「終わし道の標べに」を読む4:カンガルー・ノートの形象(イメージ)
この小説の第1のノートを読んでいて、思いもかけず、最晩年の小説、カンガルー・ノートの形象(イメージ)に遭遇したので、備忘のために書き留めておこう。それは、次のような文章である。
手術台に載せられ、長い廊下を右へ左へと引き廻されたあと、ふと一切の時間がとだえたように車が止り、突如固定した静寂の中に投げ出される。
(安部公房全集第1巻298ページに初出。既に初版でこの一行がある。冬樹社版にもそのまま残っている。)
(安部公房全集第1巻298ページに初出。既に初版でこの一行がある。冬樹社版にもそのまま残っている。)
それから、この第1のノートを終わりまで読んで思うことは、もしこの小説を一言で言い、この小説に別の名前を与えるとすると、それは、阿片吸引者の手記であろうというものである。
このようにこの小説を読み替えてみると、日本文学史に、このような阿片吸引者を書いた小説があっただろうか。
今インターネットで検索すると、陳瞬臣の阿片戦争という歴史小説が検索されるが、阿片吸引者の小説の名前は見当たらない。
阿片というものが、逃亡者の意識の苦痛を和らげる作用をすることで、手記の正気を保つことに資するようにという、主人公が阿片を吸引する意味もあれば、同時に(同時にとは何か、である)、阿片によって狂気と夢を招来するように働くという意味もあるのだろう。
第2のノートは、この意識のたゆたい、意識と無意識の境界線上の意識を削るように書いて行くことになるのだろうと推測される。
(この稿続く)
[岩田英哉]
[岩田英哉]
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