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2017年1月1日日曜日

『方舟さくら丸』の中の三島由紀夫


『方舟さくら丸』の中の三島由紀夫

「『燃えつきた地図』の中の三島由紀夫」(もぐら通信第46号)と題して、安部公房が三島由紀夫と交わした時間と空間に関する哲学談義を論じ、それを小説といふ虚構の世界に映したことを述べましたが、1967年刊行の『燃えつきた地図』より17年後の、1984年刊行の『方舟さくら丸』の冒頭に、やはり三島由紀夫の愛した形象を二つ書いて、この、安部公房の人生に於いて最も親しかつた筈の友人の霊に、安部公房は密かに追悼の意を表はしてをります。

その二つの形象とは、仔鯨と、ラグビーのボールです。

「仔鯨」と、「子鯨」とではなく、何故安部公房は、この文字で此の言葉を選んで、書いたのでせう。

三島由紀夫が1970年に亡くなつたあと立ち上げた安部公房スタジオのために書いた戯曲『仔象は死んだ』(1979年)の題名が、子象ではなく、仔象でなければならない理由は、当時奉天で小学生の頃に、当時何度も大陸を巡回して、奉天では千代田公園でテントを張った[註1]矢野サーカス団のサーカスでは間違ひなく見た筈の子供の象の曲藝に、死を思はせる何かを同じ子供の安部公房が見たのか、それともサーカスを観て感動した後に、その子象が死んだことを知つたのか、いづれかでありませう。『安部公房文学サーカス論』は別途論じます。

ここで、安部公房が仔鯨と書き、子鯨と書かなかつたのは、同じ理由によります。安部公房は詩人ですから、『没我の地平』でも『無名詩集』でも、用字については、その文字の間の一文字文の空白も含め、厳密厳格に此れを文字通りに用ゐてゐることは、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について(後篇)』(もぐら通信第33号)で詳細に論じた通りです。

この仔鯨は、死んだ鯨の子供、いや、それ故に、仔供なのです。

鯨は海の形象ですが、『方舟さくら丸』の主人公の仇名でもあるもぐらは陸の形象です。後者については、三島由紀夫が畢生の名作『豊饒の海』の第1巻『春の雪』の第38章で、死んだ子供のもぐらとして描いてゐることは、「三島由紀夫が安部公房に贈った別れの挨拶~『春の雪』の中のもぐら~」(https://abekobosplace.blogspot.jp/2015/03/blog-post_7.htmlもぐら通信第30号)で述べた通りです。 [註1]

[註1]
三島由紀夫が最後の作品『豊饒の海』の第1巻「春の雪」の第38章で、安部公房を死体となって地表に横たわっているもぐらの子供として登場させたことは、既に『三島由紀夫が安部公房に贈った別れの挨拶~『春の雪』の中のもぐら~』(もぐら通信第30号)に書いた通りです。
「第一時限の論理学の講義がおわり、血洗いの池を囲む森の小径を歩きながら、二人はその話(筆者註:恋と世の終末と死と権力と金の話)をしたのであるが、第二時限がはじまる時が迫り、今来た道を引返した。秋の森の下道には、目に立つさまざまのものが落ちていた。湿って重なり合い茶いろの葉脈が際立った夥(おびただ)しい落葉、団栗(どんぐり)、青いままにはじけて腐った栗、煙草の吸殻、......その間に、ねじけて、白っぽい、それがいかにも病的に白っぽい毛の固まりを見つけて、本多は立止まって瞳を凝らした。幼い土竜(もぐら)の屍(しかばね)だとわかったときに、清顕も蹲(うずく)まって、朝の光を頭上の梢がみちびくままに、黙ってこの屍をつぶさに眺めた。
 白く見えたのは、仰向きに死んでいる胸のあたりの毛だけが白いのが目を射たのである。全身は濡れそぼった天鵞絨(ビロード)の黒さで、小さな分別くさい掌(てのひら)の白い皺(しわ)には泥がいっぱいついていた。足掻(あが)いて、皺に喰い込んだ泥だとわかる。嘴(くちばし)のような尖った口が仰(あお)のいて裏側が見えるので、二本の精妙な門歯の内側に、柔らかな薔薇色の口腔がひらいていた。」


また、それが証拠には、例へば『カンガルー・ノート』の中の「3 火炎河原」の章では、ここで一度使はれて以降は小鬼と呼ばれる子供の登場に際しては、単に子供と書き表し、仔共といふ用字とは別にして書き分けてをります。(全集第29巻、119ページ下段)

