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2015年11月30日月曜日

2016年 早稲田大学オープンカレッジでの安部公房講座開催


早稲田大学オープンカレッジでの安部公房講座日程をお知らせします。

2016年
1月8日10:40~12:10
「安部公房スタジオ」の芝居作り(イメージの展覧会)
講師:奈木 隆(尚美学園大学教授)

1月15日10:40~12:10
安部公房の演出をめぐって
講師:眞鍋卓嗣(劇団俳優座演出家)

1月22日10:40~12:10
「安部公房スタジオ」の芝居作り(ウエーを中心に)
講師:大西加代子(女優)

1月29日10:40~12:10
安部公房演劇の歴史意義について
講師:宮本啓子(白百合女子大学講師)

すべて会場は、

早稲田大学エクステンションセンター早稲田校
〒169-8050新宿区西早稲田1-6-1
03-3208-2248

受講料 会員 9,461円 ビジター 10,886円


各回の講義予定

日程
講座内容
1
01/08
「安部公房スタジオ」の芝居作り(1)
77年の『イメージの展覧会』以降、音+映像+言葉+肉体=「イメージの詩」の創造を目指した抽象的な作品が上演されます。それらに出演し、安部の音作りの助手を勤めた講師が視聴覚資料等を用いて作品を解説します。
2
01/15
安部公房作品の演出をめぐって
俳優座の演出家である講師が、『巨人伝説』につづいて『城塞』を演出します。「今」を見つめ、社会と人間を描いてきた安部公房の作品を、五十年の時を経て今なぜ上演するのか、安部作品のもつ現代性を語ります。
3
01/22
「安部公房スタジオ」の芝居作り(2)
学生時代から安部公房の演劇作りに関わってきた講師が、自身が演じた『ウェー(新どれい狩り)』などの作品を例にとって、安部公房スタジオのユニークな芝居作りと、そこで生み出された安部演劇の魅力を語ります。
4
01/29
安部公房演劇の歴史的意義について
第一回は、小説『闖入者』をもとに書かれた『友達』を取り上げ、小説との比較から、安部公房の演劇観を明らかにします。安部の考える演劇が従来の演劇とどのように異なるかを考え、その歴史的功績を解説します。77年の『イメージの展覧会』以降、音+映像+言葉+肉体=「イメージの詩」の創造を目指した抽象的な作品が上演されます。それらに出演し、安部の音作りの助手を勤めた講師が視聴覚資料等を用いて作品を解説します。

2015年11月29日日曜日

もぐら通信第39号を発行しましたので、お届けします


こんにちは、

もぐら通信第39号を発行しましたので、お届けします。


目次は、次の通りです。

0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 安部公房を巡る想い出(連載第8回):中田耕治…page 5
3 安部公房の写真について2:卒業論文本論:熊谷良樹…page 15
4 『安部公房トリビュート』:サークル misosio…page 61
5 ABE日誌7:滝口健一郎…page 67
6 三島由紀夫は仙川の安部公房邸のパーティに招待されていた…page 73
7 特集:安部公房と成城高等学校(連載第4回)…page 75
8 私の本棚より:サブカルチャーとしての安部公房:岩田英哉…page 80
9 言語とは何か:岩田英哉…page 81 
10 リルケの『形象詩集』を読む(連載第8回):『狂気』 …page 85
11 編集者通信:奉天の窓から日本の文化を眺める(5):龍安寺石庭…page 100
12 編集後記…page 101
13 次号予告… page 101


では、今月も、あなたの巣穴で、安部公房との佳きひと時をお過ごし下さい。


もぐら通信


2015年11月18日水曜日

三島由紀夫は仙川の安部公房邸のパーティに招待されていた


三島由紀夫は仙川の安部公房邸のパーティに招待されていた

安部公房が、大森の三島由紀夫邸に招待されて、その3階のサンルームと三島由紀夫の名付け、特別な関係にある、即ちその人間としてのまた藝術家としての力量を認めた人間でなければ招じ入れなかった其の太陽の部屋で、二人で親しく話をしたことは、『三島由紀夫邸での安部公房~太陽の部屋と月の部屋~』(もぐら通信第32号)でお伝えした通りです。

他方、三島由紀夫は仙川の安部公房邸を訪ねておりました。映画『砂の女』で主役を務めた岸田今日子が、次のように、1997年、安部公房没後4年後に『安部公房さんのこと』と題して、語っております(『国文學』。特集「安部公房 ボーダレスの思想」、1997年8月号、7ページ)。

