坂口安吾の発案になる『近代文學』の草野球試合の第一回
もぐら通信第25号に「安部公房との時代(1)」と題して、中田耕治さんにご寄稿をいただき、『近代文學』同人による草野球の様子を読者にお届けしました。
さて、この度の第5回安部公房のエッセイを読む会に事務局が用意しました安部公房の「文芸時評」と題したエッセイ(1948年の30日と31日。全集第2巻、51ページ)の中で言及された『近代文學』(昭和23年7月1日発行。1948年第23号)の16ページの「雜報板」という欄に『近代文學』による最初の野球試合の記録がありましたので、転載してお届けします。
「近代文學チームを結成しようとしたのは、實は坂口安吾」の発案であったとは、初耳でした。
「★近代文學同人は、健康增進と運動神經の習練のため、野球チームを組織しました。その第一囘の公式(?)對抗戰を、讀賣新聞文化部と行ひ、接戰のうゑ、十三A對十二で快勝(?)しました。ちなみに、この戰における主戰投手は佐々木基一君でした。近代文學チームを結成しようとしたのは、實は坂口安吾氏でありましたが、連絡不十分で、氏の名投手(?)ぶりは見られませんでした。遺憾の極みでした。
なほ、同じ目的から、ダンスのレエッスンもはじめられました。敎師は埴谷雄高君、第一囘入門の生徒は佐々木基一、平田次三郞、野閒宏の三君。第二囘入門生は某君。第三囘入門生は椎名麟三、梅崎春生の兩氏。月二囘位の割合で、埴谷宅で練習しつつあります。パートナーが不足してゐます。多少心得ある方ならおいで下さるとことをさまたげません。また入門料、授業料は不要と聞いてをります。
★同人、加藤、中村、福永君らを中心とする季刊誌『方舟』第一輯が發刊されました。どうかご愛讀下さい。」
その何回か後に、以下にもぐら通信第25号より再掲する「中国文学」との野球試合があったのでしょう。
「2007/03/03(Sat) 527 [No.543]
戦後すぐの昂揚した気分のなかで、いちばん盛んになったのは草野球だった。
ある日、「近代文学」の人びとが、ほかのグループと親睦を深めるため、(みんなで八方手をつくして集めた酒、ビールの「飲み会」が目的で)野球をすることになった。しかし、メンバーが足りない。安部公房から連絡があって、きみも参加するように、といわれた。
相手は「中国文学」の人たちが中心で、ほかに画家たちも加わった強豪チームという。
当時、私は肺浸潤でスポーツどころではなかったが、それでも、安部公房の頼みでは断れない。大宮から上井草まで出かけて行った。
球場は見るかげもなく荒れ果てていた。
すぐに試合がはじまった。私は補欠だった。
このときの「近代文学」のメンバーは、埴谷雄高、平田次三郎、佐々木基一、安部公房、関根弘にまじって、寺田透、栗林種一など。三十代ばかり。
相手の「中国文学」の人たちは知らない人が多かったが、武田泰淳、千田九一など。ピッチャーがなんと岡本太郎だった。
日頃、バットをもったこともない選手ばかりなので、試合は大荒れ。好プレイ珍プレイの続出に爆笑、哄笑。最後まで笑いが絶えなかった。しかし、岡本太郎のピッチングで「近代文学」側はきりきり舞いをさせられた。
安部公房がホームランを打った。拍手喝采。それでも、「近代文学」は負けた。
私はピンチヒッターで出してもらったが、最初のバッターボックスは三振。そのまま二塁をまもったが、つぎに打順がまわってきたときヒットを打って塁に出た。しかし、せっかく塁に出たのに、岡本太郎の牽制に刺されて、あえなくアウト。
試合のあとは、ビール(当時アルコール飲料は貴重品だった)で乾杯。私は、いちばん年少だったし、大宮に住んでいたので早く帰った。疲れが出た。
その晩、私は発熱して寝込んでしまった。母が私を叱りつけた。
1947年。みんな若かった。私は20歳。
私にとっては、「よごれた古着を洗濯するみたいな昔の文壇の楽屋ばなし」ではない。若き日の貴重な思い出なのだ。」