さて、『春の雪』の第38章の此の仔共のもぐらの死んでゐる傍には大きな池があり、小島が浮かんでゐます。また池は水といふことから海に、形象として通じてをりますから、安部公房は『方舟さくら丸』の冒頭で、次のやうに、そして何しろ方舟ですから海に大いに関係してゐて、また海はリルケに習ひ倣つた存在の形象ですから、言語と文字の世界に、即ち存在の中に、シャーマン安部公房は、三島由紀夫の霊を招来したのです。存在への案内書(ガイドブック)は、既に目次としてその前に、立て札として掲示されてゐます。 [註2]

[註2]
この小説の目次がガイドブックであり、立て札であるといふことについては、やはり『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について(後篇)』(もぐら通信第33号)で、他の立て札と併せて詳細に論じましたので、これをご覧ください。


その箇所を引用します。この言葉の文脈を知つて戴くために、その前後も含め、少し長い引用になります。傍線筆者。

「月に一度、県庁のある街まで買い物に出る。車で小一時間かかってしまうが、蛇口のパッキング、電動工具の替え刃、大型積層乾電池といった特殊な品物が多いので、地元の商店街では間に合わないのだ。それに出来れば顔見知りとは顔を合わせたくない。影のように綽名がついてまわるからだ。
《豚》もしくは《もぐら》がぼくの綽名である。身長一メートル七十、体重九十八キロ、撫で肩で手足は短めだ。体形を目立たせまいとして、丈の長い黒のレインコートを試してみたこともある。しかし駅前の大通りに面して新築された合同市庁舎の前で、そんな幻想はあっけなく吹き飛ばされてしまった。市庁舎は黒い鉄骨と黒いガラスに覆われた、黒い鏡のような建物で、列車を利用しようと思えばどうしてもその前を通らざるを得ないのだ。黒いガラスに映ったぼくは道に迷った仔鯨か、ゴミ捨て場で変色したラグビーのボールに見えた。背景の街が歪んで映るのは面白いが、歪んだぼくはみじめなだけだ。」(傍線筆者)

黒い鏡の箱型の建物といふのは、この冒頭で既に昼間の世界とは異なる地下の世界の陰画の洞窟の世界を意味してゐて、この小説の結末で、主人公が再び此の市庁舎の黒い箱の前へと脱出する最後の章への、最初の導入となつてゐます。

さて、ラグビーのボールの話です。平面(二次元)であれ立体(三次元)であれ、この楕円形の球の形象が、三島由紀夫の文学に持つてゐる大切な意味については、既に幾つかの論考で論じたとおりです。[註3]一言でいへば、これは対称性を備えた形象であり、また其の対称形の組み合わせによつて十字架の形象に通じる楕円形であつて、三島由紀夫が十大の詩人の時代から愛した、生命の充実した、死と隣り合わせの、極限の形象であるといふことです。

[註3]
楕円形やフットボールについては、以下の論考を書きましたので、ご覧ください。

三島由紀夫の十代の詩を読み解く25:二人の理髪師https://shibunraku.blogspot.jp/2015/10/blog-post_4.html
三島由紀夫の十代の詩を読み解く27:『剣』論(1)」:https://shibunraku.blogspot.jp/2015/11/blog-post.html
三島由紀夫の十代の詩を読み解く28:『剣』論(2)」:https://shibunraku.blogspot.jp/2015/11/blog-post_3.html
『卵をめぐる冒険~三島由紀夫の卵と村上春樹の卵~』:https://sanbunraku.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html

また、楕円形を巡つて、年代順に十代の詩の世界から思ふママに挙げて見ますと、次のやうな詩や小説があります。勿論、これ以外にも幾つもの詩と小説に登場してゐます。

(1)詩『桃葉珊瑚(あをき)《EPIC POEM》』:13歳
(2)詩集『一週間詩集』の表紙にある楕円形:15歳
(3)小説『卵』の楕円形:28歳
(4)16歳の詩『理髪師』の改作の詩『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』の楕円形:32歳
(5)小説『剣』の冒頭の竜胆の紋の楕円形:38歳(上記『剣』論二つをご覧ください。)


このラグビーのボールといふ一語から判ることは、安部公房が三島邸を訪ねて、あの太陽の部屋に、賓客として、特別な客として、招じ入れられた時に、三島由紀夫は間違ひなく、自分が十代で詩人であつたことを打ち明け、自分の大切な詩集の幾つかを開いて、自分の詩の世界を安部公房に語り、伝へたといふことです。

二人が二人だけで会つた時には、無条件で、云ふことなしに、詩人として会つたのだといふことが、この一語から判ります。[註4]