安部ねり著『安部公房伝』に書かれている安部公房の仙川でのパーティがどのような様子であったのか、その一端の知られる回想の一部です。

同著(215ページ)には、真知夫人が「40歳を過ぎた」頃から開かれることのなくなった、「作家、演劇人、学者など50人ほどを招いて、真知が得意の料理を振る舞った恒例の年末のパーティ」とあり、そこに岸田今日子がおりますから、真知夫人は1926年生まれ、従い、1966年を過ぎた頃以前までの話といふことになり、1964年に勅使河原宏によって映画化された『砂の女』以降の時間の間のパーティです。

「それから、何度かおうちに招んでいただいた。安部さんは長椅子の奥に坐ったまま、会話の中心になっていらっしゃる。最初の時は真知さんが、グレーに黒いポケットの付いたロングスカートで、個性的なホステス振りだったのを思い出す。二度目は何のパーティだったのか、仔豚の丸焼きがお皿に乗って出て来た。小さな赤いカニの空揚げが、豚の耳から這い出そうとしていたりして、なかなか前衛的だった。三回目は、お家が満員になるほどのお客様で、三島由紀夫さんも見えた。安部さんは博識な上にユーモラスで暖かくて、黙ってお話しを聞いているだけでどんなに楽しかっただろう。」

安部公房は二回目のパーティには、三島由紀夫を招かなかったようです。それはもし、「小さな赤いカニの空揚げが、豚の耳から這い出そうとしていたりし」ているような料理が出てきたら、三島由紀夫は、さぞかし驚いてしまったことでありましょう。

しかし、その三島由紀夫のお顔もまた、そっと舞台の裾野から拝見したかったものです。 

『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用してお伝えします。:

「このような三島由紀夫を自分の同類、即ち「戯曲以前に」「俳優が言葉による存在(原文傍点)でなければならない」(『前回の最後にかかげておいた応用問題ー周辺飛行19』。全集第24巻、176ページ上段)ということを十分深く理解していた三島由紀夫に対する安部公房の言葉が、やはり『反政治的な、あまりに反政治的な』にありますので、これを引用して、紹介します(全集第25巻、374下段~375ページ)。これは、三島由紀夫の死後6年経って、やっと書くことのできた、安部公房による鎮魂の文章です。傍線筆者。

「ふと思う。ぼくらには案外根深い共通項があったのかもしれない。文学的にも思想的にも違っていたし、日常の趣味も違っていた。ぼくがカメラ・マニヤなら、彼は時計マニヤだった。ぼくが大の蟹好きなら、彼は大の蟹嫌いだった。しかし、ある種の存在(もしくは現象)に対する嫌悪感では、完全に一致していたように思う。いつか銀座のバーで飲んでいたとき、とつぜん二人同時に立ち上がってしまったことがある。同時にトイレに駆けこもうとしたのだ。理由に気付いて、大笑いになった。某評論家が入って来たところだった。
 ぼくらに共通していたのは、たぶん、文化の自己完結性に対する強い確信だったように思う。文化が文化以外の言葉で語られるのを聞くとき、彼はいつも感情的な拒絶反応を示した。しかもそうした拒絶反応が、しばしば三島擁護の口実に利用されたり、批判や攻撃の理由に使われたりしたのだから、ついには文化以外の場所でも武装せざるを得なくなったのも無理はない。それが有効な武装だったかどうかは、今は問うまい。安易な非政治的文化論の臭気に耐えるほど、鼻づまりの楽観主義者になるには、いささか純粋すぎたのだ。文化的政治論も、政治的文化論も、いずれ似たようなものである。
 反政治的な、あまりに反政治的な死であった。その死の上に、時はとどまり、当分過去にはなってくれそうにない。」





2015年11月13日金曜日

中田耕治さん若き安部公房を語る16:中村真一郎が最初に安部公房を認めた


中田耕治さん若き安部公房を語る16:中村真一郎が最初に安部公房を認めた


安部公房を巡る貴重な証言続々と




その後、T・Kさんからメールがあった。

中村真一郎氏でしたか!

戦後文学に興味がありまして、氏の著作も「死の影の下に」五部作、「四季」
四部作を中心に読んだことがあります。
中村氏は中年から晩年にかけて頼山陽や江戸漢詩に関する評伝・研究をものし
ましたが、なるほど、祖父が漢学者だったとは。なっとくです。
氏の神経症とはべつに、祖父から受けた漢学の素養が評伝・研究に取りくむき
っかけとしてあったのですね。

 このメールのおかげで、またしても別のことを思い出した。戦後、いち早く文学者として安部公房を認めたのは、誰あろう中村真一郎だった。

 これまた説明が必要になる。

(略)

