精神衛生学的効用をもつという考え方は、一見、検事の説に反対しているように見えながら、じつは、現代が性的神経症にむしばまれているという結論を、ともかくも認めてしまったことになるのである。」

1965年。この年の12月に、安部公房は『終りし道の標べに』を、戦後直ぐの、そうして安部公房自身の処女作であり、埴谷雄高に発見される契機となったこの優れた日本語による存在との格闘を書いた、初々しい哲学思弁小説の真善美社版の原稿を大幅に改稿して、冬樹社から出版しています。

即ち、10代と20代の獣のような自己を養うためにあれほど必要としていた独自の哲学用語をすべて抹殺して、いや奥深く人眼から隠して、自分の青春との決別をしたのです。安部公房41歳。安部公房は次のように、その『あとがき---冬樹社版『終りし道の標べに』』で書いています。

「当時私は、文学的には完全に孤立していた。小説の概念も、まったく自己流のもので、小説を書こうというよりも、たぶんひとつの世界を書こうとしていたのだと思う。戦争中のあの閉鎖的な空気のなかで、リルケとニーチェの間を往き来しながら、実存主義だけをたよりに自分を支えてきた私には、小説的虚構も、世界を表現するための手段以上には、なんの意味も持ちえなかったのだ。しぜん出来上がった作品は、きわめて非小説的なものにならざるをえなかった。新しい小説を目指したためではなく、乗り越えるべき旧い小説をさえ、私はほとんど持っていなかったのである。」
 しかし、あらためて読み返してみて、やはりこの作品を、私の出発点として認めざるをえないという気持ちになった。作家はつねに処女作に帰るものだという、宿命論的な言い方を、私はあまり好まないが、この作品が、いまなお私の仕事をつらぬいて通っている、重要な一本の糸のはじまりであることを、否定することは出来ない。さすがに表現のまどろっこしさは争えず、多少手を加えはしたが、あくまでも原意をより明確にする範囲内にとどめることにした。二十年間行方をくらましていた、私の最初の分身を、いまは心よく迎え入れてやりたいと思う。---そう、これが私の処女作なのである。
 一九六五年十一月
                           安部公房」

しかし、この青春との決別を、すべて根底からひっくり返したのが、三島由紀夫の死でありました。

こうして、1973年に、もう一度リルケの『マルテの手記』に倣って、20代では小説家として出発するために『名もなき夜のために』を書いてリルケを乗り越えようとしたように、今度は逆方向に、リルケの世界に回帰するために、安部公房は『箱男』を書くのです。前者は第1回目の、安部公房の『マルテの手記』、後者は第2回目の、安部公房の『マルテの手記』です。

それと同時期に、安部公房スタジを立ち上げ、この論考の中で述べたように、小説と同じ時間の空間化という考え方で演劇論を語り、俳優の演技論としては、ニュートラルという概念を中核に据えて、時間の無い空間、即ち純粋空間の、自分の10代の、詩の世界へと回帰する決心をするのです。

この処女作の改稿のときに、既にその予兆はあって、それは、この改稿の最後を次のように、安部公房は書き改めているからです。『もぐら感覚21:緑色』から引用して、緑色という視点から、小説のこの最後の箇所を初版と再版とで比較をしてお話しします。

『終りし道の標べに』の最後にも緑色が出て参ります。真善美社版と冬樹社版を比較すると、次のことが判ります。

真善美社版は、1948年、安部公房24歳、冬樹社版は、1965年に刊行、安部公房41歳。

[真善美社版]
ふと涙が頬を伝って足下に落ちた。それが地面に消えようとするときキラッと輝いたのに気を奪われて俯向くと、がさがさに融けては又凍った氷雪の割目に、小さな、しかし目も覚めるような緑の草の芽がのぞいているのに気付いた。ああ、私はこんな童話を求めていたのではなかったか。なんという儚い郷愁の香りだろう。(全集第1巻、388ページ)

[冬樹社版]
 すぐ足もとの、凍ったまま融けた雪のくぼみから、小さな緑の若芽がひとつ、やましげに首をもたげている。……いや、やましかったのは、むろん若芽のほうではない。その若芽によって引きおこされた、鋭い痛覚……悔恨の情……植物のみがもつ、あの完璧な自己閉鎖と自己目的的充足に、私の内部の動物が、思わず羨望のうめきをもらしてしまったのだ。(全集第19巻, 470ページ)

前者、即ち真善美社版では、やはり、「氷雪の割目」と言っております。この割目が何を意味するのか、次の『もぐら感覚22:ミリテリィ•ルック』で論じた通りです。この割目に落ちるものが、涙という滴であることが、実に安部公房です。『秋でした』という詩にも、この涙、実は緑色のなみだが出て来ました。それが割目、隙間、間隙(木の間 木の間)に、この小さな空間に落ちる事、これは、論じた通りです。

ここで、安部公房は、散文家になった後に、こうしてみると、詩の世界での緑色の涙を、緑色と涙に分解して、二つに分けて、安部公房の思考論理の通りに、主観と客観に分けて、散文として叙述したということになります。実に、安部公房らしい。20代の前半に詩人のまま小説家になろうと努力していて、安部公房が何を考えていたのか、どうやって自分の詩的形象を散文としたかがよく判ります。

「目も覚めるような緑の草の芽」というところに、このときの安部公房の思いがあるでしょう。これは、夜の世界の緑色、即ち紫色ではないのです。春の、自然の中の緑色であって、それから遥かに遠い主人公の生きる世界の緑色ではないのでしょう。しかし、いや、つまり、この小説にこの緑色の結末を持って来た安部公房は、リルケの詩の世界の「冬眠の巣」ごもりから目覚めて(全集第21巻、437ページ下段)、やはり現実の時間の中で生きようと決心したのです。