[註4]
安部公房全集を読みますと、安部公房は十代からは勿論ですが、詩を解する友と哲学を解する友を常に求めてゐます。十代には、前者については、金山時夫が、埴谷雄高とご縁ができてからは中田耕治さんが、後者については、中埜肇が、さうでした。三島由紀夫は、この二つの領域に十分に及び、互ひの立場と主張の論理を交換しながら自由闊達に論戦できる友でした。


このやうなことすべてを含めて、次の一行があると思ふと、誠に感慨深い。

「黒いガラスに映った僕は道に迷った仔鯨か、ゴミ捨て場で変色したラグビーのボールに見えた。」

道とは、既に18歳の時の論文『問題下降に依る肯定の批判』(全集第1巻、11ページ)に書いた道です。『赤い繭』の冒頭に主人公が夕暮れにトボトボと自分の家を探して歩く、家と家の間の隙間に存在する道です。以下に『株の道と安部公房の道』(もぐら通信第24号)より引用して、この位相幾何学的な道をお伝へします。

「安部公房の道は、既に18歳の時に書いた『問題下降に拠る肯定の批判』に、遊歩 場と呼ばれる道として出て参ります(全集第1巻、12ページ下段から13ページ 上段)。遊歩場という18歳の少年の命名は、そのまま後年の安部公房の文学の世 界の本質をそのまま言い当てています。安部公房の作品は、すべて遊びの、嬉遊の、 遊戯の世界とその道、即ち遊歩場という道の表現であり、その提示だからです。 

この安部公房の道は、「他の道とははっきりと区別されて居なければいけない」 のであり、この「遊歩場は二次的に結果として生じたもの」であり(晩年のクレオー ル論を読んでいるような気持ちがします。同じ発想です。既にこのとき安部公房の クレオール論は完成していたのです。)、「第一に此の遊歩場はその沿傍に総ての 建物を持っていなければならぬ。つまり一定の巾とか、長さ等があってはいけない のだ。それは一つの具体的な形を持つと同時に或る混沌たる抽象概念でなければな らぬ。第二に、郊外地区を通らずに直接市外の森や湖に出る事が出来る事が必要だ。 或る場合には、森や湖の畔に住まう人々が、遊歩場を訪れる事があるからだ。遊歩 場は、都会に住む人々の休息所となると同時に、或種の交易場ともなるのだ。」と いう道なのですが、この文章を読むと、このとき既に、安部公房はtopology(位相 幾何学)という数学を知っていたのだと言う事が判ります。 

この道は、幾何学的な道であって、そこには時間がありません。」

「黒いガラスに映った僕は道に迷った仔鯨か、ゴミ捨て場で変色したラグビーのボールに見えた。」

この一行で、安部公房は、三島君、歪んだ黒ガラスの、即ち歪み、即ち差異に存在する存在の中では、僕は君なんだよ、これは死んだ仔供のもぐらのお礼だよ、と言つてゐる安部公房の声が聞こえます。今度は君を、あの第38章の景色の中にある海の中で「道に迷った仔鯨」にして、君はtopologicalな道を辿つて永遠に生きてゐるんだよ、陸の上では君はラグビーのボールだった、これは生命の象徴であり、君の生命そのものの形象であつたね。そして、僕たちは君の太陽の部屋で膝を交えて語り合った。本当に楽しかった。そして、辛かった。何故なら君は、小学生の時に受けた死なざるを得ない酷い理由 [註5]を僕にだけ打ち明けてくれたからだ。さうして僕は僕が如何に満洲帝国の奉天といふ町で孤独な小学生であつたかを打ち明けることができた。ありがたう、三島君。君は詩と哲学と言語[註6]のことを語り合ふことのできる、僕の最高の友であつた、と。

『方舟さくら丸』の刊行は、1984年11月15日。奇しくも、三島由紀夫の命日の10日前です。安部公房のことですから、意図的に計算をして、10日の時差を設けたのでありませう。虚構と現実の両方に存在を招来するために。1970年11月25日の三島由紀夫の死の10日前に安部公房に何があり、三島由紀夫に何があったのか。

[註5]
「また父は家で三島の死なざるを得ないような幼少期の辛い体験のことを話していた。」(安部ねり著『安部公房伝』164ページ)

[註6]
「この座談会で、三島は公房の言語論にも言及していて、公房から言語論の話を聞いていた数少ない者のひとりであったことが伺える。」(安部ねり著『安部公房伝』164ページ)「この座談会』とは、中国共産党の毛沢東による文化大革命に対する反対声明「文化大革命に関する声明」を出した直後の安部公房、三島由紀夫、石川淳、川端康成による座談会のことを言つてゐます。1967年5月1日の座談会です。全集第21巻所収。同巻15ページ。



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