安部公房の読者のひとりとして、三島由紀夫の文学の世界へ足を踏み入れて判ることは、三島由紀夫は詩人であるので、何か決定的なことを云はうとすると隠喩(metaphor)で云ふ以外には、手段を知らず、言葉を知らないといふことである。
自分が何故死ななければならないか、それも何故切腹といふ形式で死ななければならないのか、それも何故古式に則らずに、浅くではなく、深く自分の腹を刺さねばならないのかは、最晩年43歳のエッセイ『太陽と鉄』に林檎論として率直に書いており、その前段で同じ林檎論を30歳のときのエッセイ『ワットオの《シテエルへの船出》』にやはり不可視の林檎論として書いてゐるのです。
しかし、自己の生死に関わることを林檎といふ譬喩(ひゆ)を以つて語る以外にはないのです。これが、三島由紀夫が何歳になつても詩人である由縁であると、わたしは思ひます。
もし、この林檎論を散文で書けば、それは『太陽と鉄』『日本文学小史』『文化防衛論』といふ、謂はば3部作になつて、展開してしまひ、ひらいてしまふのです。
詩は、ドイツ語のdichtenといふ動詞が示すやうに、凝縮(compression)ですから、三島由紀夫は、どうしても隠喩を使はずにはゐられないのです。
と、このやうに考へてみますと、安部公房も生涯詩人でありましたから(何しろ小説には詩が挿入されるといふ、古代から連綿と続く歌物語を書いた作家ですから)、かうしてみますと、晩年のクレオール論といふ言語論もまた同様に、これは安部公房の詩(die Poesie)、ポエジーなのだといふことが判ります。
更に思へば、安部公房のエッセイのほとんどは、散文詩と言つて差し支へないといふことに気づくのです。