人気の投稿

2016年8月29日月曜日

坂口安吾の発案になる『近代文學』の草野球試合の第一回

坂口安吾の発案になる『近代文學』の草野球試合の第一回

もぐら通信第25号に「安部公房との時代(1)」と題して、中田耕治さんにご寄稿をいただき、『近代文學』同人による草野球の様子を読者にお届けしました。

さて、この度の第5回安部公房のエッセイを読む会に事務局が用意しました安部公房の「文芸時評」と題したエッセイ(1948年の30日と31日。全集第2巻、51ページ)の中で言及された『近代文學』(昭和23年7月1日発行。1948年第23号)の16ページの「雜報板」という欄に『近代文學』による最初の野球試合の記録がありましたので、転載してお届けします。

「近代文學チームを結成しようとしたのは、實は坂口安吾」の発案であったとは、初耳でした。

「★近代文學同人は、健康增進と運動神經の習練のため、野球チームを組織しました。その第一囘の公式(?)對抗戰を、讀賣新聞文化部と行ひ、接戰のうゑ、十三A對十二で快勝(?)しました。ちなみに、この戰における主戰投手は佐々木基一君でした。近代文學チームを結成しようとしたのは、實は坂口安吾氏でありましたが、連絡不十分で、氏の名投手(?)ぶりは見られませんでした。遺憾の極みでした。
 なほ、同じ目的から、ダンスのレエッスンもはじめられました。敎師は埴谷雄高君、第一囘入門の生徒は佐々木基一、平田次三郞、野閒宏の三君。第二囘入門生は某君。第三囘入門生は椎名麟三、梅崎春生の兩氏。月二囘位の割合で、埴谷宅で練習しつつあります。パートナーが不足してゐます。多少心得ある方ならおいで下さるとことをさまたげません。また入門料、授業料は不要と聞いてをります。
★同人、加藤、中村、福永君らを中心とする季刊誌『方舟』第一輯が發刊されました。どうかご愛讀下さい。」

その何回か後に、以下にもぐら通信第25号より再掲する「中国文学」との野球試合があったのでしょう。

「2007/03/03(Sat) 527 [No.543]
 
 戦後すぐの昂揚した気分のなかで、いちばん盛んになったのは草野球だった。

 ある日、「近代文学」の人びとが、ほかのグループと親睦を深めるため、(みんなで八方手をつくして集めた酒、ビールの「飲み会」が目的で)野球をすることになった。しかし、メンバーが足りない。安部公房から連絡があって、きみも参加するように、といわれた。

 相手は「中国文学」の人たちが中心で、ほかに画家たちも加わった強豪チームという。

 当時、私は肺浸潤でスポーツどころではなかったが、それでも、安部公房の頼みでは断れない。大宮から上井草まで出かけて行った。

 球場は見るかげもなく荒れ果てていた。

 すぐに試合がはじまった。私は補欠だった。

 このときの「近代文学」のメンバーは、埴谷雄高、平田次三郎、佐々木基一、安部公房、関根弘にまじって、寺田透、栗林種一など。三十代ばかり。

 相手の「中国文学」の人たちは知らない人が多かったが、武田泰淳、千田九一など。ピッチャーがなんと岡本太郎だった。

 日頃、バットをもったこともない選手ばかりなので、試合は大荒れ。好プレイ珍プレイの続出に爆笑、哄笑。最後まで笑いが絶えなかった。しかし、岡本太郎のピッチングで「近代文学」側はきりきり舞いをさせられた。

 安部公房がホームランを打った。拍手喝采。それでも、「近代文学」は負けた。

 私はピンチヒッターで出してもらったが、最初のバッターボックスは三振。そのまま二塁をまもったが、つぎに打順がまわってきたときヒットを打って塁に出た。しかし、せっかく塁に出たのに、岡本太郎の牽制に刺されて、あえなくアウト。

 試合のあとは、ビール(当時アルコール飲料は貴重品だった)で乾杯。私は、いちばん年少だったし、大宮に住んでいたので早く帰った。疲れが出た。

 その晩、私は発熱して寝込んでしまった。母が私を叱りつけた。

 1947年。みんな若かった。私は20歳。

 私にとっては、「よごれた古着を洗濯するみたいな昔の文壇の楽屋ばなし」ではない。若き日の貴重な思い出なのだ。」


2016年8月27日土曜日

もぐら通信第48号(第五版)の発行

もぐら通信第48号(第五版)の発行


次のURLです:

https://ja.scribd.com/document/325864497/第48号-第五版


修正箇所:14ページ
安部公房と成城高等学校
(連載第5回)

安部淺吉の論文について


訂正前:

