わたしは一行の文があれば、それが日本語であれ、英語であれ、ドイツ語であれ、それを眺めて、多様な解釈をすることで時間を忘れ、何時間でも一行を眺めていられる人間です。
この写真も、われを忘れて魅入られたように見入ってしまいました。幾ら見ても飽きることがありません。この写真を見て、何故こんなに惹かれるかを考えてみると、上の段落に書いた、わたしの性癖を思い出しました。
一行の文が多義的であるというのは、詩文において典型的ですが、安部公房の一行もまた詩文の値を持っていて、多義的な解釈をゆるす言葉の集合となっています。
普通散文というものは、明解であり、達意を主眼としますから、その一行は前後の関係において一意的であり、その他の解釈をゆるさないように書かれます。
しかし、安部公房の一行はそうではありません。そうである限り、安部公房の散文は詩的散文だといううことができます。
そうして、結局、一行が多義的であるということ、即ち、その一行が多次元的な宇宙を前提にしているという事実は、この擬態に何かとても深い関係があるのではないだろうかというのが、わたしの思ったことなのです。
このように考えてくると、生物の擬態というものも、何か生物の持つ多次元的なありかたのひとつの姿なのではないかと思われて来ます。
それは何か?それを言葉に変換して、この問いに答えると次のようになるでしょう。
1.それはカメレオンである。
2.それはカメレオンではない。
3.それは葉っぱである。
4.それは木の枝である。
5.それは以上のいづれでもない何ものかである。
等々と、こう考えてくると、そうして上の1から5を一般化して考えてみると、この問題は結局変身の問題なのだということがわかります。
1.それは私である。
2.それは私ではない。
3.私はそれである。
4.私はそれではない。
と、このように考えてくると、古代インドのウパニシャド哲学の核心にあるサンスクリット語の言葉、Tat Tvam Asiを思い出します。
1.汝はそれなり。
2.それは汝なり。
古代から、人間という動物も変身をするのです。
何故人間は、そのものとそっくりであるということに感嘆し、感動し、強く惹かれるのでしょうか。
[岩田英哉]
[岩田英哉]
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