「終わし道の標べに」を読む6:第3のノート
第3のノートには、知られざる神という副題がついている。
第3のノートの主題は、自己を占有することについてである。
どのようなことになったならば、存在からの逃亡者、どこにも血縁の家族にも無関係な孤児は、自己を占有できるというのであろうか。それは、このノートの最後に、次のように書いてあるところを見ると、解る。
とつぜん幸福な笑いがこみ上げて来る。ゆっくり小出しに、時間をかけて、できることなら、永久にでも笑いつづけていたかった。だが、いったい何を?むろん、この瞬間を、この私をだ。逃走に逃走をかさね、どこにもたどり着けなかった、この私をだ。べつに滑稽だから笑うのではない。逃走を手段だと考えれば、なるほど<<かく在る>>私は、否定さるべき敗者かも知れぬ。手段の途中で、宙吊りになった、哀れな矛盾の道化師かもしれぬ。しかし私は、せめて自分のこの強情さを祝福してやりたいと思うのだ。……いまこの私は、確実に、私以外の誰のものでもあり得ない。
この「私以外の誰のものでもあり得ない」私を、「知られざる神」と呼んだのだと思われる。
このとき、語り手は、阿片のせいかどうか不明であるが、粘土塀の内側の村の中と、その塀の外側に、同時に(同時にとは何か?である)いることができているのだ。それを、語り手は、自己を占有した状態と呼んでいる。
第3のノートの比較的前の方で、語り手は、神との関係で、自分自身のあり方について、次のように言っている。
くりかえして言うが、私には私だけで沢山なのだ。神にとって、神が自分自身であるように。
これが、知られざる神という副題の意味である。そのような自己のあり方が、第3のノートの最後で、上に述べたように、達成されている。
(この稿続く)
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