安部公房のアメリカ論:贋物(イミテーション)の国アメリカ
安部公房が晩年アメリカを論じたいとどこかで発言していて、もっと長生きをしていたら、必ずアメリカ論を書いていたことでしょう。このアメリカ論を読みたかったと思います。
しかし、今こうして考えていても、何故アメリカ論を書きたいと思ったのか、それから何故アメリカ論なのか、この理由を一言で言うことができることに気がつきました。
それは、アメリカが贋物の国だからです。二つの意味で。
即ち、国自体として贋物であり、またその国の作り出すものが贋物ばかりである国であるからです。贋物に溢れた国。
曰く、アメリカの都市と町という町、ラスベガス、ディズニーランド。また、アメリカという国が、どこかの国の、ということはどこにもない国の贋物、イミテーションです。その建国の最初は、インディアンを大量虐殺して、その歴史の上に成り立った国ですが、その前史を忘却し、その忘却の上に成立した全く新しい国家、という意味では、この地球上にあり、あったマルキシズムの共産主義と同じ考えの上に建てられた国家だということになります。それは、はい、何月何日にそれまでの世界とは全く別した、新しい国ができたのですというものの考え方において、共通しています。
こうしてみると、アメリカという国の民主主義という政体も、その思想も、贋物だということが言えます。そして、当然のことながら、ヨーロッパの世界の民主主義の贋物でもあるわけです。
さて、安部公房が生きていたらアメリカ論に入れて論じたものに、次のようなものがあるのではないかと想像します。
1。コカコーラ
2。ジーンズ
3。ハンバーガー
4。カウボーイ
これらも、例外無く贋物です。
わたしの考えでは、コカコーラというのは、ヨーロッパの世界にある神話的な泉の贋物です。ヨーロッパの中世の物語に出て来る泉は、そこには泉の精がいたり、怪奇な生き物が番をしていたりする、神聖な場所です。
コカコーラは、その意匠はアメリカという国らしく、知的財産権という法律的な名前で保護されている企業秘密であり、その製法は秘匿されて、つまり贋物の神聖性の上にあって、誰も近づくことができないという舞台設定になっています。その秘密の水を、アメリカ人たちは毎日飲んで、喉の飢えを癒しているわけです。ヨーロッパならば、中世の姿をした町の中に、今でもある尽きせぬ泉の水の贋物というわけです。
ジーンズは、一体何の贋物なのでしょうか?これも、アメリカの建国に関係があるでしょうが、一寸考えてみると、これは労働の贋物の着用なのかも知れません。労働しない状態の人間が一着に及んで、贋の労働を装ってみせるというわけです。しかし、このジーンズについては、もう少し考える必要がありそうです。安部公房の意見を聴きたいところです。
ハンバーガーは、ステーキの贋物。それも、手軽に食べられる贋物。ということは、またヨーロッパのサンドイッチの贋物ということになります。何よりも、そのHamburgerという名前からして、ドイツ人の食べ物の贋物なのです。
カウボーイは、ヨーロッパの世界の、聖書の古代にまで遡ることのできる、羊飼いの贋物です。この贋物も、やはりヨーロッパや中近東の世界の聖性の贋物ということになります。
話があちこちにゆくようですが、ディズニーランドは、デンマークのTivoliの贋物です。それは、実にディズニー的な空想の世界に換骨奪胎されておりますけれども、祖型は、Tivoliだと、わたしは思います。これは、近世の、ヨーロッパの白人種の博物館的な、百科全書的な収集の産物のひとつです。大きな敷地の中に、Chinese Garden, English Gardenといったように、様々な国のお庭があり、それぞれの建築物も建てられていて、また音楽も演奏されているなどして、実に楽しく時間を過ごし、場所を経験できるようになっています。これと同じものに、百貨店と日本人が翻訳した、Harrodsのような、department houseがあります。様々な世界中から輸入された商品を並べている様々なdepartmentsからなる店です。
ラスベガスに行けば、この砂漠の上に建てられた人造の町が、どのように子供じみた町であり、世界であるかを目の当たりにするでしょう。ラスベガスもディズニーランドも同根の町です。これらの町に典型的なように、アメリカの町はみな人造であり、人工の町です。日本の町のように、お城の周囲にできたとか、寺の前にできたとか、そういう意味では、人間の感情から自然にできたというような町ではありません。
ジャズという音楽も、これも、アメリカ人の奴隷貿易の忘却の上に成り立っている音楽だという意味では、建国の事情と軌を一にしています。つまり、アメリカ人(白人種)にとっては、贋物の音楽というわけです。
こう考えて見ると、安部公房が惹かれたのは、このアメリカという国の贋物性が、何か残酷な忘却の上になりたっているからではないかという仮説をたてることができます。
Baseballと呼ばれる、アメリカの国技ともいうべきスポーツもまた、同様な事情を、即ち忘却の上の神聖を表していて、そこに根差しているのではないでしょうか。(そして、アメリカ人の発明したスポーツで不思議なことは、アメリカンフットボールもそうですが、何故いつも攻める側と守る側という順序が規則正しく交替するのかということです。本来のフットボール、即ちサッカーは、そうではありません。攻守が絶えず流動的に入れ替わります。)
安部公房は、アメリカという国が贋物だから惹かれたのだという仮説を上のように敷衍をして、後日のための備忘と致します。
このようなことを、2014年の憲法記念日に想起するということもまた、深い意義と意味のあることでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