安部公房ー寺山修司ー三島由紀夫の関係を論ずるための最初の素描
もぐら通信第34号で、私の書いた『『箱男』論~奉天の窓から8枚の写真を読み解く~』について、慶應義塾大学の巽先生がTwitterで批評してくださり、これを機縁にして何度かやり取りのあった最後に、次のコメントをいただいたことは、同誌第35号に書いた通りです。
「[巽先生]7月8日
あとは寺山修司ですね。 1970年代当時、わたしは安部公房スタジオの会員だったのでパルコ劇場にも頻繁に通いましたが、安部の無機質で不条理な舞台と寺山率いる天井桟敷の華麗にしてマニエリスティックな舞台は一見対照的ながら、今にしてみると都市演劇の両極だったのかも。」
確かに、安部公房と寺山修司のつながりは、この後もずっと気になっておりました。そこへ、ミッドナイトイプレスからご案内があり、2016年5月29日に池袋はルービックハウスにて、「昭和とは名だったのか~寺山修司の歌が聞こえてくる~」という題で、寺山修司のそばにいて活躍なさった高取英さんという方がお話をなさるというので、安部公房との関係を伺いたいと足を運んだ次第です。
結論を言えば、大きな収穫がありました。
私の視点は、安部公房でありますし、また深く互いに親しかった作家、三島由紀夫との関係を念頭に置いて、幾つかの質問を高取さんに呈して、回答を得たものを以下の通りにまとめます。
安部公房、三島由紀夫、寺山修司の3人に共通していることは、次の二つです。
1。様々なメディアを横断したということ。ジャンルを超えて、首尾一貫した活動を最後まで行ったということ。
2。主要な主題が、不在の父親であるということ。
これに、巽先生のおっしゃる都市演劇という観点から、上の2項目を眺めますと、そうして高取さんのお話から焦点を1970年代に当てて、安部公房と寺山修司の演劇活動の関係を考え、また安部公房と三島由紀夫のジャンル横断的な1960年代の活動を考えますと、次のような図を得ることができました。これを、3人の関係の素描としてまづ掲げ、後日の安部公房・寺山修司論の最初の一手、奉天の窓というmatrixの碁盤に置く最初の石とします。
また、改めて、時間軸で3人の人生の時間を並べてみると、次のようになります。
高取さんが直接寺山修司から聞いたという言葉を以下にメモして備忘とします。寺山修司は、
1。デモが嫌い。デモよりテロだ。
2。自殺する人間は嫌い。しかし、三島由紀夫は普通にしていて、そのままに死んだので例外である。
3。小田実と石原慎太郎は好き。大江健三郎は、エリートだから嫌いである。
また、高取さんの言葉として、時代の生き証人としての重要な次の言葉がありましたので、これも残します。
1。寺山修司は、敗戦直後の爆発的なプロレスブームを、敗戦した日本による白人種への復讐とみ、それをある本で論じた(この本の題名が聞き取れなかった)が、ここで、戦後の日本の特徴と自分自身の姿として、父親の不在ということを、その本で述べている。
2。寺山修司は、三島由紀夫を規準としていた。
3。寺山修司は、漫画雑誌ガロの永井さんや漫画家の林静一などを論じていて、サブカルチャーをよく理解していたけれども、しかし、本人はサブカルチャーの人間ではない。Hight cultureの人間である。
4。寺山修司が安部公房について言及した資料やテキストは、ない。(筆者註:安部公房の側にも、安部公房が寺山修司について言及した資料やテキストは、ない。黒テント、赤テントへについての発言はあるが。)
私の付言:
高取さんの話を伺うと、寺山修司の譬喩は、叙情の隠喩、対して、安部公房の譬喩は、叙事の隠喩ということができるかも知れない。
この印象は、巽先生の言う「安部の無機質で不条理な舞台と寺山率いる天井桟敷の華麗にしてマニエリスティックな舞台」という「一見対照的ながら」「都市演劇の両極だったのかも」という感想にも一致しているように思う。