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2014年11月17日月曜日

夏目漱石と安部公房の共通項



夏目漱石と安部公房の共通項

今手元にある夏目漱石の『こころ』を読んで、これは全く安部公房の世界だと思ったので、思うところをお伝えします。

この小説は全部で上中下の3章からなっています。

1。先生と私
2。両親と私
3。先生と遺書

第1章の先生と呼ばれる人物(男)は、遂に、その最初からその本名を、話者によって呼ばれることがない。即ち、無名の人間です。

その冒頭から、次のようにこの話は始まります。

「わたしはその人を常に先生と呼んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚るというよりも、その方が私に取って自然だからである。」

これは、この小説の先生と呼ばれる人物を、S・カルマと呼び換えてもよいことを示しています。この小説の登場人物のひとりは、Kとさへ、記号で呼ばれているほどです。

明治という、この激動の、近代の国家を日本人が建設する最初の偉大な、偉大なという意味は外国語に通暁し且つ日本の古典にも通暁していたという意味のこの言語藝術家のこの作品の主人公が、無名であるということは、特筆に値します。勿論、同じもう一人の偉大な言語藝術家は、森鴎外です。

さて、この明治のS・カルマ氏の小説は、第2章の初めに、やはり父親について語るのです。これも、安部公房の読者であれば、安部公房が常に父親を贋の父親として描いたことを知っているでしょう。

そして、この父親は、やはり死に親しい父親であるのです。安部公房の読者であれば、『飛ぶ男』の主人公が透明人間であることをご存じでしょう。これは、その人間が存在になる、即ち無名に徹して、存在になる、更に即ち、生身の人間としては、死を意味することを、普通には意味しております。他方、息子は、飛翔する能力を獲得する。

飛翔は、10代の安部公房がリルケに学んだ、愛の形象なのです。

この愛と死を、それぞれの親子が、贋の関係の親子として、父親と息子として共有するというのが、『飛ぶ男』という世界であることが、漱石の『こころ』を見ると、よくわかります。

さて、第3章では、先生という無名の人間の遺書が、話者によって語られます。これは、このまま、安部公房の手記という体裁を持つすべての小説の形式と同じです。

安部公房の主人公の手記が、いつも最後には、その閉鎖空間からの脱出、即ち、死と引き換えに、その帰属していた社会からの脱出と、他方その尊い無名の死によって蘇生する当の社会の未来をこころ密かに信じているという、この安部公房の主人公たちのこころに通じていると思います。

夏目漱石は、この小説の題名を、心とは漢字では書かず、こころと大和言葉で表しました。

安部公房も、1970年代の安部公房スタジオの演技指導では、漢語を排して、何故なら漢語は身体を緊張させるから、大和言葉を使うことを指導して、その演技論、即ちニュートラルという、安部公房が10代のリルケ理解以来、またニーチェ理解以来思ってきた、未分化の実存という概念を日本人の役者の身体とこころに発言させようとしたことは、安部公房全集所収の演技論に詳しく語られております。

今わたしが読んでいるのは、新潮社文庫であり、その巻末に江藤淳が解説を書いております。そこで江藤淳の言っていることは、まことにそのまま安部公房に通じていると思います。次のような言葉です。

「漱石文学の核に潜んでいるのは、おそらくこの寄席趣味に象徴される江戸的な感受性である。それは感性的なあらわれかたをすれば長唄に「恍惚(うっとり)」するような感覚になるが、倫理的に表現されれば儒教的な正邪曲直の観念となる。そしてこの美意識と倫理観は、実はわかちがたくまざりあっていて、彼の文学を特徴づけているのである。」

この言葉の前に、江藤淳は、漱石の『硝子戸の中』の話をふたつ引用して、この偉大な作家が江戸文学の継承者であることを述べています。それは、ほかの近代の小説家とは全く異なり、何か過去と歴史を断絶することを疑わずに小説を書いた作家たちとは全く異なるということを述べております。その通りだと思います。私小説は、歴史を顧みずに、我がことだけを書く、日本人に特有の、歪んだ写実主義(realism)であるからです。

さて、他方、安部公房を高く最初に評価した作家たちのひとりに、石川淳がいることは、その『壁』への序文の賞賛の言葉のことを言えば、それで十分でしょう。石川淳は江戸文学に造詣の深い作家であり、安部公房の対談でも、江戸趣味が私小説の否定であることを述べております。

それから、山口果林の『安部公房とわたし』の中に、あるとき安部公房が立ち寄って、谷崎潤一郎の『吉野葛』を読んで、自分の文体によく似ていると言った逸話を思い出すだけでよいでしょう。この逸話の深い意味、即ち安部公房と谷崎純一郎の共通項については、『谷崎潤一郎と安部公房』で論じましたので、もぐら通信(第19号)をご覧ください。

谷崎を見出したのは、永井荷風という、これもやはり歴史の連続を大切にして、日本の近代に抗した、江戸文学とフランス文学に通暁していた作家でありました。

上の『谷崎潤一郎と安部公房』での結論をひとことでいうと、安部公房の文学は、反私小説、反写実主義という点で、全く江戸文学につながっているということなのです。

それは、わかりやすく今様の言葉で言えば、幻想の文学であり、安部公房の言葉を引けば、私小説や写実主義の文学のような足し算の文学ではなく、それではいつまでたっても現実の全体を表現することはできないのであり、あるべき文学は、積分による積算の、掛け算の文学でなければならないということなのです。

