『密会』の時間の構造(話法について)
安部公房が10代から、言語の話法について興味を深く持っていたことは、その10代の論文『問題下降に依る肯定の批判』や20歳のときの『詩と詩人(意識と無意識)』によってよくわかります。
安部公房が1977年、53歳のときの作品『密会』を読んで考えたことを備忘のように書く事にします。
この小説の形式は、時間という観点からは、実に単純に出来ていて、それは、得体の知れない馬(病院の副医院長)から受け取る録音テープを再生する自分の時間と、その録音テープに録音された時間の後に起きている(見かけ上)現在(というべき)録音テープを文字に起こす時間のふたつの時間から成り立っています。
そうして、録音された時間を再生する主人公の意識の在る時間は、現在の小説の地の文の時間の在る場所とは異なり、見かけ上過去の時間から現在の地の文の中の時間を眺めるようになっています。
他方、現在の地の文の時間は、その地の文の中に(一見過去の時間と見える)過去の録音の記録の時間を持っているわけですから、現在の時間から過去の時間を眺めるようになっています。そうして、この過去の時間の中には、実は現在の時間に生きている主人公の感想の言葉も混じっているので、明瞭には過去と現在というようには時間を区切ることができない構造になっています。
ひとことで言い換えると、過去から見た現在の時間と、現在から見た過去の時間が、地の文の中の( )によって(この( )の中には過去の録音テープの音声に関する主人公の感想が入っている)、交換されていて、あるいは時間を捨象されて、幾何学的に交換されていて、過去は現在(或いは未来)、未来は過去(或いは現在)という状態になっているのです。
この現在にいるのが、いつも話者です。そうして、この話者がどこに存在しているのか?というのが、安部公房の、特に『箱男』以降の小説の根本的な問いになります。
他方、この問いには、既に安部公房は10代で答え、1948年(24歳)のときに出版した『終りし道の標べに』で既に答えているのだとわたしは考えています。
そのことに関する直裁な答えは、『密会』の( )の中の独白と、地の文の中の言葉とが、言わば、内部と外部の関係で、交代し、交換される関係にあるということなのです。
さて、この論は、もう少し後日に結論を持ち越すとして、『密会』の話です。
この小説の最後に、丁度戯曲『友達』がそうであるように、最後に『明日の新聞』が登場します。
この新聞は、安部公房の思考の中心にある、以上言及した時間の構造の、即ち構造という以上は、時間を捨象した、小説の構造の空間の骨組みなのです。
『明日の新聞』が今日発行されるのです。このこころ慰められる、優しい残酷な世界。
安部公房は、演劇論をいうときにも、これを時間の空間化と呼んでおります。
何故安部公房はそう考えるのか?これは、10代に耽読し、耽溺したリルケの世界を読む以外にはない、それを日本人の10代の少年がどのように命がけで自分のものとしたか、即ちそのリルケの思想を生きたかということを知ること以外にはないのです。わたしはそう思います。
どうか、あなたもリルケをお読み下さい。安部公房の読者として。
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