ボブ・ディランへのノーベル文学賞授与は何を意味してゐるのか?
Wikipediaによれば、ノーベル賞とは、次のやうな賞である。
ノーベル賞は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞である。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる。
この賞を授ける主体はノーベル財団であって、その設立由来は、やはりWikipediaによれば、次のやうである。
ノーベル財団(典: Nobelstiftelsen)は、ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルによって創設された、彼の遺産管理とノーベル賞を主催する財団である。ノーベルの遺言に基づくノーベル賞はノーベル物理学賞、ノーベル化学賞、ノーベル生理学・医学賞 、ノーベル文学賞、そしてノーベル平和賞の各分野において多大な功績を達成した人物に対して授与される学術的顕彰である。のちに、経済の分野でノーベル経済学賞が追加された。
ノーベル賞の公式ウエッブサイトは次のところにあり、今回のボブ・ディランのノーベル文学賞受賞の理由が英語で発表されてゐる。
この女性の説明によれば、そして同サイトのPress Releaseによれば、受賞の理由は、次の通りです。
“The Nobel Prize in L 2016 is awarded to Bob Dylan for having created new poetic expressions within the great American song tradition.”
歌詞の詞を書き、この詞は詩と呼ぶに値する詩であるといふ理解でありませう。
ボブ・ディランの公式サイトによれば、『風に吹かれて』は1962年の曲であり、その歌詞も次のURLに掲示されてゐます。
『風に吹かれて』といふ日本語の訳の題名に引かれて、Blown in the Windで検索をGoogleでしたが、出てきた英語の題名は、Blowin’ In the Windであつた。風の中を誰かが何かがblowしてゐるといふ歌である。Blowは自動詞。
やはり此の自動詞の選択には、ボブ・ディランの強い意志が発揮されてゐると考へる。しかし、風に吹かれてと受け身形で誤訳されて当時流行した時には、日本人らしくといふか、誤解のままに叙情的に理解されて、歌はれたのだらう。
余談であるが、類似の誤訳に、映画の題名で『風と共に去りぬ』といふのがある。
英語の原題は、”Gone with the Wind”であるから、このwithといふ前置詞は、アングロ・サクソンの言葉ではどれもさうであるやうに、主題を表し、主題を提示する。つまり、何々を巡ってとか、何々についていへばといふことであるので、正しい訳は、風が去つたといふこと、従ひもし古文調で訳せば”風去りぬ”といふことになる。要するに、風が去つたのである。
日本人は、この手の誤訳が本当に好きである。
さて、風の中をblowしている主題たちの名前は、どのやうな名前であつたらうか。改めて見れば、次のやうな名前である。
1。男
2。海(複数)
3。鷗(かもめ)
4。大砲の玉
5。山(単数)
6。人々
7。耳
8。死(複数)
これら8つの主題が、それぞれの解決を見つけるまでの時間の長さがあるだらう、その間は、その回答は”blowing in the wind”、即ち、風の中に吹いてゐるといふのである。
話は変わるが、毎年秋になると村上春樹の名前が巷間に噂されて、ノーベル文学賞の候補だといはれる。
村上春樹の処女作は『風の歌を聴け』。
これはボブ・ディランを意識したものであつたらうか。その可能性も十分にあるやうに思はれる。この小説の英訳の題名は、”Hear the Wind Sing”。ボブ・ディランの風は歌つてゐないし、風の中では歌ふものはゐない。やはり、その分だけ、これは村上春樹の風になつてゐると思ふ。
とは云へ、ボブ・ディランの風には空間的な広さがあるが、他方、村上春樹の風は個人の聞こえる範囲に留まつてゐる。
かうして風といふ視点で二人を見れば、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したといふ事は、村上春樹の芽はもうなくなつたといふ事になるのではないだらうか。
