マルテの手記17:放蕩息子の帰還と忘却(存在象徴)、そして愛
リルケは、マルテの手記の最後に、無償の愛、即ち与えるだけで、対価を求めない愛のあり方を、放蕩息子について書く事で、描いています。
これは、聖書の題材によるものでしょうが、しかし、リルケの放蕩息子は、それとは全く異なった、リルケ独自の放蕩息子になっています。
思えば、安部公房の主人公はみな、放蕩息子だということができます。それは、このような放蕩息子です。そうして、この姿は、10代の安部公房が存在象徴という言葉で概念化した、人間のあり方でもあります。
「 この何年間に彼の心中には大きな変化が起こった。神へ近づく苦しい仕事のために神をほとんど忘れてしまったのであった。(略)人の子らが重きをおく運命の必然は、彼からとくに消え去ってしまった。(略)彼は彼の魂の生活のあらゆる部分を成就させることに没頭した。(略)そして、彼はなによりも初めに幼年時代を考えた。静かに思い返すにつれて、幼年時代は空白のままになっていることを感じた。(略)そして、今度は実際に生活することが、故郷から去った蕩児が再びそこへ帰って来た理由であった。僕たちは彼がそこにとどまったかどうかは知らない。彼がそこへ戻って来たことを知っているのみである。
この物語を語った人々は、この箇所でその家がどのようであったかを思い出させようとしている。(略)家じゅうの仕事がいっせいにやめられる。老いはしたが、または、大きくはなったが、胸が迫るほどにそのままの顔が窓に現れる。すっかり年取った一つの顔に不意に愕然と識別の色が現れる。識別だろうか。本当にそれだけだろうか。― 宥恕である。ああ、神よ、愛である。
(略)つぎの瞬間に起こったことについては、息子の身ぶりのみが語られていることは不思議ではない。聞いたことも見たこともない突飛な身ぶりであった。彼はみんなの足もとへ身を投げかけて哀願したのである。愛してくれるなと哀願したのである。かれらは驚きまどいながら彼を抱き起こした。(略)かれらが息子の思いつめた明瞭なポーズを見ながらも、その意味を誤解したことは、彼をたとえようもなく安堵させたにちがいない。(略)かれらが彼を喜ばせるにちがいないと信じてひそかに語らい合って示す愛は、彼ではない者に向けられていることが日ごとにはっきりと感じられた。かれらが心を砕くのを見て、彼はほとんど微笑を禁じられなかった。そして、彼は自分がどんなにその愛のとどかない者になったかを知った。
彼が何者であるかをかれらは知らなかった。彼を愛することは非常に困難になっていた。そして、彼はある一人だけが彼を愛することができるのを感じていた。その一人はまだ彼を愛そうとはしなかった。」
この、放蕩息子の故郷への帰還の、この最後の場面に出て来る愛の姿に、安部公房は強烈な深い影響を受け、それを受容したのだと、わたしは思います。
これは、安部公房の、やはり、どの主人公にもある、愛の姿だと、思われるのです。如何でしょうか。
[追記]
Mian Xiaolinさんから次のコメントを戴きました。本当に、窓は、リルケからも教わったことなのだと、改めて思います。
[追記]
Mian Xiaolinさんから次のコメントを戴きました。本当に、窓は、リルケからも教わったことなのだと、改めて思います。
「この引用文中にある「胸が迫るほどにそのままの顔が窓に現れる」という表現にも、驚くほど安部公房との類似性を感じます。」
[岩田英哉]
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