後者、即ち冬樹社版の「小さな緑の若芽がひとつ、やましげに首をもたげている」というこのやましさは、その後直ぐに語り手が註解している通りでしょう。これは41歳の小説家の安部公房が、詩の世界を振り返って思った、「鋭い痛覚……悔恨の情」を以て「植物のみがもつ、あの完璧な自己閉鎖と自己目的的な充足」という言葉は、やはり、安部公房が自己を語ったという以外にはないと思います。再帰的な人間は、他者を敢えて必要とせず、自己目的的に、完結した、合わせ鏡の世界に生きているのです。また、植物は、時間の無いリルケの純粋空間に棲む生き物の一つでした。この自分本来の性質を、安部公房は終生、特にその前半の20年は、いつも否定していましたし、その20年の最初の10年は共産党員にまでなって、自分の本来の性質に逆らって生きたのです。何故安部公房が日本共産党員になったかは、稿を改めて詳述します。

さて、この「完璧な自己閉鎖と自己目的的な充足」に対して「私の内部の動物が、思わず羨望のうめきをもらしてしまった」と書いているところに、安部公房の当時の、戦後の、天井を取り払われた時代の空気を吸って、どうしようもなく自己の中に脈々とある青春の力を覚える安部公房がいます。安部公房も自分自身を持て余したのでしょう。これは、短編集『夢の逃亡』の後書きにあるように、「森の木陰で、憎悪の牙をむき出している、飢えた狼」に自分を譬えております。その通りなのだと思います。それは、単に貧しかったからというだけではないのです。

安部公房の前半の20年は、この青春の力を以て、社会と国家の中に出ていった20年でした。後半の20年は、三島由紀夫の死、それも切腹という儀式に即した死、日本の国と天皇陛下のためにそのように実際に死んだというその死によって衝撃を受けた安部公房が、「植物のみがもつ、あの完璧な自己閉鎖と自己目的的な充足」に、リルケの純粋空間に、回帰しようとした後半の20年だと、わたしは思っております。リルケに学んだ通りに無名性に没して「自分だけのオリジナルな死を死ぬために、一般的な死を拒絶したい」(『シャボン玉の皮』、全集第24巻、419ページ上段)と思いながら。

しかし、三島由起夫の死ほど、戦後において一般的ではなくその人間固有の死は無かったのです。これが、安部公房とあらゆる接点を共有していて互いに対称的であり、対照的であり、その方向がすべて反対であった三島由紀夫の死が、安部公房に、大きな、深い衝撃を与えた一番の理由だと、わたしは思っています。安部公房と三島由紀夫については、稿を改めます。









巻物と安部公房



巻物と安部公房

今日ふと気付いたのであるが、日本の古典的、伝統的、歴史的な美術表現の形式である巻物という形式は、実に安部公房の作品の構造であるのではないかと思いました。

これは、忍術の世界にある巻物であり、柳生武芸帳に登場する巻物であり、従い、秘伝を伝える巻物であり、そのほかにも、勿論、源氏物語絵巻とか、一遍上人絵伝とか、鳥獣戯画図とか、それからお経も巻物であり、そう、お経であれば平家納経もあるといったように、数多くあります。

勿論、海苔巻きという巻物も、日常的にあって、これはいつも街角のコンビニエンス・ストアで売られている。これは、お米という日本人の文化の核心であり生命を養って来たものを巻物にしている。そして、もっと考えると、この海苔巻きは、お米という陸の植物を、海苔という海の植物で巻いた、水陸の巻物です。味覚や臭覚と相俟った、この組み合わせは、素晴らしいものだと、今この文章を書きながら、改めて思います。

さて、この形式は、絵ばかりではなく、そこに言葉で詞が添えられている。或いは、もしこの絵と言葉の価値を等価であると考えるのであれば、それは『箱男』の世界になるでしょう。この場合の絵は、写真ということになります。『箱男』は、絵巻物なのです。

つまり、時間の経過を絵で、それ自体時間を表すことの出来る長いもの、どこまでも永遠に続くこの一次元の時間に幾らでも理論上これを含むことができる長尺ものの平面の上に描いて、出来事を表し、表すだけではなく、それを巻いてしまって、一つにする、統合するということが、面白い。素晴らしい着想だと思います。

これを安部公房の小説との関係で考えると、ページの集合というヨーロッパ人の発明した書物、中近東のペルシャの文明の発明した書物ではなく、或いは支那人の発明した、即ち大陸人の発明した書物ではなく、開き始めたらすべてずべらっーとつながっているということが大切なことなのです。ということは、これは島国の、列島である日本人の発明だということになるのだろうか。

自分の人生や世界を一冊の書物だと考えるのか、それとも、一巻の巻物だと考えるのか。

前者は、古代ギリシャから今に至るまでヨーロッパ人の意識の中にある典型的な、本質的な譬喩(ひゆ)の一つです。とすると、日本人は、この宇宙と世界を一巻の巻物として観ているのです。

これで、人生の質(quality)は随分と変わってくるのではないだろうか。

前者は、俗に言う、狩猟民族の思考、後者は俗に言う、農耕民族の思考でしょうか。しかし、農耕は大陸にもあるわけなので、これはやはり日本人の思考と感性に独特のものと言わなければならないでしょう。

安部公房が、箱根の仕事場で、トイレット・ペーパーの芯を使ってオブジェを制作している写真があり、実際にそのオブジェの写真があります。



トイレット・ペーパーの芯とは、円筒形の巻物であって、ここに安部公房が感じている何かがあります。何故この素材を選択したかということです。

この円筒形は、安部公房の、若いときから晩年までの言語論を読むと、言語組織(言語作品)を創造するとは、現実的な諸要素を、自己を含めた全体の忘却によって一度完全に忘れ果て、その後、そこに再生する変形し時間を脱した諸要素を思い出して、それらを言語に変換して新しい、或いは安部公房の語彙を使えば贋の現実を統合的に再構成することですから、この円筒形たる安部公房の巻物は、安部公房によって統合され得られた積分値そのものの姿を表しています。

この巻物は、上の説明からもわかるように、現実的な一次元の時間、流れてゆく、後戻りしない時間を、その中に含んでおります。

安部公房は、その言語論で、この積分値の姿を円筒形になる、丸い円を平面上に書いて、それを積分すると、円筒形になるその姿として複数の箇所で語っています。

「都会―閉ざされた無限。けっして迷うことのない迷路。すべての区画に、そっくり同じ番地がふら れた、君だけの地図。
 だから君は、道を失っても、迷うことは出来ないのだ。」(『燃えつきた地図』、全集第21巻、114ページ)

