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2014年8月30日土曜日

もぐら通信(第24号)を発行しました。

もぐら通信(第24号)を発行しました。

ダウンロードは次のURLから:

http://ja.scribd.com/doc/238154299/第24号-pdf

目次は、次の通りです。

1。ニュース&記録
2。目次
3。三島由紀夫の『午後の曳航』と安部公房:岡山典弘
4。冒険と日和見 劇評・アロッタファジャイナ公演『安部公房の冒険』:ホッタタカシ
5。株の道と安部公房の道~ニュース&記録解題~:編集部
6。安部公房と「現在の会」:松原一枝
7。『友達』の稽古場を尋ねる:編集部
8。『榎本武揚』の町、厚岸:岩田英哉
9。『砂の女』出版の舞台裏:編集部
10。私の本棚より:高野斗志美著『安部公房論』:タクランケ           
11。読者からの感想
12。編集者短信:内田百閒と安部公房
13。編集後記
14。次号予告



2014年8月28日木曜日

もぐら通信(第24号)の内容が決まりましたので、目次を御届けします。

もぐら通信(第24号)の内容が決まりましたので、目次を御届けします。

配信は、登録して戴いている読者には今月30日を、それ以外の読者には、この安部公房の広場を通じて31日を予定しています。

今回も多彩な内容となりました。御寄稿戴いた皆様に感謝申し上げます。


1。ニュース&記録
2。目次
3。三島由紀夫の『午後の曳航』と安部公房:岡山典弘
4。冒険と日和見 劇評・アロッタファジャイナ公演『安部公房の冒険』:ホッタタカシ
5。株の道と安部公房の道~ニュース&記録解題~:編集部
6。安部公房と「現在の会」:松原一枝
7。『友達』の稽古場を尋ねる:編集部
8。『榎本武揚』の町、厚岸:岩田英哉
9。『砂の女』出版の舞台裏:編集部
10。私の本棚より:高野斗志美著『安部公房論』:タクランケ                   
11。読者からの感想
12。編集者短信:内田百閒と安部公房
13。編集後記

14。次号予告

2014年8月24日日曜日

アマゾンのキンドル本にて、『安部公房のアメリカ論』の刊行をしました。


アマゾンのキンドル本にて、『安部公房のアメリカ論』の刊行をしました。

無料キャンペーンの期間は、8月25日(月)から8月29日(金)の5日間です。

ダウンロードは、次のURLから:

佐野史郎が安部公房役に挑戦ー読売新聞


佐野史郎が安部公房役に挑戦ー読売新聞

「劇団「アロッタファジャイナ」が、彼を題材にした「安部公房の冒険」を、23日から東京・初台の新国立劇場小劇場で上演する。駆けだしの頃に安部の芝居を観劇していたという佐野史郎=写真=が公房役を演じる。
 公房にとって、演劇こそが最後にたどり着いた表現手法だったとして、その姿を見つめ直す作品。大学で演劇を教える安部(佐野)は、教え子の茜(縄田智子)を寵愛していた。2人は演劇論を交わし合ううちに、深い関係になっていく。」
以下、次のURLに文章が続きます。

2014年8月21日木曜日

浜岡砂丘:安部公房「砂の女」上映50年 撮影地は今…

安部公房が、『砂の女』の着想を得たのは、山形県酒田市の砂丘でありましたが、実際に映画『砂の女』が撮影されたのは、静岡県の浜岡砂丘でした。

その砂丘についての記事が、ネットの新聞に掲載されましたので、転載を致します。次のURLへ:http://mainichi.jp/select/news/20140821k0000e040155000c.html


「安部公房(1924~93)の書き下ろし長編小説「砂の女」の映画上映から今年で50年を迎えた。小説のモデルは山形県の酒田周辺だが、映画の撮影は静岡県・浜岡砂丘(現御前崎市)の合戸海岸で行われた。太平洋側最大級の「遠州大砂丘」の一翼を担い、さざ波のような美しい風紋で知られた浜岡の地はいま、原発のイメージの陰に隠れ、砂丘自身も姿を変えつつある。ロケのあった砂丘を、旧浜岡町史の編さんに協力した市文化財保護審議会副会長の清水芳治さん(64)と歩き、砂丘の歴史を振り返った。

(略)

勅使河原宏監督、安部公房原作・脚本、1964年上映。昆虫採集に出かけた砂丘で捕らわれの身になる教師の男を岡田英次(1920~95)、砂穴で暮らす謎を秘めた女を岸田今日子(1930~2006)が熱演した。男が村人の策略で不条理にも落ち込んだ砂穴は、出口のない現代的管理社会の象徴でもある。カンヌ映画祭審査員特別賞やキネマ旬報ベストテン日本映画第1位・監督賞など多数受賞し、国内外で高い評価を受けた。」

