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2015年3月7日土曜日

三島由紀夫が安部公房に贈った別れの挨拶 ~『春の雪』の中のもぐら~

                            三島由紀夫が安部公房に贈った別れの挨拶
                                  ~『春の雪』の中のもぐら~

先日NHKのETVによる連続的な特集の一つに三島由紀夫特集があって、これはよくできた良い番組でした。

その中で、三島由紀夫と親交のあった美輪明宏が、三島由紀夫が死の前にたくさんの赤い薔薇の花を持って楽屋を訪ねて来て、美輪明宏がお付きの人に幾つもバケツを用意させて、そこにその薔薇の花束を入れたという逸話を語っておりました。そうして、この言語藝術家は、別れ際に、自分の人生に於いて美輪明宏という人間に出会ったことに感謝の言葉を告げ、もう会うことはこれからはないので、これからの時間の中で贈る分の薔薇の花を一度機に君に届けたのだといって、ある諧謔の口調も交えた此の作家らしいものの言い方をして、楽屋を出て行ったということでした。

これ以外にも、死の前に、この作家は様々なひとに、このように直接にであれ、電話であれ、手紙であれ、お別れの挨拶を贈っております。

昨年の大晦日からお正月の三が日に掛けて、機縁があって、三島由紀夫の最晩年の連作『豊穣の海』を読みましたが、そのうちの第1巻『春の雪』に次のような場面が出てまいります。

それは、この小説の第38章の文字通りの終りで、広壮な松枝侯爵邸の庭を、まだ旧制高校生の二人、即ち主人公の松枝清顕と親しき同級生の本多繁邦が、現に苦しんでいる恋の成就のこの世での不可能とこの世の終末の来ることへの期待と死と権力とお金のことを考え語る松枝清顕と、松枝清顕と一緒に話をしながら歩いていて、その広大な庭の中の池ー船遊びのできるほどの広い池ーのほとりまで来ると、地表に現れて死んでいる子供のもぐら(土龍)をみつける場面です。

「第一時限の論理学の講義がおわり、血洗いの池を囲む森の小径を歩きながら、二人はその話(筆者註:恋と世の終末と死と権力と金の話)をしたのであるが、第二時限がはじまる時が迫り、今来た道を引返した。秋の森の下道には、目に立つさまざまのものが落ちていた。湿って重なり合い茶いろの葉脈が際立った夥(おびただ)しい落葉、団栗(どんぐり)、青いままにはじけて腐った栗、煙草の吸殻、......その間に、ねじけて、白っぽい、それがいかにも病的に白っぽい毛の固まりを見つけて、本多は立止まって瞳を凝らした。幼い土竜(もぐら)の屍(しかばね)だとわかったときに、清顕も蹲(うずく)まって、朝の光を頭上の梢がみちびくままに、黙ってこの屍をつぶさに眺めた。
 白く見えたのは、仰向きに死んでいる胸のあたりの毛だけが白いのが目を射たのである。全身は濡れそぼった天鵞絨(ビロード)の黒さで、小さな分別くさい掌(てのひら)の白い皺(しわ)には泥がいっぱいついていた。足掻(あが)いて、皺に喰い込んだ泥だとわかる。嘴(くちばし)のような尖った口が仰(あお)のいて裏側が見えるので、二本の精妙な門歯の内側に、柔らかな薔薇色の口腔がひらいていた。
 二人は時を同じゅうして、かつての松枝家の滝口にかかっていた黒い犬の屍を思い出した。あの犬の屍は、思いがけず念入りな供養を享(う)けたのである。
 清顕は、毛のまばらな尻尾をつまんで、幼い土竜の屍を、自分の掌の上にそっと横たえた。すでに乾ききった屍は、不潔な感じを与えなかった。ただ卑しい小動物の微細な造りがいやらしかった。
 彼は又、その尾をつまんで立上がり、小径が池のほとりに接すると、事もなげに屍を池へ投(ほう)った。
 「何をするんだ」
と本多は、友のその無造作に眉をひそめた。一見学生らしい粗暴な振舞のうちに、彼は清顕の常ならぬ心の荒廃を読んでいた。」