今、安部公房の人生の前半の20年の傑作のうちの一つ『燃えつきた地図』のエピグラフを、こうして引用し、眺めてみると、時間という無限の一次元を含むこの円筒、この巻物も、「都会―閉ざされた無限」である以上、安部公房の考えでは、閉鎖空間であり、従い、脱出することを考えて、確かにこのようなオブジェが生まれるのだということが分かります。

このオブジェは、安部公房のすべての作品の構造であり、安部公房の認識した言語の構造なのです。

このオブジェが一体何を意味しているのかは、今月末に出るもぐら通信(第27号)の編集者通信に詳述しましたので、お読み下さると、有り難く思います。




2014年11月13日木曜日

安部公房の発明空間とファシズム


安部公房の発明空間とファシズム


1969年の『ユリイカ』(昭和44年8月号)で埴谷雄高が安部公房について、次のように語っていることは、全く安部公房の文学の本質を言い当てている。

何よりも、この短いエッセイの題名が『安部公房の発明空間』というのである。

安部公房の発想は、全く発明家や起業家の発想と同じです。発明家や起業家が、何か新しい発明の着想を得たり、また新しいビジネスモデルを着想して商売に乗り出すそのそもそもの発想は、時間の無化に依るからです。

時間の無化というと何か難しいことのように思われるかも知れませんが、実はそうではなく、例えば安部公房が『第四間氷期』のコンピュータの未来予言の根底にある論理がそうであるように、今この現在という時間を捨象して、それがないものと思い(これが無化ということ)、即ち英語でいうならば非現実話法で、ドイツ語でいうならば接続法II式という、ともに過去形から創造する時間の無い主文と従属文を生成するということなのです。

今これこれのものは存在しないが、しかし、もしそれが存在していたとしたら、一体社会はどのように変わるだろうか、と考えるのです。

英語の授業で典型的に教わったような、次の文を思い出してください。この文には時間が無いのです。そして、この文は過去形から生成されるのです。

If I were a bird, I would fly to you。

即ち、現在を、未来から見た過去と考え、現在を過去から見た未来と思うこと、そして、一次元に並んでいるどの時間も、このように考えて交換関係の中に置くこと。

これが、安部公房の発明家としての発想のもとになっている論理、それも時間が無いということから言っても、幾何学的な数学の論理なのです。複数の時間を無化して、捨象して、お互いに交換し、一種の構造体(モデル、模型)を創造するわけです。

わたしは現在鳥ではないので、愛するあなたのところへは飛んで行けない。これが、現実です。

しかし、もし私が鳥であったならば、わたしはあなたの所へ真っ直ぐに飛んで行くことができるのに。

実は詳細な説明は省きますが、このような文をドイツ語でKonjunktive(接続法)というように、これは英語で言うならばconjunctionという、二進数の世界の用語でいうならば論理積(conjunction)という掛け算を、わたしたちは頭の中で演算しているのです。掛け算であり、論理積でありますから、当然この思考の過程には時間は存在しないのです。これが、何故上の文が祈願文と呼ばれ、同じ形式でそのまま、命令文になるのかという理由なのです。後者の場合、わたしたちは、その命令文に時間が存在しないが故に、それが誰であれ、親であれ恋人であれ、自分の上位者だと思っている上位者の命令に、わたしたちは否応なく従うのです。

この従属接続詞を生成するif(もし~だったならば)に従属される主文と、この従属文(条件文)を否定形にして、非存在(非現実)を表すことも、勿論、できます。

この同じ論理で、安部公房が発行し、複数の作品に登場させているのが『明日の新聞』です。戯曲『友達』や『密会』にも出てまいります。

この幾何学的な安部公房の着想を、埴谷雄高は、その題名として言い当て、安部公房の「発明空間」と、その作品の世界を発明と同じ空間だと言ったのです。

「ところで、私と共通していた存在論的主題から踏みでた安部公房の飛躍の特色は、アヴァンガルドの最初の先輩にして僚友たる岡本太郎と花田清輝の点と線と面の立ちあがり運動の広い幅をもなお遠く越えて新たな変貌へ向かって飛び続けたことに存する。
 この私達から大きくかけはなれてしまったその新たな変貌とは、古い言葉でいえば、雪月花に象徴される吾国の短歌的情緒のはいりこむ一抹の余地すらまったく存せぬ幾何学的図形の極度の冷厳性、現在ふうな言葉でいえば、デジタル出現するコンピューターの無感無覚空間への敢然冷厳たる踏みこみにほかならない。そしてさらになおまた、これを最新現代風に言い換えると、モンドリアンの原始集積回路ふう図形の出発点を、超につぐ超で飛躍的に追い越してゆくところの最新空間、その冷厳な成功によって忽然たる都市の出現をもたらし、そしてまた、その冷厳たる失敗によってシリコンヴァレーの忽然たる廃墟がもたらされるところの発明空間にほかならないのである。
 安部公房は、いってみれば或る巨大空間へと向かう途上で飛び去ったが、安部シリコンヴァレーの忽然たる出現と、また、忽然たる廃墟の深く屈折した推移の仔細については、幼年時代からコンピューターの変転する画像とともに成長しきたった新しい批評家の緻密な回答を俟つべき、これからの異色ある深い分析課題である。」

「幼年時代からコンピューターの変転する画像とともに成長しきたった新しい批評家の緻密な回答を俟つべき、これからの異色ある深い分析課題である」とあるのは、全くその通りだと思います。

もぐら通信(第26号)に寄稿下さった信州の中学三年生の篠子雄太さんは、まさしくこの新人の一人であると思います。そのような公房読みが育ってきていることは、埴谷雄高の予言通り、心強い限りです。

さて、期せずして、この同じユリイカの号に、巽孝之と久間十義の対談があり、この対談は全般に亘って実に、これも安部公房の文学の本質を論じていて、誠に素晴らしいものがありますので、今そのうちの、この安部公房にとって作品とは、実は発明と同じであったということを述べているところを引用して、読者の理解に供します。

