安部公房が日本共産党に入党した年月日についての新しい知見
今月号のもぐら通信(第27号)に、草月流の家元二代目である勅使河原宏の、安部公房についてのエッセイを転載致しました。
このことで、お世話になりました草月会に、この号をお届けしたあとに、安部公房の日本共産党入党の正確な年月日が、その資料の中でわかるのであればお教えいただきたいとお願いを致しましたところ、次の回答がありました。
これは、安部公房の研究者、読者にとっても、あらためて認識を新たにすべきことだとおもましたので、ここに、その戴いた回答を引用して、お伝え致します。
「入党に関わる資料は、残念ながら弊会には残されておりません。
しかし、以下のような資料がございましたので、ご参考までに記載しておきます。
瀬木慎一著『日本の前衛1945-1999』(2000.1.15生活の友社発行)には、安部らとともに1951年3月に入党申し込みをしたにもかかわらず、宏だけ受理されなかったということが記載されております。
また、宏自身も、大河内昭爾、四方田犬彦とともに著した『前衛調書』(1989.8.25学藝書林発行)という鼎談集のなかで、家元の息子なので入党は勧められなかったと語っております。」
この回答でよくわかることは、安部公房の入党の申請が、1951年3月であったということです。
初期の安部公房論者、高野斗志美は、次のように書いております(『安部公房を語る』、67ページ。あさひかわ社刊)。
「それによれば、詩人の関根弘と手を組んで安部公房は「世紀の会」という前衛芸術の運動体を起こしています。さらに、岡本太郎や花田清輝らを中心とする「アヴァンギャルド芸術研究会」に合流していきます。この間に、「夜の会」が岡本と花田によって結成され、安部公房も参加しています。そして、やがてかれは「人民芸術集団」を組織したあと、急速にコミュニズムに接近し、野間宏の推薦で、故勅使河原宏といっしょに日本共産党に入党しています。」
この高野斗志美の文章が何を根拠にしたのかわかりませんが、草月会からの今回の回答によれば、
1。勅使河原宏は、日本共産党には入党していない。
2。安部公房は、1951年3月に日本共産党に入党の申請をしたということ。
この二つです。
従い、安部公房が日本共産党に入党の許可を得たのは、3月中なのか、その後の数ヶ月の間と考えるのが順当でありませう。
既に、もぐら通信は、日本共産党に安部公房の入党の日付を照会しておりますが、その回答は、やはり資料、記録が残っておらず、分からないというものでした(もぐら通信第17号)。
世上流布している、安部公房1951年説は正しいものと思われますが、同年3月の入党は確実ではありません。
あとは、野間宏の推薦が、高野斗志美の言う通りに正しいとして、野間宏の資料の中に、何かその3月何日の特定できる資料があるかどうかということになります。
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