いずれにせよ、この集まりがきっかけで、私は安部公房といっしょに関根弘と親しくなった。その後、「世紀」の会を作ろうとしたとき、私がまっさきに協力をもとめたのは関根弘だった。



中田耕治さん若き安部公房を語る15:安部公房と『近代文学』での人々


中田耕治さん若き安部公房を語る15:安部公房と『近代文学』での人々

この回想を拝見すると、安部公房の生きた時代とその周囲の様子がよくわかります。非常に貴重な証言ばかりです。

この回で埴谷雄高が花田清輝を言う批評の言葉は、正しいと、私には思われる。

その他、非常に貴重な記録が満載の回想をお読みください。


(略)
会のあとで本郷三丁目のバーに寄った。美人姉妹が経営していたバーで、駿河台下の「らんぼお」の美女と並んで、戦後文学者や、東大仏文の人達が集まっていた。ここで、花田清輝と大論争になったことがある。埴谷雄高、安部公房がこの論争に加わった。

 埴谷雄高は、論争がはげしくなると、その間に割って入って、すかさず別の論点を投げ出す。だから、討論が堂々めぐりにならない。
 さらに、加藤周一と花田清輝の論争がハイライトに達したと見るや、それまで遠く離れて論争を見ている美しいホステスたちに目をやる。まるで、格闘技のチャイムのような効果で、一時、休憩。(はるか後年、「茉莉花」でも何度かおなじようなシーンを見たことがある。)
 この休憩のときに、埴谷さんは、安部公房と私にむかって、
 「なにしろ、カルテジアンとヴォルテリアンの論争だからね。レフェリーも必要だよ」
 花田清輝が薄笑いをうかべた。

 この論争の直後に、埴谷雄高が花田清輝にあてて出したハガキがある。(これは偶然私が手に入れたもので、このブログに掲載しようと思ったが、残念ながら見つからなかった。)
 そのハガキで、埴谷雄高は、花田清輝を「戦後」という時代にあらわれた「狂い咲き」と評していた。

 こうした論争をそのまま速記して、いまの雑誌に発表したら「戦後」の貴重な記録になったに違いない。
(略)


2015年11月10日火曜日

もぐら通信第39号の目次が決まりましたので、おしらせします


もぐら通信第39号の目次が決まりましたので、おしらせします。

もぐら通信第39号の目次は次の通りです。

1。安部公房を巡る思い出(連載第8回):中田耕治
2。安部公房の写真について2:卒業論文本文:熊谷良樹
3。特集:安部公房と成城高等学校(連載第4回)
4。『安部公房トリビュート』:misosio(著者の許可が取れたら)
5。私の本棚より:サブカルチャーとしての安部公房:岩田英哉
6。ABE日誌7:滝口健一郎
。リルケの『形象詩集』を読む(連載第8回):『狂気』
8。編集者通信:奉天の窓から日本の文化を眺める(5)龍安寺石庭
9。編集後記
10。次号予告



2015年11月8日日曜日

中田耕治さん若き安部公房を語る14:血縁・地縁と『近代文学』

中田耕治さん若き安部公房を語る14:血縁・地縁と『近代文学』


『近代文学』の同人たちや、その周辺にいた人たちが、互いに地縁・血縁の関係にあるという話は、誠にironicalで、物事と文藝のありかたと伝統について考えるには興味深い話です。

そうして、中村真一郎といふ人間についての思い出も。


 中村真一郎自身が祖父のことを話題にしたことは一度もなかったと思う、と私は書いた。これも薄弱な理由だが、中村真一郎自身が祖父のことを話題にしなかったと私が信じているのは――「近代文学」の人たちは、長年の親友どうしだったから、お互いの出自、経歴についてほとんど話題にしなかったからである。

 1946年の秋、私は意外なことを聞いた。平野謙が小林秀雄の親戚と知ったのだった。これは平野謙自身の口から聞いた。中村真一郎もこの話を聞いたはずである。
 もう少しあとのことになるが、評論家の西村孝次が、小林秀雄の従弟にあたると知った。私は驚いた。

以下、次のURLへ:

2015年11月1日日曜日

もぐら通信第38号(第二版)をお届けします


もぐら通信第38号(第二版)をお届けします。



以下の小さな追記をなし、訂正をしました。

1。安部公房の全集未収録のエッセイ『笑いましょう』の第四話の「公園」を「講演」に訂正しました。

2。同じ『笑いましょう』の終わりに、著作権承継者安部ねりさんへの謝意を明示しました。

3。「リルケの『形象詩集を読む(連載第7回)』」の末尾に、連載の日本語訳はすべて筆者の訳であることを追記しました。

4。ページ数に誤りがありましたので、正しいものに訂正しました。




秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉


もぐら通信