「巽 たしかに、ひとつのネガティブな視点を据えれば、六〇年代から七〇年代にかけての安部公房というのは、日本的なリアリティに対する非常に尖鋭な視点を失ってゆくように見えるわけですけれどmど、今日的な目でもう一度考え直してみるとき、それはある意味で、我々が安部公房の作品を文学として考えすぎるからじゃないか。漱石とか三島でしたら、彼らの文学研究というものが無理なく想定されるわけですけれども、安部公房の場合は、彼の文学作品に対応するのはひょっとしたら文芸評論でも文学研究でもないかもしれない……だから、書店でも目に見えないのかもしれない。
 それは、安部公房が文学を文学としてみると言うよりも、文学自体を一種の発明品、テクノロジーとして考えていたことと関係すると思います。安部公房自身、一九八六年には簡易着脱式タイヤ・チェーンで、国際発明EXPO銅賞というのを受けていますよね。彼は、文学者としてよりは発明家の視点で作品を書いていたのではないか。彼の文学作品も発明品の一種というふうに考えると、それはそのあとどんどんアップデイトされリメイクされて、我々の日常的な現代文化に浸透してしまうような何かだったのかもしれない。ひとつのテクノロジーの発明者が誰だったかという固有名詞レベルのことは、我々は普段あまり考えません。それと同じことが、安部公房にもあてはまる。文学を文学として考えるタイプの作家であれば、その作者自身の固有名詞というものがついてまわるわけですけれども、安部公房の場合は文学を発明品として考えたがゆえに、彼自身の固有名詞みたいなものは、むしろどんどん現代文化に呑まれていった。」

ここで巽先生が発言していることは、全くその通りに安部公房の文学の本質、その文学のあり方を指摘していると、わたしは思います。

それもこれも、すべて、言語の本質を教わった、あの無名に没することを教え、無名の人間の固有の死を教えたリルケに戻るのですし、それと同時に、安部公房が閉鎖空間と社会を見た18歳のときの『問題下降に依る肯定の批判』以来の、『問題下降に依る肯定の批判』という方法による、これをニーチェに学んでのその閉鎖空間からの永遠の出発と回帰、即ち閉鎖空間から一次元上の接続空間への脱出と、そしてまた再びその閉鎖空間の出発地点へと戻って来る、この安部公房流の永劫回帰によるのです。そして、やはり仮説設定の文学を学んだ、ポーのことと、この三名の先達のことを思わずにはいられません。

仮説設定という考え方こそ、安部公房の文学を、上で述べられているように、発明品のようにしている大元の考え方であるからです。そして、安部公房が数学者であったことを忘れるわけには行きません。

さて、もうひとつ、少し長い引用になりますが、実に鋭い指摘を久間十義という作家はしております。この方も、よく安部公房を深く読んでいる方だと思いました。

それは、安部公房の言う、見かけ上のコスモポリタニズムと、それと全く裏腹にある、安部公房の持つナショナリズムの関係について喝破している、『コスモポリタニズムの逆説』と題した章での次の言葉です。

「久間 誰もが知らずにアベコーボーしている(笑)つまり物象化された安部公房現象がいまではありふれた光景になっているというのは、実際ありそうな話ですね。安部公房の文学がフォルムとして受け入れされて、無意識のうちに安部公房のフォルムをなぞるようなかたちで小説が産出されてくるというのは、これは非常に当然というか、自然なことですからね。しかし、この希薄化され、出自を忘れたアベコーボーたちは、少なくとも僕自身に強くアピールしてくるわけじゃありません。仮に、安部公房のフォルムを成り立たせているある契機みたいなものについて、彼らが非常に無意識のままであるとすれば、案外、安部公房を縮小再生産している部分があるんじゃないでしょうか。
 さっきナショナリズムということをおっしゃいましたけど、安部公房の提出した文学的なシェーマは、ぐるりひとひねり回ってというか、それこそ、”メビウスの輪”的にナショナリズムの問題と重なりますね。彼一流の、ある疎外された状況を観念的にズラしていく、その状況を受け入れつつ、そうじゃないんだというふうにしていく問題というのは、普通に考えたら、非常に強い権力的なバインドがあって、我々がにっちもさっちもいかない時に、そのにっちもさっちもいかない中で自由を見出そうとする時に出てくる問題なわけです。例えば、特攻隊員が明日死んでいく、その死んでいく中に真の自由があるんだとか、そういうような言い方と重なる部分が、僕はあると思うんですよ。つまり、現実的に成就されないものを観念の中で成就するという思考パターンがあって、安部公房はその可能性と不可能性の両方を、彼の設定した物語構造の中で逆説的に示そうとした。それは、実際には我々はひとつじゃないのも関わらず、想像の共同体としてネイションというものを考えていくのと、ある部分では重なっている思考形態です。よくいわれるような安部公房のコスモポリタニズムとナショナリズムというのはだから鏡の裏表なんです。同じような土壌から出てくるんだけれども、一方では決定的に、その共同性みたいなものを嫌い抜くというか、そういう精神のかたちを取り続けたいという思い、もう一方はその共同体のために殉じようとする。根が同じだから逆の態度もでてくるわけで、徹底した安部公房の共同体嫌悪をぼくらは額面通りに受け取るだけじゃ、大事なものを取り逃がすかもしれない。
 そしてさらに言えば、そういう、現実に成就できないことを観念の世界で成就していこうという考え方というのは、一種のオポチュニズムというか、それが引き金になった政治的な熱狂へと変化しかねないものでもあるわけです。例えば経済的に非常な不況があって、我々がそこでは物質的に自己実現できない時に、何か知らないけれども我々を熱狂させるような、非常に魅力的なものが出てきたとしたら、我々はふっともっていかれる。僕はファシズムを想定して言っているんですが、そういったものと重なってくるんじゃないか。ですから、安部公房がシェーマとして立てた問題が立ち上げる場所と、それからファシズムのようなものが---ファシズムって、べつにバカな連中が考えたバカな政治思想じゃないですからね。実は非常に魅力のあるものだと思うんですよ。---立ち上がる場所というのは似ていて……。と言うか、じっさい同じ時代に安部さんも生きていたわけですよ。そこのところを忘却して、安部公房のフォルムだけを無意識のうちに再生産したり、我々自身のリアリティを安部公房に押しつけているようなかたちで彼を消費するようになったら、それはもう少し考え直したほうがいいんじゃないかと思うことがあるんですね。」

