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2013年2月2日土曜日

マルテの手記11:手




マルテの手記11:手


安部公房のモチーフのひとつに、手があります。

マルテは、子供のころ、小さな体に大きな机で絵を描いていて、色鉛筆を机の下に落としてしまいます。

そうして、暗い、闇の領する机の下で、毛の深い絨毯の中に、鉛筆を手探りで探し求める経験を素描するときに、手について、自分のものではない手についてのある経験を、次のように書くのです。望月訳です。


「毛皮の感触はひどく快かったが、鉛筆は指にふれなかった。僕は時間をひどく空費しているような気がされ、小母様を呼んでランプの光を見せてもらおうと思ったが、そのときに、無意識に大きく見ひらいた目に暗さがすこしずつ透明になり始めたことに気がついた。白い細い桟でかぎられている向かいの壁も見えるようになった。机のあしの場所もわかって来た。それよりも、指をひろげている自分の手が見えるようになった。その手はなんとなく水棲動物のようにひっそりと下を泳ぎまわり、毛皮のなかをさがしまわっていた。
今でもおぼえているが、僕は自分のその手をほとんど息をひそめて見つめていた。僕の手がそれまでに見せたことがないような運動をつづけながら下を自由に動きまわっているのを見ていると、それは教えられたことのない運動さえもできそうに感じられた。僕は手が進んで行くのを目で追っていた。興味を呼びさまされ、あらゆる場合を予期していた。しかし、不意に向かいの壁から別の手が進んで来たことはどうして予期できただろう。僕の手よりも大きかったが、今までに見たことがないほどやせている手が、向こう側から同じようにさがして来て、二つの手は指をひろげながら傍目(わきめ)もふらずに向かい合って進みよった。僕の興味はしばらくつづいたが、突然それが消えて、恐ろしさだけが残った。僕は二つの手の一つが僕の手であって、それが取り返しのつかないことにかかり合っていることを感じた。僕は自分の自由になる手を必死に引きとめ、毛皮の上へ平らに押さえつけながら徐(おもむ)ろに引っこめた。僕は引っこめながらも向こうの手がさがしつづけて来るのから目をはなさなかった。僕はその手がさがすことをやめないだろうと知った。どう椅子へ這いあがったかおぼえがない。肘掛椅子に深くすわって、歯をがちがちと鳴らしていた。」



(この稿続く)


[岩田英哉]

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