2014年8月20日水曜日

安部公房:一時通学 旭川の小学校に記念碑計画(旭川東鷹栖安部公房の会)


本日のネットの毎日新聞に、旭川の東鷹栖安部公房の会による記念碑設立の記事が掲載されましたので、御伝えします。

「安部は東京生まれだが、両親が東鷹栖(旧鷹栖村)出身だった縁で小学2~3年生のときに旭川市立近文第一小学校に通った。地元住民と安部文学のファンらが2012年8月に公房の会を結成。地域と安部との関わりを広く伝えようと、記念碑の建立を計画した。」

と報じています。

その他詳細は、次のURlへ:

http://mainichi.jp/select/news/20140820k0000m040076000c.html

2014年8月17日日曜日

埴谷雄高と安部公房

埴谷雄高論6:死霊の文体について

今手元にその資料がなく、一体何で読んだのかも記憶にないのであるが、中村真一郎が埴谷宅を訪れて、その書架に緑の背表紙のジャン・パウル全集をみて、あっ、埴谷雄高はジャン・パウルなのだと直観したことの書いてある文章を読んだことがあります。

この中村真一郎の直観は正しいとわたしも思っています。

死霊を読んでいて、その時間の無さ、物語の進行しないそのしなさは、ジャン・パウルの文体と同じであり、このような文体の根底にある精神は、ジャン・パウルに一脈通じているのだと思います。

それは、時間を捨象して、空間的な世界を造形したいという願望です。

これに加えて、もうひとつ、埴谷雄高は意識しなかったと思いますし、誰もこのことを言っておりませんが、その願いと併せて実現したそのネスト構造(入れ籠構造)の息の長い文体は、国や言語を超えて、明らかに埴谷雄高がバロック様式の作家であることを示しています。

バロック様式とは、17世紀のヨーロッパ、ドイツが諸国に蹂躙された30年戦争の起きた時代の様式で、その時代からいっても、人間が今日在ることが明日は無いかもしれない、自分は今日生きているが明日は死ぬ事があると考えたことから生まれた様式です。

その文章上の様式、即ち文体においては、ネスト構造(入れ籠構造)の重畳の息の長い文体でありました。そうして、もうひとつの特徴は、グロテスクであることを厭わないということです。

安部公房を発見した埴谷雄高は、自分と同じ主題を探究する若い作家を発見したということの他に、やはり、上に述べた死生観から言って、ともに自分自身を未分化の状態におくという、そのような物と考え方と態度に共感を覚えた筈です。

埴谷雄高には、重畳な文体が、他方、安部公房には、グロテスクネスが、日本語の世界に生まれたということになるでしょう。

安部公房とバロック様式については、次のURLアドレスへ。

http://abekobosplace.blogspot.jp/2012/10/blog-post_22.html





ガルシア•マルケスの窓


ガルシア•マルケスの窓

書棚にある『百年の孤独』を不図手に取って、ひょっとしたら、安部公房の主題と同じ主題をマルケスも書いているのではないかという気がしたので、数ページを読み進めると、果たしてそのような箇所がありました。

それは、主人公が窓を介して、その外を眺める箇所です。

「ホセ•アルカディオ•ブエンディーアは妻の言葉をまともに受けとめた。窓の外に視線をやると、日なたの野菜畑を駆まわっている子供たちの姿が目に映ったが、それが彼には、ウルスラの呪文によってその胎内に宿った子供たちが、まさにこの瞬間から地上に存在し始めたのだという印象を与えた。そのとき、彼の内部で何かが起こった。神秘的でしかも決定的なその何かは、現在という時間から彼を根こそぎにして、まだ足を踏み入れてあことのない記憶の世界のあてどない旅へと彼を誘った。」

これは、まさしく10代からの安部公房の世界です。

ここで、はっきりしていることは、マルケスは、

1。外部と内部の交換をしているということ。
2。それによって初めて、この世で時間が生まれるということ。それも、この世という一次元で。
3。この交換が、神話的な世界を創造するということ。

以上のことを言っているということです。

安部公房は、この思考、この論理、この感性を、全く自分と同じものだと思ったに違いありません。

この箇所は、『百年の孤独』(新潮社。鼓直訳)の14ページ下段にあります。

安部公房の窓については、既に「もぐら感覚5:窓」(もぐら通信(第3号))と題して論じておりますので、それをご覧下さい。





2014年8月16日土曜日

リルケの『涙の壷』


涙の壷

Tränenkrüglein

Andere fassen den Wein, andere fassen die Öle
in dem gehöhlten Gewölb, das ihre Wandung umschrieb.
Ich, als ein kleineres Maß und als schlankestes, höhle
mich einem ändern Bedarf, stürzenden Tränen zulieb.