この作家のいうことは、全くその通りです。

この言葉は、何故安部公房はあんなに繰り返し、ナチスの制服とナチスの映画を観ることが好きであったのかの十分な説明になっております。

そうして、また、この言葉は、何故安部公房が日本共産党員になったのか、その安部公房最大の弱点を余すところなく指摘しております。

今詳細には、この発言を解説致しませんが、同じことを、今月末に出るもぐら通信第27号と来月の第28号の2回に亘って『もぐら感覚22:ミリタリィ・ルック』の題のもとに詳細に、その10代の詩から晩年の言葉に至るまでを通覧して、論じましたので、お読み下さればと思います。安部公房がこんな人間であったかと、あなたは驚く筈です。

また、『安部公房と共産主義』と題して、同じことをマルクス主義との関係で、即ちファシズムとの関係で、これも詳細に論じます。

あなたには、安部公房のフォルムを「縮小再生産」するような、安部公房の言葉の面(おもて)だけを鵜呑みにして、「安部公房のフォルム」をただ「消費」するだけの、自分の頭で考えないような読者であって欲しくはありません。

この作家のいうように、ファシズムとは、安部公房の立った同じ場所から生まれて来る、実に魅力のあるものだと、安部公房同様に、わたしもそう思っています。

追記:池田龍雄のエッセイに『詩的発明家---安部公房』がある。『芸術アヴァンギャルドの背中』(沖積舎刊)。この若き安部公房の親しき友人であった画家もまた、安部公房の発明家であることを普通によく知っていたということを、この標題は意味しています。同じエッセイの転載が、渡辺三子さんによる郷土雑誌あさひかわへの寄稿を集めた『安部公房を語る』(あさひかわ社)の144ページにある。


安部公房の心の穴


安部公房の心の穴


ナンシー・S・ハーディン(シールズ)との対談で、安部公房は、その旺盛な創作活動の由って来るところは何かと訊かれて、次のように答えています。1973年、安部公房49歳

「創造力はある意味での欠乏から発生するのではないかという気がします。いわば「油切れ」と同じようなものからね。それはネガティヴな圧力であり、一種の空虚であるわけです。もっと具体的に説明するために、二人の作家の名前を挙げましょう。エドガー・アラン・ポーとフランツ・カフカです。二人とも同じネガティヴな感覚を共有していたようにぼくには思われるのです。これは、ぼく自身の問題だけではなく、むしろ他人が何を望んでいたかという問題です。だれしも心の中にからっぽの穴が空いている。そして、できるなら、ぼくはその穴を埋めたいのです」(『安部公房との対話』ナンシー・S ・ハーディン。全集第24巻、468ページ。)

「ぼく自身の問題だけではなく、むしろ他人が何を望んでいたかという問題」という安部公房の考えは、これはこのまま10代で確立した安部公房の自己と世界の関係の、即ち外部と内部の交換の、そして作家と読者の関係の本質を言っているのです。これは、19歳のときに書いた『〈僕は今こうやって〉』以来、終生変わることがありませんでした。

さて、トーマス・マンも、安部公房と全く同じことを言っています。世の人は才能があるというが、実はさうではないのだ、才能とは、欠落なのだ、と。この欠落を言い変えて、etwas Unmenschliches(非人間的なもの)と言っています。

安部公房が詩人から小説家にならうと努力したときに書いた『牧神の笛』でも、リルケに同じものを発見して苦しむ安部公房がおります。あんなに10代で溺れるようにして読んだ素晴らしい詩作品を書いたこの詩人が、実に冷酷な人間であることに気づいて、驚くのです。そして、詩人から小説家(散文家)になるために、その冷酷な人非人の人間になろうとする決心を、このエッセイの最後で披露しています。それも、自己再帰的に、自分の血を啜(すする)半獣半神の、牧神のような生き物として。つまり、詩人のまま小説家になろうという決意なのです。リルケに倣って。そして、この試みが成功するには、日本共産党員の時代を経験しなければなりませんでした。これについては、来年1月号に『安部公房と共産主義』と題してお話しします。

さて、この「欠乏」は、安部公房の場合は、「それはネガティヴな圧力であり、一種の空虚であるわけです」と言っていることからわかる通り、これは『S・カルマ氏の犯罪』で、主人公の持っている胸の陰圧として形象化されたものですし、後年の『方舟さくら丸』では、何でも吸い込んで処分してしまう便器として、物語の中心の座を占めて、登場するものです。

安部公房のこのブラックホールのような便器への執着が、何故なのか、何に由来するのかということは、『もぐら感覚15:便器』(もぐら通信第13号)で論じましたので、お読み下さい。

しかし、それ以前には、安部公房は自分にしっくりとくるこの空虚、心の中に空いているからっぽの穴は、やはりリルケの『涙の壺』に同じそれを見て、数理・論理的にであるばかりではなく、自分自身の生理的な実感としても、この詩を理解していたのです。この詩については、このブログの次のページで訳し、解釈と鑑賞をつけましたのでお読み下さい。:http://abekobosplace.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html

この詩を読むと、『S・カルマ氏の犯罪』の後の『デンドロカカリヤ』(1952年12月)も、その前の『赤い繭』(1950年12月)も、安部公房の同じ生理感覚と論理の上に成り立っていることがわかります。

そして、そればかりではなく、論理と生理的感覚としては、それ以外のすべての作品に、安部公房の変形の論理と一緒に、この空虚のあることがわかります。

更に、安部公房は、冒頭の引用の後、この対談で次のように言っています。

「しかし、一度書き出してしまったら、不思議なことに、書いている作品自体が主導権を握り、ぼくはそれに従うしかない。もはや自分が書いているものを支配できなくなるんです。ある段階を超えてしまうと、自分ではコントロールできなくなる。」