1。昭和5年、西暦1930年:33歳
学位論文「患者食研究」で京都帝国大学より医学博士の号を授与される。

この論文の表紙には、「滿洲醫科大學榮養部 講師 安部淺吉」とあり、その印刷と製本は、「日新醫學 第十九年第1號(昭和四年九月發行)別刷」とあります。

2。昭和12年、西暦1923年:26歳
『兒科雜誌』(第283号。日本小兒學會。大正12年12月20日発行)に「幼兒「テタニー」症ノ一例」を寄稿。肩書なし、本名のみ。

3。昭和2年、西暦1927年:30歳
『滿洲醫學雜誌』(第7巻第6号。東洋醫學社。昭和2年12月11日発行)に「支那食品ノ硏究」を寄稿。肩書は、満洲醫科大學榮養部とのみあり。

4。昭和3年、西暦1928年:31歳
(1)5月
『『滿洲醫學雜誌』(第8巻第5号。東洋醫學社。昭和3年5月11日発行)に「支那食品ノ硏究(第二囘報告)粉條子竝ニ炒米ニ就テ」及び「支那食品ノ硏究(第三囘報告)奶豆腐波ニ炒米ノ「ヴイタミン」Bニ就テ」を寄稿。肩書は、満洲醫科大學榮養部とのみあり。
(2)6月
『滿洲醫學雜誌』(第8巻第6号。東洋醫學社。昭和3年6月11日発行)に「「ヴイタミン」B製劑「オリザニン」ト大腸菌「インドール」產生ト關係ニ就テ」を寄稿。肩書は、満洲醫科大學榮養部とのみあり。


訂正後:

1。大正12年、西暦1923年:26歳
『兒科雜誌』(第283号。日本小兒學會。大正12年12月20日発行)に「幼兒「テタニー」症ノ一例」を寄稿。肩書なし、本名のみ。

2。昭和2年、西暦1927年:30歳
『滿洲醫學雜誌』(第7巻第6号。東洋醫學社。昭和2年12月11日発行)に「支那食品ノ硏究」を寄稿。肩書は、満洲醫科大學榮養部とのみあり。

3。昭和3年、西暦1928年:31歳
(1)5月
『『滿洲醫學雜誌』(第8巻第5号。東洋醫學社。昭和3年5月11日発行)に「支那食品ノ硏究(第二囘報告)粉條子竝ニ炒米ニ就テ」及び「支那食品ノ硏究(第三囘報告)奶豆腐波ニ炒米ノ「ヴイタミン」Bニ就テ」を寄稿。肩書は、満洲醫科大學榮養部とのみあり。
(2)6月
『滿洲醫學雜誌』(第8巻第6号。東洋醫學社。昭和3年6月11日発行)に「「ヴイタミン」B製劑「オリザニン」ト大腸菌「インドール」產生ト關係ニ就テ」を寄稿。肩書は、満洲醫科大學榮養部とのみあり。

4。昭和5年、西暦1930年:33歳
学位論文「患者食研究」で京都帝国大学より医学博士の号を授与される。


この論文の表紙には、「滿洲醫科大學榮養部 講師 安部淺吉」とあり、その印刷と製本は、「日新醫學 第十九年第1號(昭和四年九月發行)別刷」とあります。

2016年8月26日金曜日

もぐら通信第48号(第二版)をお届けします

もぐら通信第48号(初版)に6箇所の訂正箇所がありましたので、下記の通り訂正して、もぐら通信第48号(第二版)をお届けします。


もぐら通信
発行人
岩田英哉


1。17ページ:
A. 
訂正前:

(2)3月
『労働科学同攻会報告』(第1輯)に「集団栄養の基準」を寄稿する。

訂正後:
(2)3月
『労働科学同攻会報告』(第1輯)に「集団栄養の基準」を寄稿する。目次未見。本文に肩書なし、本名のみ。

B.

訂正前:

