涙の壷
Tränenkrüglein
Andere fassen den Wein, andere fassen die Öle
in dem gehöhlten Gewölb, das ihre Wandung umschrieb.
Ich, als ein kleineres Maß und als schlankestes, höhle
mich einem ändern Bedarf, stürzenden Tränen zulieb.
Wein wird reicher, und Öl klärt sich noch weiter im Kruge.
Was mit den Tränen geschieht? — Sie machten mich schwer,
machten mich blinder und machten mich schillern am Buge,
machten mich brüchig zuletzt und machten mich leer.
http://www.textlog.de/22406.html
安部公房は、何度かこのリルケの詩『涙の壷』に言及して、自分の所説を述べている箇所があります。
今その箇所を詳らかにすることができませんが、将来この壷を論じるための準備として、ここに訳出し、解釈と鑑賞を施すことにします。
【訳】
他の者たちは葡萄酒を摑み、他の者たちは油を摑む
これらの者の囲壁を一定の範囲で囲っている、この中空になった丸天井の中で
わたしは、より小さな尺度として、そして最も痩せたものとして、
わたし自身を穿って、中空にし、窪ませて、他の欲求を満たすものとなす。墜落する涙のために。
葡萄酒はより豊かになり、そして油は壷の中でより清澄になる。
涙には何が起きているのだ?—涙は、わたしを重たくした、
わたしを目くらにした、そして、わたしの足の関節を玉虫色に光らせ、わたしを遂には破れやすい脆(もろ)いものにし、そして、わたしを空にしたのだ。
【解釈と鑑賞】
この詩は、何を歌っているのでしょうか。
第1連で歌われているのは、わたし以外の他の人々の行為です。
ひとつは、葡萄酒を摑み、ふたつは、油を摑むというのです。
リルケの最晩年の傑作二つの詩作品『オルフェウスへのソネット』であったか、『ドィーノの悲歌』であったかの一節に、やはり壷と、これら葡萄酒と油のことが歌ってある一節があります。これを読むとリルケは、葡萄酒の壷や油の壷で、人間の文明が誕生して、都市が生まれて、社会が生まれ、そこで交易をして生活をする、そのような生活の豊さを表すものとして、この二つを使っています。
これと同じ理解をここでも適用することで、この第1連は理解することができます。
しかし、わたしは、そのような都市や人間の生活の豊かさを享受する者ではない。そうではなく、全く逆に「墜落する涙のために」いる者だとあります。
「墜落する涙」とは、涙を流しながら墜落してゆくということであり、そのように墜落するときに涙を流すという意味でしょう。
この涙を流すと、人間は墜落するというのです。そして、それは、「他の欲求のために」墜落するのです。この「他の欲求」の他とは、わたし以外の他の人々の欲求とは異なってという意味です。即ち、わたしは、葡萄酒や油の壷を手にしないのです。
そして、この欲求に身を任せると、自分自身が空になり、窪みになる。
この空になり、窪みになるという形象(イメージ)は、10代の安部公房がリルケを読み耽って我がものとした形象のひとつです。この窪みが、後年『砂の』女の砂の穴という窪みに成長します。
第2連では、そのようなわたしと社会との関係が歌われています。
わたしが空になればなるほど、窪みになればなるほど、社会の、都市の葡萄酒と油は、より豊になり純度が増す。
これに対して、全く反対に、わたしの身に起こることは、
「涙は、わたしを重たくした、
わたしを目くらにした、そして、わたしの足の関節を玉虫色に光らせ、わたしを遂には破れやすい脆(もろ)いものにし、そして、わたしを空にしたのだ。」
とあるようなことになります。
この詩の題名は、邦題は『涙の壷』ではありますが、ドイツ語では、Traenenkrueglein、トレーネン•クリュークライン、ですので、正確に言えば、涙の小さい壷、涙の小壷という意味です。
つまり、リルケは、このわたしは、葡萄酒の壷ではなく、油の壷でもなく、涙の小さな壷だといっているのです。それが、わたしである、と。
しかし、そのようなわたしは、他の人々よりもより小さな尺度であり、最も痩せたものでとしてあるのです。即ち、この測定者としての小さな存在であるわたし、そして、そのような存在として社会に対してある最も痩せたものとしてのわたし、リルケはこのようなわたしを『涙の小さな壷』と呼んだのです。
10代の少年安部公房は、この詩をこのように誠に正確に理解したことでしょう。繰り返し、後年引用するほどに。
翻って、第1連を読みおすと、わたし以外の、社会の中に生活する豊かな人々の周囲には壁が巡らされていること、そうして、その壁の上には、中空の丸天井があって、わたし以外の他の人々は、その天井の下で生活していると歌われています。
このリルケの歌った都市の生活の抽象的な表現についても、少年安部公房は、よく理解をしたことでしょう。
18歳の安部公房は、そのような社会を、『問題下降に拠る肯定の批判』と題した論文の中では、社会は「蟻の巣」だと書いています。その蟻の巣である閉鎖空間から脱出するために、安部公房自身もまた涙の小さな壷になろうと決心したのです。
この詩には、既に『赤い繭』や『デンドロカカリヤ』の種子が胚胎しています。そういえるならば、『砂の女』や『他人の顔』の種子もまた。