主人公は、その尻尾をつかんで、池の中に放り投げる。放り投げると、本多繁邦が、何をするんだと声を上げます。しかし、何故ここで本多繁邦が、そういう声をだして、その言葉をいうのか、また何故ここでもぐらが出て来なければならないのか、わたしは理解ができませんでした。

しかし、段々と親しく三島由紀夫の言葉の世界に入って行きますと、この言語藝術家の言葉の発する場所を知ることに至り、そうして思ったことは、ひょっとすると、このもぐらは安部公房の形象(イメージ)であったのかも知れないと、全4巻を読み通して、そう思ったのです。これは、三島由紀夫から安部公房への、安部公房の言葉によれば自分と「言葉によって存在する」ことを共有していたこの同類の作家からの、お別れの形象であったのではないかと思います。

それゆえに、側にいた親友(三島由紀夫と安部公房はこころの通った対話のできる親しき友でした)本多繁邦に声を発せしめて、眉を顰めしめて、もぐらに対する斯様な辛辣で残酷な描写とバランスをとって、三島由紀夫は自分のこころを救ったのではないかと思います。三島由紀夫というひとは、このように現実を形象に、即ち虚構の言語の世界に変換するひとなのです。そうして、その言葉がどんな具体的な微細な現実とその現実に関する作家の感情から生まれ、言語に変換されて著されたものかは、読者は知ることができないのです。

この場合、大切なことは、三島由紀夫は全く私小説の作家ではありませんので、書き手の自分の私意が入ることを極力避け、そのこころを人に知られないように表現したのですし、そうするのだということです。

安部公房も同じことをしました。安部公房の場合は自己喪失を実践し(これは、リルケの『マルテの手記』に倣ったもの)、これを繰り返して次元展開を行い(これは、安部公房の数学的・思考論理的な能力がなさしめたもの)、無意識の中から自然に立ち上って来る形象を若い時代には存在象徴と呼び、後年には単に象徴と呼んで、これを言語に変換しました。他方、三島由紀夫の場合には、同じ形象を、しかし実に意識的に、このように、明晰に、言語に変換して表しました。

全く、双子の兄弟のように瓜二つの二人ですが、しかしまた、シャム双子の姿で、一つの体を共有しながら、その頭(こうべ)は、正反対の方向を向いている二人です。

安部公房の蔵書目録があったとして、その中に『春の雪』は入っているのでしょうか。さて、蔵書目録があり、読んだとして、安部公房は、三島由紀夫のこの最後の挨拶に気づいたでしょうか。わたしは気づいたのではないかと思います。

『春の雪』は、1965年(昭和40年)9月から1967年(昭和42年)1月にかけ月刊文芸雑誌『新潮』に連載発表後、1969年(昭和44年)1月に新潮社より単行本として刊行されました。この同じ時期に、安部公房は、次の作品を刊行しております。安部公房が41歳から45歳の時期です。

『榎本武揚』(1965年)
『終りし道の標べに』(改稿版)(1965年)
『燃えつきた地図』(1967年)
『人間そっくり』(1967年)  
『夢の逃亡』(1968年) 
 
この間、1966年『文芸』(2月号)では、二人は『二十世紀の文学』と題して、言語と意識・無意識に関する、実に貴重な対談を行っております。

また、1966年5月2日には、安部公房は、三島由紀夫主演の2.26事件を扱った小説『憂国』の映画化された同じ題の映画を観て、『映画「憂国」のはらむ問題』と題して、自己の作家としての在り方と比較をして、実に的確な三島由紀夫評、映画『憂国』評をしております(全集第20巻、176ページ)。このエッセイで、安部公房は既に三島由紀夫の死を、同じ論理を正反対に共有している言語藝術家として、その理由も含めて、それを我が事として、予言しております。このエッセイの、やはり最後から引用します。傍線筆者。

「(略)作者が主役を演じているというようなことではなく、あの作品全体が、まさに作者自身の分身なのだ。自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆にこの作品に、自己を転位させようとしたのかも知れない。
 むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させてしまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。ぼくに、羨望にちかい共感を感じさせたのも、おそらくその不敵な野望のせいだったにちがいない。
 いずれにしても、単なる作品評などでは片付けてしまえない、大きな問題をはらんでいる。作家の姿勢として、ともかくぼくは脱帽を惜しまない。」

