難解な安部公房『箱男』を何回でも読みたくなる読み方【芥川奈於の「いまさら文学」】
ネット上に、『箱男』についての面白い、そして的確な感想と紹介の文章をお書きになっている方がいらしたので、ご紹介します。
「■では、その「箱男」の正体は?
ストーリーのはじめでは、「箱男」は紛れもなく元カメラマンの男であり、所謂「プチ世捨て人」でもある。
しかし、読んでいくうちにその中身は次々と移り変わる。だが、本文としてのあらすじ、つまり小説『箱男』(の記録)はどんどんと進んでいくのだ。あたかもひとりの人物が書き続けているように。
結果、「箱男」とは、人物としては存在しない「とある視点」なのかもしれない。看護婦を観ている視点、そして箱男という「何か」として見られる視点の関係性が重要なキーポイントになっていると考えれば、この作品をより理解できる。」
という上の引用の下線を施した箇所の理解は、全く安部公房の文学の世界の本質、即ち関係性、即ち関数であることを言い当てています。
決して、難しい論を書いているのではなく、しかし、安部公房の文学を読む楽しさを平易な言葉で読者に伝えてくれております。
この箱男の「「箱男」とは、人物としては存在しない「とある視点」」については、安部公房は、『箱男』という小説そのものは無関係なインタビューで、次のように語っております。もぐら通信第33号の『リルケの『形象詩集』を読む(連載第2回)』より以下に引用します:
成城高校時代の親しき、哲学談義を交わした友、中埜肇が次のような安部公房の姿を書き残しております。
「たしか高校二年の夏休前のことではなかったろうか。彼の方からそれまで全く面識のなかった私に、話したいことがあると言って接触を求めてきた。時と所をきめて改めて会うや否や、彼はいきなり私に向かって「君は解釈学についてどう思う」と切り出した。(その時の彼の言葉だけは五十年以上経った今でも私の耳にはっきりと残っている。)当時既に日本でもハイデッガーの『存在と時間』の翻訳が出版され、わが国の哲学界や思想的ジャーナリズムにも「解釈学的現象学」という言葉が姿を見せていた。(中略)
当時の安部は「解釈学」という言葉をむしろデカルト的な懐疑の方法に近い意味に解していた。」(『安部公房・荒野の人』35ページ)
安部公房は、デカルトの『方法叙説』と解析幾何学の本を読んでいたのです。デカルトは、バロックの哲学者です。
安部公房が中埜肇に初めて会ったときに発した「君は解釈学についてどう思う」という問いは、18歳に成城高校の校友誌『城』に発表した『問題下降に拠る肯定の批判』の中で安部公房が、わたしは普通の社会の人間とは違って「座標」軸なしで物を考えるのだといい、「一体座標なくして判断は有り得ないものだろうか」と問い、この問いの答えが、この論文の副題「是こそ大いなる蟻の巣を輝らす光である」という言葉の由来である「これこそ雲間より洩れ来る一条の光なのである」といい、この一条の光こそが、この蟻の生きる閉鎖空間から脱出をするための唯一の方法であり、その方法とは、「遊歩場」という「道」、即ち時間も空間もない抽象的な上位の次元の位相幾何学的な場所の創造であり、その為の方法が「問題下降に拠る肯定の批判」だといっています。
また、中埜肇の言う「当時の安部は「解釈学」という言葉をむしろデカルト的な懐疑の方法に近い意味に解していた。」という正確な理解については、晩年安部公房自身が、デカルト的思考と自分独自の実存主義に関する理解と仮面についての次の発言がある(『安部公房氏と語る』全集第28巻、478ページ下段から479ページ上段)。ジュリー・ブロックとのインタビュー。1989年、安部公房65歳。傍線筆者。
「ブロック 先生は非常に西洋的であるという説があるけれども、その理由の一つはアイデンディティのことを問題になさるからでしょう。片一方は「他人」であり、もう片一方は「顔」である、というような。
フランス語でアイデンティティは「ジュ(私)」です。アイデンティティの問題を考えるとき、いつも「ジュ」が答えです。でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでてきませんでした。それで私は、数学のように方程式をつくれば、答えのXが現れると思いました。でも、そのような私の考え方すべてがちがうことに気づき、五年前から勉強を始めて、四年十ヶ月、「私」を探しつづけました。
安部 これは全然批評的な意見ではないんだけど、フランス人の場合、たとえば実存主義というような考え方をするのはわりに楽でしょう。そういう場合の原則というのは、「存在は本質に先行する」ということだけれども、実は「私」というのは本質なんですよ。そして、「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、それは観念論になってしまうということです。
ブロック それは、西洋的な考えにおいてですか。
安部 そうですね。だけど、これはどちらかというと、いわゆるカルテジアン(筆者註:「デカルト的な」の意味)の考え方に近いので、英米では蹴られる思考ですけどね。」
既に18歳の安部公房は、この晩年の発言にある認識に至っていたということがわかります。そうして、何故ジュリー・ブロックが「でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでて」来ないかという理由を、上の二つの表(マトリクス)は示しています。
ここには、「ジュ(私)」は有りません。何故ならば、それは、安部公房のいう通り、「実は「私」というのは本質」であるからです。何故ならば、本質とは、実体のあるものではなく、差異であり、関数だからです。
この、安部公房のいう「私」を、西洋の哲学用語で、subject(主観、主体、主辞、主語)と言うのです。
上に表にした、実体の無い、関係概念としての、安部公房のいう此のsubject(「ジュ(私)」)の概念を理解することは、安部公房の文学を理解するために大変大切です。「実は「私」というのは本質なんですよ。そして、「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、それは観念論になってしまうということです。」という安部公房の発言をよくお考え下さい。上の表は、次のところでダウンロードすることができます:
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