これは、この空虚を持ち、知っている言語藝術家だけが覚える言語の自己増殖です。同じ経験を、トーマス・マンは繰り返し述べています。言語組織が、自己の意思を持って増殖し、有機体を完成して行く。

他方、普通の言語使用者は、言語を制禦(コントロール)できると思っていて、そのように言葉を使用することをよしとするのです。これが、普通の世間に棲む人間たちの世界での言語についての考え方です。法律も、この考え方でできている。しかし、安部公房の主人公たちは皆、法律の外に、無名の、世間に未登録の人間として生きています。

冒頭に引いたこの対談は、これ以外にも実に贅沢に安部公房の主題と、安部公房自身による解説がされていて、安部公房の読者には欠かすことのできない資料の一つであると思います。

何故か、リルケについて、その周辺のことについて語り始めると、安部公房は誰にも言わない本当のことを語り始めるのです。リルケについて語るところ、散文家としての自分にとってのリルケの意義について語るところを読むと、安部公房がリルケをどうやって「否定的媒介」として考えて、自分が散文家になったのかが、よくわかる論理を、別の率直な言葉で語っております。(全集第24巻、473から474ページ。また、476ページ上段)

また、その他にも、小説や戯曲を書くことや舞台をつくることは、時間の空間化であること、函数関係で表現することであること、革命と安部公房の理解した実存について、その覚悟について、『箱男』に挿入した8枚の写真について等々、この『箱男』刊行後の安部公房の考えをふんだんに、実に贅沢に、安部公房は率直に開陳しています。

戦時中に読んだ哲学者の名前として、ヤスパース、ハイデッガー、フッサールの名前を挙げています。しかし、ニーチェの名前を挙げていない。ということは、それほどニーチェは、安部公房にとって深く理解をした大切な哲学者であったのです。10代の、哲学談義をした親しき友、中埜肇宛の書簡を読めば、安部公房がどんなにニーチェを、これもリルケと同じ位に、溺れるように読んだかが判ります。ニーチェは、何よりも、安部公房生涯唯一のプロット、閉鎖空間からの脱出と帰還の永劫回帰の覚悟を教えてくれた哲学者であるからです。

このインタビュアーは、『安部公房の劇場 Fake Fish The Theater of Kobo Abe』という、安部公房をよく理解した人間の書く素晴らしい本を書いておりますが、この対談でも、安部公房の持つ純粋数学への嗜好を自分は知っていることを伝えて、安部公房の本音を引き出しています。

安部公房は、このインタビュアーに心をゆるし、思わず、

「これは普通人に話したりしないのですが、ぼくは満洲生まれで、そこは冬がとてもきびしいところでした。」と始めて、自分にとってエドガー・アラン・ポーがどんなに大切な、最初に物語の本質を教えてくれた作家であるかを述べています(全集第24巻、475ページ下段)。ルイス・キャロルは、ポーの次に好きだとも、言っております。

一読をお奨めします。









2014年11月11日火曜日

三島由紀夫の新作歌舞伎と安部公房の仮説設定の文学


三島由紀夫の新作歌舞伎と安部公房の仮説設定の文学


三島歌舞伎 「鰯賣戀曳網(いわしうり こいのひきあみ)」という新作歌舞伎があります。

昭和29年の作品ですので、1954年。この歌舞伎作品の上演に当たって、三島由紀夫を次のように、その上演プログラム(昭和二十九年十一月歌舞伎座プログラム)に書いています。

「新作歌舞伎を作るに当たって次の二条件を考えた。

(一)従来の新作歌舞伎は、歌舞伎の技術的財産を十分に利用しないで、かえってそれを無視したり、歪曲しようとばかりして来ている。歌舞伎の技術的財産、特にその天才的な様式美は、現代の作者といえども、百%あるいは百%以上に利用し活用しなければならぬ。

(二)歌舞伎の内容は、現代のわれわれには共鳴できぬ部分がたくさんある。封建道徳しかり、これでもかこれでもかと哀れっぽく持ちかける涙の乱用の劇作法しかり。義理人情のしがらみでしめつけてかかるやり方しかり。そこで悲劇からは封建道徳と義理人情を、喜劇からは低俗さをとりさって、すべてを人間的動機だけから組立て、人間的な悲劇、人間的な喜劇を創造すること。」

以下同様に、「『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)平成26年(2014)11月11日(火曜日)通巻第844号」より引用します。

「三島は生涯に六本の歌舞伎を書き上げている。時系列に挙げてみると、
地獄変       昭和二十八年
鰯賣戀曳網      昭和二十九年
熊野         昭和三十年
芙蓉露大内実記    昭和三十年
むすめごのみ帯池取  昭和三十三年
椿説弓張月      昭和四十四年

三島にとって二作目の歌舞伎である本作は、三島作品としては珍しい笑劇(ファルス)である。ファンタジック・ラブコメディーのハッピーエンドで、事実この日の歌舞伎座にも終始明るい笑い声が満ちていた。

作品は室町時代のお伽草子「猿源氏草子」と、平家物語のパロディーとして書かれた「魚鳥平家」を典拠とし創作されている。「ダフニスとクロエ」から「潮騒」が生まれ、「浜松中納言物語」から「豊饒の海」が生まれたように、「近代能楽集」も「三島歌舞伎」も、古典を自由に翻案することで、それが三島の才能によってまったく新しい作品といってもよい新たな命を吹き込まれたといえよう。

最初に物語の粗筋を記しておく。上演時間一時間ばかりの一幕物である。舞台は京・五条橋ならびに東五条洞院の場。
鰯売の猿源氏(さるげんじ)は、輿の御簾が風で巻き上がった隙間から、都一の美しい遊女・傾城蛍火の姿を見たとたんに一目惚れ、恋に惑って仕事にも身が入らず、鰯を売る掛け声も調子はずれとなり、父親・海老名なあみだぶつに、そんなことでは「鰯がくさる」と怒鳴りつけられる。