このエッセイの後、1970年11月25日の三島由紀夫の死までの間に、安部公房が三島由紀夫について書いた文章はありませんので、これは、安部公房が4年後の未来に既にこの時書いて発行していた、三島由紀夫のための「明日の新聞」であったのです。これが、この時既にしてなされていた、同じ時期の、安部公房から三島由紀夫への、文字に残っている最後の挨拶ということになります。

[註]
実際に安部公房が三島由紀夫に会った最後はいつでしょうか。『レストランキャンティ(CHIANTI)と安部公房~リルケの贋の息子と出合った場所~』(もぐら通信第29号)で書きましたように、今そこから引用しますと、音楽家黛敏郎の言葉として、

「「キャンティ」の常連の中でも長老格だった黛敏郎にその頃の店の空気を尋ねると、「六〇年代か」と、ふーっと息を吐き出し、少しの間考えて、そして話はじめた。
 「真夜中が「キャンティ」の華やかな時間だった。がさつじゃない仲間達がいたから。その大元締めが川添氏でね。『キャンティ』のなかはゆったりしていたけど、外は物情騒然とした時代でね。六〇年代とは、ベトナム戦争やらロックミュージックやらで。いつだったか、六〇年代最後の年だったかな。三階の『キャンティシモ』へ行ったら、三島(由紀夫)さん、安部(公房)さん、堂本(尚郎)さんといった『ああ、あんな人が』と思うような人がゴーゴーを踊っててねえ。しかし、あれはダンスが好きで踊ってたわけじゃない。時代の雰囲気にうかれて踊っていたんじゃないか――――――と、今になってみればそう思うね」」

とありますので、これを読む限り、1969年には、そうしてゴーゴーを踊るのですから、三島由紀夫の死の前年の、冬ではなく夏以前に、少なくとも顔を合わせて挨拶はしていたということになります。


また、安部公房は、三島由紀夫の死後6年経って、1976年に『反政治的な、あまりに反政治的な』という文章を書いて、三島由紀夫との思い出を言葉にしております(安部公房全集第25巻、374ページ)。これは、三島由紀夫の死後6年経って、やっと書くことのできた、安部公房による鎮魂の文章です。

この文章の表題をみますと、安部公房と三島由紀夫は、二人が共通して10代で読んだニーチェについて語り合うことのあったことが判ります。この題名は、ニーチェの『人間的な、余りに人間的な』をもぢったものだからです。

ふたりは、やはり10代で読んだリルケについては、語り合ったのでしょうか。安部公房の一読者としては、あったと想像することは楽しく、しかしまた、安部公房自身の側からみて、敢えてなかったのだと想像すること、安部公房は三島由紀夫にリルケの話はしなかったのだと考えることは、安部公房がこころに抱くリルケ像の深さを思はしめて、何か粛然たる気持ちが致します。

[註]
三島由紀夫は、新潮文庫の『花ざかりの森・憂国』の後書きの「解説」で、『花ざかりの森』という16歳のときの作品に「もう一つの戦時中の作品『花ざかりの森』を、これ(筆者註:1943年18歳のときに書いた『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』のこと)と比べて、私はもはや愛さない。一九四十一年に書かれたこのリルケ風の小説には、今では何だか浪漫派の悪影響と、若年寄のような気取りばかりが目について仕方がない。十六歳の少年は、独創性へ手をのばそうとして、どうしても手が届かないので、仕方なしに気取っているようなところがある。」と書いています。

この同じ時期に、安部公房はリルケの詩を読み、またリルケの小説『マルテの手記』を読み、一群の詩と幾つかの小説と論文とエッセイを書いていたのです。

安部公房全集第1巻をつぶさに読むと、同じ時代に少年として生きた安部公房は、少年三島由紀夫とは何もかも逆で、「独創性へ手をのばそうとして、どうしても手が届かないので、仕方なしに気取っているようなところ」はなく、逆に「独創性へ手をのばそうとはせずにいて(リルケの世界に没していて)、そこに既にして手が届き、仕方なしに気取っているようなところも全くなかった」のです。本当に、いつも同じ接点を共有していながら、反対方向を向いている二人です。

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