安部公房と話しをする夢を見た。
何故か、「既にして」、従い超越論的に、安部公房と歩きながら話をしてゐる。時間の前後のない世界、従い時間の無い世界である。
歩いていると、向こうに工事現場であるのか、何か枠組みの足場のようなものが、全然高くではなく低く組み立てられていて、青いビニールシートがその一部に小さな屋根のように被さっている。
あれ、安部公房がいなくなった。と思ったら、いつの間にか、その青いビニールシートの下に横になっている。横になっている安部公房、頭は私の側にあって、足は向こうである。寝そべっている。あれ、安部公房、ここにいたのかと思い、また話かけて、話の続きをする。
いや、君、そうなのかと、安部公房は言う。そうして、起き上がって、またいつの間にか、二人で歩き始め、割合と歩いたはずであるのに、実は、安部公房の寝そべっていた場所の直ぐ裏側に、依然として居て、また二人でいて話をしているのだった。
と、これもいつの間にか、従い超越論的に、二人の年配の男たちが、私たち二人の側、安部公房の後ろ側に立っていて、私たちの会話をいつの間にか聴いているのだ。私からは見えるが、安部公房からは背中の向こうに立っているという配置である。
黒い背広を二人とも着ていて、何かよく似た二人である。これも黒いシルクハットのやうな、しかし天辺の丸い、丈のある帽子を被っていたかもしれない。
この間(かん)、いつの間にか歩いている場面から、この二人の素性不明の男たちに私たちが気づくまでの間の話は、存在と言語の本質論であったように思いだされる。
今、今月号(第41号)のもぐら通信のために「存在とは何か~安部公房をよりよく理解するために~」と題して、トポロジーも含めて、安部公房という缶詰を開けるための缶切りの話を書いているからかも知れない。[註1]
[註1]
『「安部公房」に缶切りを!~安部ねり&加藤弘一 -トークライブ報告~ 2013年2月20日紀伊國屋書店新宿南店』(もぐら通信第6号。ホッタタカシ報告)より以下に引用して、この缶切りという隠喩(metaphor)の由来をお伝えします。:
「「本当にウマの合った二人だった」と安部公房と三島由紀夫の幸福な交遊関係に触れ、安部公房の友達は右翼が多かったな、とポロリ。さらに、「『終りし道の標べに』が出た時、推薦人は埴谷雄高、激賞の手紙を送ってきたのは石川淳、最初に批評を書いて褒めたのが三島由紀夫。『S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞をもらった時は、川端康成が推してくれました。認めてくれるのは作家ばかりなんですよね、評論家じゃなくて」
と言うと、加藤さんもうなずき、
「評論家は鈍いですね。三島論にくらべると安部論はぜんぜん少ないし……」
なぜ少ないのかと問われて、
「缶切りが見つからないんだと思いますよ。安部公房の文学をどうやって蓋開けていいのか、わからないんです」「みなさん、(缶切りを)見つけてください」
と、ねりさんの観客への呼びかけで1時間のトークライブは幕となった。」
安部公房について書こうとして、また実際に書いていると、安部公房が私の後ろに「いつの間にか」(従い、超越論的に)立っていて、書くために私が安部公房全集の一巻を開こうとすると、恰も、そうする前に、君、ほらそこだよ、ほら此処にあるよと、指差してそう言って教えてくれるような経験をずっと、もぐら通信発行当初の頃からしてきたが、この夢も、その延長にちがいない。
霊性のつながりということがある。霊的な世界というは、確かに存在するのだ。
いつも、机に向かって机上で安部公房全集第30巻で検索をしてから、私の書棚に歩いて行って、ガラスの扉を開き、安部公房全集の当該巻に手を伸ばそうとすると、其処に求めている安部公房の文章の間違いなくあることを既に知っていて、そのことの確信を「既にして」覚えてゐることとがいつもあったし、ある。そして、その通りのことが起こり、夥(おびただ)しい相互参照が短い時間の中に全三十巻の中でお互いのテキスト(文章)を巡って猛烈な速度で自然に生まれるのであり、発生するのだ。今でもそうである。
私が何かをしているというのではない。何を書いても、一人で何かを書くことはできないものだ。
もしこう言ってよければ、安部公房論を書くときには、安部公房の霊がいつも傍に立っているという感じが、実感として、する。私も存在になったのだろうか。
この間(かん)、最初は全集第1巻と第30巻だけで安部公房論を十分に書くことができていて、この2巻だけが私の机上にあれば安部公房を論ずるには十分であり、従い、必要な都度書棚へ行き、必要な一巻に手を伸ばして、その一巻を手にして机の上に戻って来て調べ、書くことをすればよかったものを、『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)を書いた時には、これも不思議なことにいつの間にか、気付かぬうちに、残りの28巻が、私の机上と袖机の上に、恰も全集の一巻一巻に脚が生えていて意志を以って歩いて移動して来たかの如くに、ずらりと並んでしまっていて、ああ、安部公房にとって共産主義というものは、その生涯の全ての時間を貫くものであり、本当に大切なものであったのであり、今でもあるのだなあと、しみじみと、そう思ったことである。
勿論、安部公房の共産主義は、20世紀に流行したマルクス主義とは縁もゆかりもない、主義ですら勿論ない、人々のために自己の死を最優先に考えた思想であり、いふまでもなく本質的な、思考論理である。[註2]
[註2]
23歳の安部公房が親しく哲学談義を交わした友、中埜肇に当てて書いたように、それは「新象徴主義哲学(存在象徴主ギ)とでも言はうか、やはりオントロギー(筆者註:存在論の事)の上に立つ一種の実践主ギだつた。存在象徴の創造的解釈、それが僕の意志する所だ。」とある通りです(全集第1巻、270ページ。中埜肇宛書簡第10信)
それが、安部公房のtopology(位相幾何学)であり、言語機能論であり、相対的な存在概念であり、一言で言えば存在であり、従い、汎神論的な存在論である。
どれも、再帰的人間、安部公房にとっては、同じものであり、その意味するところは、同じことであった。
19歳の時の小説『(霊媒の話より)題未定』という処女作への命名の示す通りに、安部公房はもう既にこの時、リルケを耽読しながら、一重丸括弧に限られて示されている其の差異に在る存在に棲む隠れたシャーマンだったのであり、存在から外に出ると其の未分化の実存が直面する現実はいつも混沌としていて題未定の迷路迷宮の世界、即ち、人さらいにあって旅する孤児の世界であるのだ。
シャーマン(安部公房)よ 題未定のままに 永遠なれ