安部公房の顔
安部公房全集第1巻に「第1の手紙ー第4の手紙」という作品があります。これは、1947年の作品。安部公房24歳。
第1の手紙は、詩と「詩以前の事」について、
第2の手紙は、歩道について[これは既に「問題の下降に依る肯定の批判」(1942年)という10代のエッセイでは、遊歩道としてっ出て来たものと同じイメージのものです。]
第3の手紙は、顔と手について[仮面と手袋を装着することについて]
第4の手紙は、やはり顔と手について[装着した後の顔と手について]
と、このように、第3と第4の手紙に、顔が出て来ます。
ここに書かれている顔について、理解したところを書きたいと思います。
何故顔と手が主題となるのかということですが、これが実に安部公房らしいのは、顔には人相見があり、手には手相見があって、その人間の人生を過去、現在、未来とみることのできる対象となっているから、その主題となっているのだと思います。
そうして、安部公房の顔も手も、ところが全くその期待(時間の中人間の人生を読むということ)を裏切って、時間というものを考慮に入れることなく、むしろそれを捨象して、時間のない存在として、描かれているのです。
手については、確かにそうでした。それでは、顔についてはどうでしょうか。
安部公房全集の第1巻に「没我の地平」と題された詩集の「光と影」という次の詩があります。その第1連をひきます。
お前の手より名を奪え
お前の胸より名を奪え
夜の標(しるべ)は無名の主我
大地も落ちる無名の星
目覚めに夢む四季の調べを
汝が顔(かんばせ)に読み取るな
この詩に歌われている通りに、散文の世界でも、安部公房は手から名前を奪い、手のあることを「詩以前の事」となし、顔についても同様に、これを「詩以前の事」となして、「四季の調べ」という時間の流れを捨象して、「汝が顔に読み取るな」としたのです。
そのような存在の顔のことを、安部公房は第3の手紙で「運命の顔」と呼んでいます。
この「運命の顔」について、主人公またはこの手紙の語り手に話をする「必ず後ろで絶えず囁き続ける誰か」が登場するときには、必ず語り手は窓辺にいるということが、重要です。
第3の手紙では、窓についてこうかかれています。
窓、それもめったに存在さえ気付かれない、或る精神の媒介、それを透かして呼吸した夜は自分の内部に在って而も自分の名前に属さない部分だ。万物の中で振動している量子の触感だ。その中では、人間である事の宿命的な忘却が、幻覚と云う名前で捨て去って了った、或る実体がよみがえった来る。
これが安部公房の窓です。当時の書簡を読むと、安部公房は友人達と、この窓について議論をしていたことがわかります。
さて、語り手がそのような窓辺にいるときに「運命の顔」について影の男が語ります。
この男の顔、その「運命の顔」を最初みた影の男は、次のようにその顔のことを言っています。
ひょっと其の男の顔を見上げると、これは又どうした事だろう。正に奇怪至極、想像を絶したものに変じていた。でっぱる所が窪み、窪む可き所が飛び出した、まるで裏返しにした様な顔なのだ。一寸能面を裏側から見た様な感じだった。たちまち測り知れぬ恐怖が毛を逆出たせ、鳥肌にして、暗黒の奈落へつき落とされる様な目まいを感じた。
この顔は、一旦顔に装着すると取る事ができなくなり、顔に密着して自分の顔と同じ顔になる顔です。鏡でみると、それ以前の顔となんら外見上は変わらない。
(話は飛ぶようですが、埴谷雄高ならば、このことを自同律と呼び、それは不快だといい切ったことでしょう。)
その顔のもたらした世界のことを第4の手紙では、次のように書いています。
それは即ち、内部と外部とが入れ替わった様な世界だった。(途中略)、云い代えれば呼吸の様な、心臓の鼓動の様な世界だった。そして動くもの、変化するもの、吾々がその中で生活を営む可き環境だとか運命だとか云うものは、その逆に内部から発し、未知なものとして、今迄は外部と呼んでいた、新しい内部に浸み出して行くのだと云う事を知ったのだ。つまり、私の顔は裏返しになっていた。
(途中略)唯、私は一つの行為に身を沈める丈だった。それは停止した時間の中で、各瞬間を想像して行く事だった。云い代えれば、観察し、名付け、愛する主体である存在そのものに身をひそめ潜入する、行為若しくは在り方を全うする努力と意志とでも言えはしまいか。
(途中略)
こうして私の、失われた生活、失われた運命、失われた郷愁、そして長い間忘れてい、これから後何時使われるか分からぬ鋳型の様な、潜入の刹那が始まった訳なのだ。
この文章は、そのまま後年の「他人の顔」という小説の、主人公の意志と意識の説明になっている。
〔岩田英哉〕
〔岩田英哉〕
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