https://ja.scribd.com/document/322195038/04-安部浅吉事蹟並列略歴年表-v3

訂正後:
https://ja.scribd.com/document/322195038/04-安部浅吉事蹟並列略歴年表-v4


2。30ページ:
訂正前:
固い真珠貝の殻んお内部

訂正後:
固い真珠貝の殻内部

3。32ページ:
訂正前:
もし女性が

訂正後:
もし女性が

4。33ページ:
訂正前:
俳句に相当するような二行

訂正後:
俳句に相当するような一行

5。42ページ:
訂正前:
嬉しいんがから始末におえない

訂正後:
嬉しいんだから始末におえない




2016年8月24日水曜日

もぐら通信第48号をお届けします


暑夏を如何お過ごしでしょうか。

もぐら通信第48号をお届けします。


目次は次の通りです。

0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 安部公房と酒井和也:宮西忠正 …page 11
3 安部公房と成城高等学校(連載第5回):安部淺吉の論文(1)…page13
4 ストツクホルムの野菜サラダ:安部淺吉…page 18
5 安部淺吉の『ストツクホルムの野菜サラダ』について…page 20
6 『くぶりろんごすてなむい』の朗読上演:東鷹栖安部公房の会 柴田望…page 22
7 安部公房と三島由紀夫の超越論:「明日の新聞」と死後の子供達への誕生日プレゼント…page 24
8 Why Bach is Barock??かのなクッロバはハッバ故何…page 29
9 安部公房と村上春樹のThe End of The World:『方舟さくら丸』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』…page 35
10 言葉の眼 6:秋竜山の孤島漫画…page 37
11 連載物次回以降一覧…page 44 
12 編集後記…page 45
13 次号予告… page 45


今月もまた、あなたの涼しい巣穴で安部公房との楽しいひと時をお過ごし下さい。


もぐら通信
発行人

岩田英哉

2016年8月16日火曜日

安部公房のエッセイを読む会(通称「CAKE」)(第6回)を開催します

安部公房のエッセイを読む会(通称「CAKE」)(第6回)を開催しますので、お知らせします。


開催の要領は次の通りです。

ご興味のある方は、もぐら通信社宛、下記のメールアドレスまでご連絡下さい。:s.karma@gmail.com

I 日時と場所
(1)日時:2016年8月28日(日)13:00~17:00
(2)場所:南大沢文化会館 第3会議室
(3)交通アクセス:京王線南大沢駅下車徒歩3分:http://www.hachiojibunka.or.jp/minami/
(4)参加費用:無料
(5)二次会:最寄駅近くの安い、居酒屋という迷路をさ迷います。割り勘です。いつも時間は2時間ほどです。

II 課題エッセイ
(1)『生の言葉』:全集第1巻483~434ページ
(2)『文芸時評』:全集第2巻51~53ページ
[(3)『平和について』:全集第2巻54~58ページ]

恐らくは、上記(1)と(2)に終始して、(3)は量も多いことから、そこまでは行かないのではないかと思います。それ故に[ ]に入れた次第です。

(1)のエッセイは、詩人から小説家になろうというときに描かれたエッセイ『牧神の笛』の先蹤となる作品です。このエッセイは事務局が事前に用意をしてお渡しします。

(2)の文芸時評で批評の対象になっている作品は、椎名麟三の『永遠なる序章』と花田清輝の『二つの世界』です。
後者は、昭和23年7月号の近代文学に発表されたもので、これは事務局がコピーを用意し、事前にお届けします。また、前者についても、事前に読んでおくことが望ましい。

椎名麟三は、安部公房の好きであった作家で、愛といえば此の作家だけだと思うという後年の発言のある通りの作家です。埴谷雄高は、安部公房は椎名麟三とハイデッガーから出発したと言っています。これらのテキストも、事務局で用意をし、事前にお届けします。

ご興味のある方は、もぐら通信社宛、下記のメールアドレスまでご連絡下さい。:s.karma@gmail.com


2016年8月15日月曜日

安部公房の『砂の女』:「罰がなければ…」:読売新聞のネット記事:2016年08月15日 10時00分

安部公房の『砂の女』:「罰がなければ…」:読売新聞のネット記事20160815 1000




「今日、浜中地区で砂に埋まる民家はない。住民らは浜辺から逃げ出すように内陸へと転居した。一方、砂丘特有の強風下でも育つようにと、「苗木一本一本に経文を結わえて植えた」(高山さん)というクロマツ植林の長年の苦労の結果、砂防林が広い緑の帯をなしている。砂丘は、その名に値しないほど幅が狭い。
 飛砂の害は冬季に起きる数度の砂嵐に限られるようになった。ただ、その時は一晩で道路は砂に埋まり、住居の玄関をふさぐように砂が積もるという。」


2016年8月14日日曜日

訪問インタビュー 安部公房(TV番組・全4話): スカパーで放映

訪問インタビュー 安部公房(TV番組・全4話): スカパーで放映

9月9日から4回に亘って、スカパーにて安部公房のインタヴュー特集が放映されます。URLは次の通り:




内容は、ウエッブサイトによれば、

作家・安部公房は昭和59年11月、7年ぶりに書き下ろし作品を発表した。「方舟さくら丸」という小説で、核時代における人間、人類の生存のあり方を豊かなイメージと寓意(ぐうい)性の中で考えたもの。核兵器と国家を考える「核時代の方舟幻想」、旧満州時代を語る「わが青春原風景」、作品について語る「前衛であり続けること」などの内容で話をきく。

とありますから、1984年の「方舟さくら丸」発表後の撮影ということになります。


お楽しみあれ