Wein wird reicher, und Öl klärt sich noch weiter im Kruge.
Was mit den Tränen geschieht? — Sie machten mich schwer,
machten mich blinder und machten mich schillern am Buge,
machten mich brüchig zuletzt und machten mich leer.


http://www.textlog.de/22406.html


安部公房は、何度かこのリルケの詩『涙の壷』に言及して、自分の所説を述べている箇所があります。

今その箇所を詳らかにすることができませんが、将来この壷を論じるための準備として、ここに訳出し、解釈と鑑賞を施すことにします。


【訳】

他の者たちは葡萄酒を摑み、他の者たちは油を摑む
これらの者の囲壁を一定の範囲で囲っている、この中空になった丸天井の中で
わたしは、より小さな尺度として、そして最も痩せたものとして、
わたし自身を穿って、中空にし、窪ませて、他の欲求を満たすものとなす。墜落する涙のために。

葡萄酒はより豊かになり、そして油は壷の中でより清澄になる。
涙には何が起きているのだ?—涙は、わたしを重たくした、
わたしを目くらにした、そして、わたしの足の関節を玉虫色に光らせ、わたしを遂には破れやすい脆(もろ)いものにし、そして、わたしを空にしたのだ。


【解釈と鑑賞】

この詩は、何を歌っているのでしょうか。

第1連で歌われているのは、わたし以外の他の人々の行為です。
ひとつは、葡萄酒を摑み、ふたつは、油を摑むというのです。

リルケの最晩年の傑作二つの詩作品『オルフェウスへのソネット』であったか、『ドィーノの悲歌』であったかの一節に、やはり壷と、これら葡萄酒と油のことが歌ってある一節があります。これを読むとリルケは、葡萄酒の壷や油の壷で、人間の文明が誕生して、都市が生まれて、社会が生まれ、そこで交易をして生活をする、そのような生活の豊さを表すものとして、この二つを使っています。

これと同じ理解をここでも適用することで、この第1連は理解することができます。

しかし、わたしは、そのような都市や人間の生活の豊かさを享受する者ではない。そうではなく、全く逆に「墜落する涙のために」いる者だとあります。

「墜落する涙」とは、涙を流しながら墜落してゆくということであり、そのように墜落するときに涙を流すという意味でしょう。

この涙を流すと、人間は墜落するというのです。そして、それは、「他の欲求のために」墜落するのです。この「他の欲求」の他とは、わたし以外の他の人々の欲求とは異なってという意味です。即ち、わたしは、葡萄酒や油の壷を手にしないのです。

そして、この欲求に身を任せると、自分自身が空になり、窪みになる。

この空になり、窪みになるという形象(イメージ)は、10代の安部公房がリルケを読み耽って我がものとした形象のひとつです。この窪みが、後年『砂の』女の砂の穴という窪みに成長します。

第2連では、そのようなわたしと社会との関係が歌われています。

わたしが空になればなるほど、窪みになればなるほど、社会の、都市の葡萄酒と油は、より豊になり純度が増す。

これに対して、全く反対に、わたしの身に起こることは、

「涙は、わたしを重たくした、
わたしを目くらにした、そして、わたしの足の関節を玉虫色に光らせ、わたしを遂には破れやすい脆(もろ)いものにし、そして、わたしを空にしたのだ。」

とあるようなことになります。

この詩の題名は、邦題は『涙の壷』ではありますが、ドイツ語では、Traenenkrueglein、トレーネン•クリュークライン、ですので、正確に言えば、涙の小さい壷、涙の小壷という意味です。

つまり、リルケは、このわたしは、葡萄酒の壷ではなく、油の壷でもなく、涙の小さな壷だといっているのです。それが、わたしである、と。

しかし、そのようなわたしは、他の人々よりもより小さな尺度であり、最も痩せたものでとしてあるのです。即ち、この測定者としての小さな存在であるわたし、そして、そのような存在として社会に対してある最も痩せたものとしてのわたし、リルケはこのようなわたしを『涙の小さな壷』と呼んだのです。

10代の少年安部公房は、この詩をこのように誠に正確に理解したことでしょう。繰り返し、後年引用するほどに。

翻って、第1連を読みおすと、わたし以外の、社会の中に生活する豊かな人々の周囲には壁が巡らされていること、そうして、その壁の上には、中空の丸天井があって、わたし以外の他の人々は、その天井の下で生活していると歌われています。
このリルケの歌った都市の生活の抽象的な表現についても、少年安部公房は、よく理解をしたことでしょう。

18歳の安部公房は、そのような社会を、『問題下降に拠る肯定の批判』と題した論文の中では、社会は「蟻の巣」だと書いています。その蟻の巣である閉鎖空間から脱出するために、安部公房自身もまた涙の小さな壷になろうと決心したのです。

この詩には、既に『赤い繭』や『デンドロカカリヤ』の種子が胚胎しています。そういえるならば、『砂の女』や『他人の顔』の種子もまた。