松尾芭蕉の確立した、元禄時代の俳諧を読めば、それが誠に積算による実に抽象度の高い文藝であることが知られます。今の俳句の程度の低さとは比較になりません。即ち、そのよって来る理由は、たった一つ、当時の俳諧師たちが、支那や日本の古典を深く理解をして共有していたということなのです。この古典的な教養の共有のない今の時代の俳人には、元禄時代の程度の言語表現の高さは、望むべくもありません。私小説の作家と同様に、どのことばも、自分のことばかりで歌われているからです。

安部公房は、松尾芭蕉の俳句が好きでした。それは、安部公房全集を読んでまとめてみるとよく解る通りに、この江戸時代の元禄時代、17世紀後半を生きたこの詩人に、10代で理解をし、そのあとも生涯自分の文学の中心の座を占めていた未分化の実存を見ていたからです。これについては、『安部公房の俳句論』と題してまとめましたので、もぐら通信(第21号)をご覧ください。

また、松尾芭蕉が17世紀の人であるということから、同時代のヨーロッパを眺めれば、それはバロックの時代であって、世界文学史的に見れば、芭蕉もまたバロックの詩人だということになります。

詳細を論ずるのは後日と致しますが、安部公房の認識のあり方も、作品の構造も、典型的なバロック様式を備えております。

安部公房は終生詩人でありましたから、17世紀の芭蕉に同じ精神を見ても、少しも不思議ではありません。

さて、このように、日本の伝統的な文藝の歴史に否定的につながっているということは、実に安部公房らしいことです。

大東亜戦争に敗北した日本の戦後に、やはり、明治時代と同様に、ふたつの思潮があったことは、当然のことだと思います。ひとつは、歴史を等閑にふして、その意義と意味を忘れて、わたしの言葉でいえば、惚け、呆けた考えであり、他方もうひとつは、歴史は人間の連続としてある生のあり方として本質的であり大切であるという考えかたです。夏目漱石は、後者の文人でした。

この明治と昭和のふたつの激しい変転の時代、安部公房の先生であった花田清輝の言葉で言えば転形期の時代に、ひとりは夏目漱石、もうひとりは安部公房という、それぞれの大才を、わが日本文学が得たことは、何か歴史的な必然であったように思います。

前者は、肯定的に江戸文学を継承し、それを否定される圧力を現実の近代日本から受けたということ、これに対して、後者はニーチェとリルケに学び、哲学と数学と言語論によって物事の本質を極めて、その10代の『〈僕は今こうやって〉』で開眼した外部と内部の交換以来、反対側から、即ち否定的に陰画として現実を見ることを学んだ作家が、その戦後の軽薄な思潮の中で誤解をされて、故郷喪失の文学などという空騒ぎの当事者のひとりになったこと、これは誠に脈絡の通じたことだと思います。勿論、後者の経験した戦後の、通俗文学の世界での故郷喪失を「デラシネ」と言ってその通りに売り物にした者は、五木寛之です。それほど、戦後の日本人は軽薄であったのです。これは、五木寛之を否定しているのではありません。

さて、しかし、安部公房はその故郷の意味を、存在と考えて、一生この存在に回帰することを徹底しました。

もぐら通信の2号先でご紹介しますが、長田弘というすぐれた戦後の詩人の安部公房論は、最初の一行で、安部公房の文学の本質を射抜き、また安部公房の文学を故郷喪失の否定を歌った文学だと喝破しております。これはその通りです。詩人は詩人を知るということなのでしょう。

安部公房は、東京の北区で生を受けました。このことについては、母親の安部よりみの小説『スフィンクスは笑う』の後書きに詳しく当時の様子が描かれています。

これをもし、もっと言えば、安部公房も東京の北区という下町に生まれたこと、そして、この同じ下町に、安部公房を理解した最良の文学者であるドナルド・キーンさんが日本に帰化して、お住まいになっていること、これが、以上述べ来った安部公房の人生に、決して満洲だけではなく、やはり安部公房は日本の国で生まれた日本国籍の、自分もあるインタビューで言っている通りに、日本語の作家であることの意味を、連綿として歴史のつながりある、安部公房の生として、わたしたちに提示している事実として理解されるのではないでしょうか。


さて、安部公房の生徒のひとりであった、山口果林の著書の題名が、『安部公房と私』ではなく、『安部公房とわたし』と、わたしがひらがなであることは、安部公房の演技指導の徹底と女優のその深い理解を思わせ、また漱石が『心』と書かずに『こころ』と題したそのこころを、安部公房もまた受け継いでいるのだと、わたしは思っております。

安部公房全集第21巻の贋月報第21号に、大江健三郎が、次のように語っています。これは、やはり大江健三郎らしく、その文学の世界の慧眼で、この二人の作家の、日本文学史の上での価値を、言い当てていると思います。

「それからやはり、書いているものが全部おもしろい作家っていうのは、僕はいないと思うんですよ。安部さんの場合は、ごく短いものが独特でおもしろいし、それから小さな対話のようなもの、それからさきほども言いましたけれど、奥さんと自動車で、ひとつは四国の方に行く、ひとつは北海道に行くというものも、ほんとにおもしろいです。非常によく考えて、考えつめたことを書く、そして最初から文体がある。そして、一生、それを書き直すこともしたという作家として、もしからしたら日本で全集を全部読んでおもしろい二人の作家の一人だと思うんです。そしてもう一人の作家は誰かというと、夏目漱石だと思うんですね。」

かうしてみますと、夏目漱石というこの漱石という雅号は、支那の古典にある通りに、世間とは反対の、世間とは逆説的な関係とその関係を考える思考論理を持った偉大な作家として石に漱(くちすす)ぎ流れに枕すると号したこの精神を、そのまま戦後という時代に、安部公房も受け継いでいるのだと思わずにはいられません。勿論、時代を超えて。

歴史というものは、深いところで、わたしたちに働きかけているものだからです。








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