中田耕治さん若き安部公房を語る 8:安部真知
中田耕治さんの語る安部真知夫人の若き日の姿。誰も語ることのなかった安部真知。
「私が安部君と親しくなった時期、彼と真知さんは、それまで住んでいた中野から小日向に移ったばかりだった。
この界隈も空襲の被害が大きく、安部君が間借りした家の周囲は焼け跡ばかりで、一軒だけ焼け残ったように見えた。
(略)
安部君は東大に戻るため、この界隈に部屋を探していたのだった。
武井武雄のことに話を戻そう。
(略)
真知は美少女だった。私とあまり年齢が違わないのに、ずっと年上のように見えた。私があまりにも幼稚だったせいだろう。新婚間もないふたりの部屋に押しかけて、自分でもよくわからない難しい議論を吹っかけるような少年に辟易していたに違いない。しかし、そんなようすは少しも見せず、若い夫とさらに年下の少年が夢中になって話しあっているのを聞いている。食事もろくにできない時代だったから、私をもてなすビスケットの1枚もなく、ただ黙ってときどきお茶を注いでくれた真知を思い出す。その水は、二人が借りていた部屋の大家さんが、戦時中、小さな家庭菜園にしていた庭の井戸から汲みあげなければならなかった。だから、夜中でも、真知は下駄を突っかけて庭に出て、両手でポンプを動かして水を汲むのだった。
(略)
当時の真知は、油絵を描きたいと思っていたが、絵の具も買えないほど貧しかった。それでも、少しも屈託を見せなかった。
たった一枚だが真知の油絵を見たことがある。
セザンヌの風景画を模写したものだった。
少年の私は、食うや食わずの生活で、貧しさにめげず、ひたむきにセザンヌの模写をつづけていた真知を知って感動した。
はるか後年、私は女子美の先生になったが、女子学生の描く模写を見るたびに、きまって安部真知の絵を思いうかべた。
これも身勝手ないいかたと承知しているが――私の内部では、女子美の女の子たちの絵やデッサンを見るたびに、はじめて見た安部真知の絵が、女子学生たちの才能を判断する一つのクライテリオンになったような気がする。
これもはるかな後年、私は南フランス、ラ・カリフォルニーのピカソのアトリエを見に行ったことがある。マヤ・ピカソの好意で、ヴァローリスのアトリエを見ることができたのだった。この旅で、マルセイユからカンヌを通ったが、途中でサント・ヴィクトワールの麓に出たとき、セザンヌのことを思い出しながら、「戦後」すぐに安部真知が描いた絵を思い浮かべた。」
是非、お読みください。:
http://www.varia-vie.com/sunclip/sunclip.cgi
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