もしさうではない結果があるとすれば、広がりではボブ・ディランには敵(かな)はないのであるから、個人の深さを垂直方向に、丁度安部公房がさうしたやうに、深く深く掘り下げて、『色彩のない多崎つくると、彼の巡礼の年』の次の作品を、処女作に戻つて書いてみる事ではないかと、私は思ふ。
風が地球を一廻りして、1901年のノーベル賞の発足から2016年の今日に至るまで、115年を閲して、この間、物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の6つの分野で受賞者がゐた訳であるが、しかしその大半はアングロ・サクソン族の白人種である。『国別のノーベル賞受賞者』といふWikipediaがある。
ノーベルの遺言には、次のやうにある。
「遺言執行者は基金を安全な有価証券に投資し、毎年その前年度に人類に最も貢献をした者に、その利子を賞金の形で与える。
右の利子は5等分し、物理学の分野で最も重要な発見または発明をした者、化学の分野で最も重要な発見または改善をした者、生理学または医学の分野で最も重要な発見をした者、文学で最も傑出せる理想主義的傾向の作品を書いた者、諸国間の融和・常備軍の廃止もしくは削減・または和平会議の開催および推進に最も貢献せる者に、それぞれ一部を与えること。
右の賞は、候補者の国籍を問わず、最も賞すべき者に授与するのが自分の希望である。」(下線部は筆者)(http://ab.yamagyou.net/newpage57.html)
文明論的に、また文明史論的に、今の時機のボブ・ディランの受賞を見れば、吹く風の中にあつて移動して止まなかった答へが、資本主義の鬼子であるアメリカの、そのアメリカ的なものを持って、ヨーロッパといふ資本主義を発明した大陸へと、風に乗って、乗る意志を以って、戻つたといふことになる。
(この意味でも、村上春樹は個人の地面を掘り下げるべきだ。発表を封印した作品も含めて処女作から数える4つの作品の有する叙情性を大切にすべきだと思ふ。ボブ・ディランの歌に歌はれてゐる男、耳、人々、死は、村上春樹にあつてはいづれも、個人的な動機(モチーフ)である。)
これは、ヨーロッパの白人種、一神教のキリスト教の世界の人間たちが大航海時代と呼ぶ此の500年が経ち、他方、多神教の世界に住む諸民族にとつては大虐殺時代と呼ぶべき此の500年が経つて、その帆船が答へを求めて地球を一廻りして、遂に自分自身の文明に戻つて来て、其処に答へがあつたといふことである。さうではないだらうか。
今ヨーロッパに押し寄せてゐる移民と難民は、お釈迦様の言葉でいふならば因果応報であり、自分たちが此の500年に蒔(ま)いた種の結果であると、私は思ふ。
Press Releaseの受賞理由に”for having created new poetic expressions within the great American song tradition”とある”within the great American song tradition”に、その”great”といふ形容詞を”American song tradition”に冠したことに、わたしは其のことを感ずる。それ以外には受賞の理由がないといふ簡明な理由説明であるやうに一見みえるが、しかし、さうして更に、この句の中の”within”に、賞を授ける側のヨーロッパ人の弁解と、弁解の韜晦を、わたしは感ずる。
ヨーロッパは、その一国であるスエーデンの委員会は、「文学で最も傑出せる理想主義的傾向の作品を書いた者」としてボブ・ディランを選んだのだらうか?
しかし、その国一国の内部で業績のあることが受賞理由であるならば、そしてたとへ一国の内部で偉大であるにしても、それはノーベルの遺言に反するではないか。誰がどう考へても、ボブ・ディランは世界的なmusicianである。ボブ・ディランは歌手であつて、音楽の分野の人間であり、歌詞といふ詩は其の活動の一部であるとしても、文学の世界の人間ではない。文学とは、詩、小説、戯曲を中心に考へらるべきものだ。
科学的な業績は論理的で実証的で、歴史的にも明らかであらうが、しかし文学的な業績はどうであるか。このやうに問ふと、ノーベル文学賞の選考に当たつた人間たちの軸がぶれてゐるやうに見える。
つまり、座標がないのだ。”Gone with the Coordinate”である。
だとすれば、さうして此の考へが本当だとすればであるが(私はさう確信してゐるが)、座標のない時代を、私は大いに歓迎する。
安部公房の時代、「ご破算」の時代だからである。
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