だが、かつては自分も廓通いに明け暮れていた父親は、そんな息子の恋を何とか成就させてやりたいと考えてある策略を立てる。猿源氏を東国の大名(宇都宮弾正)になりすませて郭へ送り込み、見事蛍火を座敷に呼び込むことに成功する。その遊興の座敷で蛍火は猿源氏に合戦の軍記を聞かせてほしいとねだるが、猿源氏の話に登場するのは鯛、平目、赤貝、蛸といった魚介類の合戦譚。その内猿源氏は酒の酔いが回り、うとうとするうちに寝言で、「伊勢の国に阿漕ヶ浦の猿源氏が鰯かうえい」と、鰯売りの掛け声を上げてしまう。蛍火があなたは鰯売りか問うと、古歌を引いての苦しい弁解を繰り返す。
その猿源氏の苦しい弁解を聞いた蛍火は、こんなにも歌道の道に優れているお方なら、殿様に間違いないといって泣き伏しながら、自分の身の上話を語り出す。

蛍 「鰯賣りと思ひしに、正眞たがはぬ殿様とは、これが泣かずにゐられうかいなア。」蛍火はもともと紀国丹鶴城の姫であったが、高城で鰯売りの声を聞いて魂を奪われ、城を抜け出して後を追ったという。しかし、追いつけず道に迷ったところを人買い商人に騙され、郭に売られて今の身の上となったのであった。
姫は、猿源氏が寝言で発した売り声を聞き、その会いたいと思っていた鰯売りの男に今日会えたと思ったのに、猿源氏がやはり別人で殿様だったこと落胆し、懐刀を抜き自害しようとする。猿源氏はあわてて引き留め、自分は贋者の殿様で、本当は鰯売りであると明かし、刀を天秤棒のように担いで、華やかな座敷を歩き回ったりする。

そこへ丹鶴城からの密偵がやって来て、身請金も整い、蛍火は郭から自由になる。しかし、姫は威厳をもって城へ戻るのを拒否し、猿源氏と夫婦になって鰯売りをすると宣言し、その場で売り声の稽古を始める。姫はその場にいる者たちにも、「見習やいなう」と命じ、皆も一斉に、「伊勢の国に阿漕ヶ浦の猿源氏が鰯かうえい」と声をあげる。

幕切れは韻を踏んだ短い台詞の応酬によって、二人の門出を祝し華やかに閉じる。

軍記物語といって海の生物が次々と登場するくだりでは、ナンセンスな話の展開と、駄洒落の連続に観客席は多いに盛り上がっていた。このお芝居は一種の貴種流離譚ともいえるのだが、その手の物語によく見受けられる悲劇性はまったくない。全編を通して流れるおおらかなユーモアと、紆余曲折を経て二人が夫婦の契りを結ぶという大団円は、その予定調和によって見ている者を実に晴れ晴れとした気分にさせてくれるのだ。」

「初演時、この作品は好評をもって迎えられたが、三島はその実その舞台にかなり不満を持っていたことが、種々の対談や評論で明らかになっている。

後年、歌右衛門がこんなことをいっている。

「三島さんが会うたんびにブーブー言ってみえたのは中村屋さんの鰯売りなんです。全然自分の思っている鰯売りじゃないと言って。『そんなら先生、どういう風にしたらいいと、あなた言ったらいいじゃの』って言ったことがあるんです。『だけどもうそこに入っちゃった』と言ってらした。あれだけですよ、中村屋のことを気に入らなかったのは。この鰯売りはダメでした。それはもう、会うたんびに言ってましたよ。初演の時からずっと」これだけでは少しわかりにくいだろう。三島を嘆かせたものとはいったいなんだったのか。別の発言を引用してみたい。

「歌舞伎界は現在どちらかと言うと、大ざっぱな言い方だが、リアリズムに憧れている状態である。新劇界は逆に、様式の摂取を志してきた段階にある。私の歌舞伎新作は、やはり新劇界のこういう志向を背景にして様式美に対する憧憬から生まれたもので、そのために歌舞伎俳優からはあまり喜ばれていないのではないかと思っている」

「僕がつくづく思うのは、ぼくらはすっかり近代人的生活をしてるから、僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。最大限度の努力を払ってもそれがどうしても出てくる。それで、そいつを隠してくれるのが役者だと思っていたんですよ。ところが向こうは逆に考えているんですね。いやになっちゃう。(笑)ここは隠してほしいというところが逆に彼らにとっての手掛かりになるんだな。」(雑誌「演劇界」での座談会:「三島由紀夫の実験歌舞伎」・昭和32年5月号)

「要は諸君がルネサッス人になることである。諸君自身が歌舞伎のオルソドックになって、諸君自身に対立することだ。この対決に血路を見出して、その上で本当の新さを発見することだ」昭和二十五年芸術新潮1・2月号「歌舞伎評」
 例えば、蛍火が猿源氏の寝言をとらえて問い詰める次の場面。ここは全劇中でもっとも可笑しい場面でもある。

蛍「コレ、チャッとお目をさまされませ。おまへの寝言が京洛中にひびきわたってを  りますぞえ。」
猿「(愕然と起き上がり)エ、身共が寝言を申したとナ。」
蛍「それについて問ひたいことがござりまする。」
猿「(ビクビクして)問ひたいことはエ?」
蛍「こなさんまことは鰯売でござんせうわいなア。」
猿「エ、鰯売。コレサこの東路にも名も高き、宇都宮の弾正に向かって何を申す。」   (中略)
蛍「ハテそんなら猿源氏とは?」
猿「ムウ、その猿源氏とは、ソレソレ猿沢の池の柳や我妹子が寝乱れ髪の形見なるらんといふ歌の心、他愛もない寝言にかこつけ、テモむつかしい詮議よなア。」
蛍「さればおしまひに問いますぞえ。(トこらへかねて笑い出しつつ)あの鰯かうえ  いと仰言る寝言は、どんなゆかりでござんすわいなア。」
猿「ムウ。(と言句詰りて、冷汗を拭ひ)サアその鰯かうえいという寝言は。」
蛍「サア鰯かうえいとはエ?」
猿「サア」
猿「サア」
猿「サア」
猿「サアどうでごわんすわいなア」

