安部公房の読者のための村上春樹論(3):村上春樹と換喩の世界
昨日今日と英文の契約書を読む機会があって、そして久し振りでアメリカの社会と文化といふものを考へてみて、アメリカ人の世界は換喩の世界だといふことを思ひました。
親のゐない孤児の世界です。不在の父親の世界をアメリカ人が譬喩で表すと換喩になる。
それ故に、換喩の文学を創造する村上春樹は、アメリカ文学、それも最も先鋭に換喩の人間関係の現れるアメリカ文学を愛好するのです。修辞学の方面から村上春樹の文学を眺めると、さういふことになります。
換喩関係を表した典型的な条項は、簡単に言ってしまへば、お互いに一つの目的に向かって二人は契約を結ぶけれども、私が此の契約に基づいて執行することから生じる問題があなたに生じても、それは私の責任ではないよといふ趣旨の条文はみな、これです。
村上春樹が換喩の人間関係、換喩の物事(と人間)の関係を見てゐる作家が、例えば、スコット・フィッツジェラルドであり、レイモンド・カーヴァーであり、サリンジャーであり、レイモンド・チャンドラーであり、トルーマン・カポーティなのです。
チョコレートと塩煎餅は、換喩関係にあるのです。これが、全ての作品中の登場人物に及ぶ関係です。
同じことを、村上春樹は『翻訳夜話』の中で次のやうに言ってゐます。
「カキフライについて書くことは自分について書くことと同じなのね。自分とカキフライの間の距離を書くことによって、自分を表現できると思う。それには、語彙はそんなに必要じゃないんですよね。いちばん必要なのは、別の視点を持ってくること。それが文章を書くには大事なことだと思うんですよね。みんな、つい自分について書いちゃうんです。でも、そういう文章って説得力がないんですよね。テキストと自分との相関関係みたいなものが掴めていれば、それなりにうまい、自然な文章が書けるはずです。自分を出そうと思うと、やっぱり煮詰まっちゃう。だから、これから文章を書こうと思ってつまったら、カキフライのことを思い出してみてください。べつにカキフライじゃなくてもいいんだけど、とにかく。」
更に、『村上春樹 雑文集』といふ文章の中で言ってゐる次の引用の方が、私の趣旨と上の「翻訳夜話」の実践篇として、具体的に村上春樹が表現してゐるので、わかりやすいのではないかと思ひます。
「僕の皿の上で、牡蠣フライの衣がまだしゅうしゅうと音を立てている。小さいけれど素敵な音だ。目の前で料理人がそれを今揚げたばかりなのだ。大きな油の鍋から僕の座っているカウンター席に運ばれるまでに、ものの五秒とはかかっていない。ある場合には──たとえば寒い夕暮れにできたての牡蠣フライを食べるような場合には──スピードが大きな意味を持つことになる。
箸でその衣をパリッとふたつに割ると、その中には牡蠣があくまで牡蠣として存在していることがわかる。それは見るからに牡蠣であり、牡蠣以外の何ものでもない。牡蠣の色をし、牡蠣のかたちをしている。彼らはしばらく前まではどこかの海の底にいた。何も言わずにじっと、夜となく昼となく、固い殻の中で牡蠣的なことを(たぶん)考えていた。それが今では僕の皿の上にいる。僕は自分がとりあえず牡蠣ではなくて、小説家であることを喜ぶ。油で揚げられてキャベツの横に寝かされていないことを喜ぶ。自分がとりあえず輪廻転生を信じていないことをも喜ぶ。だって自分がこの次は牡蠣になるかもしれないなんて、考えたくないもの。
僕はそれを静かに口に運ぶ。ころもと牡蠣が僕の口の中に入る。かりっとした衣の歯触りと、やわらかな牡蠣の歯触りが、共存すべきテクスチャーとして同時的に感知される。微妙に入り混じった香りが、僕の口の中に祝福のように広がる。僕は今幸福であると感じる。僕は牡蠣フライを食べることを求め、そしてこうして八個の牡蠣フライを口にすることができたのだから。そしてその合間にビールを飲むことだってできるのだ。…」
この最後の引用を読むと、村上春樹といふ作家が、自己を存在として考へる時に、即ち文章を書く時には、換喩を必要としてゐることが、よくわかります。即ち、
牡蠣フライの衣(ころも)と牡蠣は隣接関係にあつて、決して交はることがないのです。
さうして、「八個の牡蠣フライ」とは、アダムとエヴァが楽園にあつて、未だキリスト教のGodの怒りを買つて追放される前の状態で楽園にゐることの、baseball gameの9回ではないといふ、換喩表現なのです。