時代は、ニュートラル
安部公房の演劇の中心概念に、ニュートラルという概念があります。
これは、10代にリルケやニーチェから学んだ、安部公房の洞察による「未分化の実存」という認識の別名です。
この同じ実存を、安部公房は安部スタジオの役者達に求めたのです。それが、人間本来の在り方であるからです。
しかし、今こうして世情を眺めると、確かに時代はニュートラルであると思います。
ニュートラルの状態とは、無意識にあっても(安部公房は意識的に実践しましたが)、外部と内部の果てしない交換の常態である状態、そのような世界です。
例を挙げると、
(1)女性のキャミソール:下着が外(公共の空間)に出て来た。そして、恥じない。
(2)女性の電車の中でのお化粧:家の中での振る舞いを外部(公共の空間)で行い、恥じない。
(3)その他にも、内が外に、外が内になる。恥じないことから、何かが起きている。
(4)左翼が右翼に、右翼が左翼になる:若松孝二が3.11後に三島由紀夫の映画を撮影するなど。
(5)若い女性が、日常で(女同士で)男言葉を使うこと。
まだまだ、他にも幾つも日常でニュートラルの状態から現れる現象をみることができるでしょう。
両極端が交換される。時代の変換期には、いつも、そうなる。内部と外部が交換される。
安部公房が生きていたら、何といったでしょうか。
大東亜戦争敗北後の、あの時期には、花田清輝が変換期とは言わずに、転形期といい、安部公房もこの言葉をエッセイの中で使用しております。
今も、70年前と同じに、歴史は繰り返し、変換期になり、転形期になっているのです。花田清輝の同名の著作を読むことも、よい時機であるのかも知れません。