三島氏の不興は、例えばこの場面であれば、ここでのテンポと心理描写にあったと思われる。つまり、現代喜劇風の颯爽として表情豊か、リアリズムあふれる演技など歌舞伎には求めていなかったのではないかということだ。滑稽さが瞬時に客席に伝わって、観客からも反射的に笑いが返ってくるようなせせこましい芝居など三島は認めたくなかったのではないだろうか。歌舞伎とはもっとおおらかで骨太の、現代のわれわれからすれば、一歩も二歩もゆったりとした、それだからこそのんびりとした味わいがあるという芝居を求めていたのではないかと。」

「「三島の芝居日記の後書きにおいて、織田紘二はこう記している。
「作者自らにもそして役者にも、いやすべての歌舞伎に携わる者に、氏は「職人芸的完成された技術」を求め、その総合体としての「神聖な演劇」を希求してやまなかった。その求め続けた一事に関しては、いかなることがあっても最後の最後まで姿勢を変えることがなかったのである。」

歌右衛門も同書においてこう語っている。

「歌舞伎に対して一貫して持ち続けたものがおありになったと思います。このジャンルだけは最後まで大事にしてくださっていた、と私も感じておりました。若い、というか、幼い、というか、小さな頃に感じた歌舞伎に対する何か(原文下線部傍点付)を、そのままお持ちになっていらした、そんなことを感じたこともございました。」
「その故郷を失っちゃってるわけさ。(笑)」

先に引用した対談で、もはや失われちゃってると三島が半ば自嘲気味に嘆いているこの故郷こそ、三島が死を賭して守ろうとしたものだったと、今なら理解できる。文化防衛論の源泉が、すでに二十代の三島の中に見出されるのである。」」

このような三島文学の研究者の言葉を読んで、非常によくわかることは、安部公房が何故三島由紀夫を深く理解し、後者もまた前者を深く理解して、肝胆相照らす仲となったのかということである。

安部公房全集全30巻の贋月報のとこかに、三島由紀夫が安部公房の『終りし道の標べに』を批評して、今正確な引用ではないが、この小説はロマネスクが邪魔をしているが、しかし、それ以上にその哲学思弁的な論理の骨格が優れていて、素晴らしい小説になっているという賞賛の言葉があった。

これに対して、全集第2巻の贋月報(第2号)の中田耕治さんの、安部公房と三島由紀夫の最初に出会った光景を見ての思い出として、安部公房が三島由紀夫の『夜の仕度』を徹底的に批判をして、この作品には可能性が無いということを言い、三島由紀夫は安部公房を凄い奴だと思ったようだという回顧談があります。

何故三島由紀夫の『夜の仕度』を批判したか、可能性のない作品と言ったかは、また稿を改めて論じます。そして、二人は実に親しくなったのです。

今、これらのことを併せて考えますと、安部公房と三島由紀夫は、次のような接点を正反対に共有しております。

1。三島由紀夫は、日本の演劇の古典(過去)、歌舞伎の中にロマネスクを求めたということ。
2。安部公房は、仮説設定の文学の中に、敢えて言えばSF文学(未来)に、ロマネスクを求めたということ。

この二つです。

更に共通しているのは、やはり、笑いということ、ユーモア(humor)ということでせう。

この新作歌舞伎の笑いで言えば、三島由紀夫の笑いは、率直に単純に肯定的に、他方反対に、安部公房の笑は複雑に、黒い笑いとして。前者の笑いが陽画であれば、後者の笑いは陰画であること。

以上を、まづ以って、ふたりのための備忘として記録に留め、後日の論考の下敷きと致します。

二人を、それぞれ、過去と未来に関係して整理したことは、勿論少々軽薄であることは、重々承知で、そうしたのです。そうしたいほどに、二人はよく似通っております。

ほとんど年齢の違わない二人が、大東亜戦争敗戦後に、日本語圏の文学に登場したことは、何か深い意義と意味のあることだと、わたしは思っております。

安部公房が、三島由紀夫没後6年を経て、ようやく言葉になったのでしょう、『反政治的な、あまりに反政治的な…』という題のエッセイを書いております(全集第25巻、374ページ)。

このエッセイで、実に本質的な三島由紀夫観を、安部公房はさりげなく、率直に語っております。曰く、

「ぼくらに共通していたのは、たぶん、文化の自己完結性に対する強い確信だったように思う。文化が文化以外の言葉で語られるのを聞くとき、彼はいつも感情的な拒絶反応を示した。しかもそうした拒絶反応が、しばしば三島擁護の口実に利用されたり、批判や攻撃の理由に使われたりしたのだから、ついには文化以外の場所でも武装せざるを得なくなったのも無理はない。それが有効な武器だったかどうかは、今は問うまい。安易な非政治的文化論の臭気に耐えるほど、鼻づまりの楽観主義者になるには、いささか純粋すぎたのだ。文化的政治論も、政治的文化論も、いずれ似たようなものである。
 反政治的な、あまりに反政治的な死であった。その死の上に、時はとどまり、当分過去にはなってくれそうにない。」1976年1月25日。

この引用だけでも、三島由紀夫を、安部公房がどのように考えていたのかが、とてもよく解ります。

三島由紀夫の、現代歌舞伎の役者に対する不満の言葉を読むとわかる通りに、三島由紀夫もまた、故郷を求めたということ、それを失った日本人に不愉快を感じていることがわかります。他方、安部公房については、言うまでもなく、誠に通俗的に、猫も杓子も、とってつけたように、故郷喪失の文学と言って空騒ぎをしてきたことは、読者周知の通りです。

そして、三島由紀夫の次の言葉。これは、全く安部公房のことを言っているようではありませんか。

「要は諸君がルネサッス人になることである。諸君自身が歌舞伎のオルソドックになって、諸君自身に対立することだ。この対決に血路を見出して、その上で本当の新さを発見することだ。」

これを、安部公房の読者のためにparaphrazeすると、

「要は諸君がジャンル横断的な人間になることである。諸君自身が仮説設定の文学の異端になって、正統であると思っている諸君自身に対立することだ。この対決に血路を見出して、その上で本当の新しさを発見することだ。」