『魔法のチョーク』論
「『箱男』論~奉天の窓から8枚の写真を読み解く~」(もぐら通信第34号)より、シャーマン安部公房の儀式の式次第は、次のようなものでした。
1。差異(十字路)という神聖な場所を設けて、
2。その差異に向かって、また其の差異で呪文を唱えて、
3。その差異に、存在を招来し、
4。主人公と読者のために、存在への方向を指し示す方向指示板たる立て札を存在の十字路(差異)に立て、または案内人か案内書を配し、
5。存在を褒め称え、荘厳(しょうごん)して、
6。最後に、次の存在への方向を指し示す方向指示板たる立て札を立てる。
という、このような、安部公房の秘儀の式次第でありました。
安部公房の読者が、安部公房の作品を読むための便覧として役立つように、もう少し簡略にしてお伝えすると、
1。差異を設ける。
2。呪文を唱える。
3。存在を招来する。
4。存在への立て札を立てる。
5。存在を荘厳(しょうごん)する。
6。次の存在への立て札を立てる。
ということになります。」
『魔法のチョーク』の6つのプロセスを見て見ましょう。『赤い繭』と同じく1950年12月同月に発表の作品ですので、また発表時期を問はずとも、同じプロセスを踏んで作品は成つてゐる筈です。
簡単に6つのプロセスを要約すれば、次のやうになります。
1。差異を設ける。:冒頭の場所(便所)と時間(夕食が近づく)
2。呪文を唱える。:名前の列挙と3度立て続けにする欠伸
3。存在を招来する。:記憶喪失、自己喪失と引き換えに存在の部屋が現れる。部屋が存在の部屋になる。夜の部屋である。詩と詩人の部屋であり、もつと遡れば小学生の時の奉天の「クリヌクイ」の詩に歌われた部屋である。
4。存在への立て札を立てる。:「明日の新聞」
5。存在を荘厳(しょうごん)する。:「ポケットの中でカサっと鳴る」「最初の晩、買ったまま忘れていた」「明日の新聞」=超越論的な新聞=時間が存在しない空間を創造する=存在を荘厳する事。
6。次の存在への立て札を立てる。:壁→この壁はそのまま『S・カルマ氏の犯罪』の最後の壁になる。果てしなく(時間のない)垂直方向に成長する壁である。
一つ一つのプロセスをみてみませう。
1。差異を設ける。:冒頭の場所(便所)と時間(夕食が近づく)
冒頭の一行は次のやうに始まります。
(1)空間
「雨もりと料理の湯気で、ぶよぶよに成った場末のアパートの便所の隣で、貧しい画家のアルゴン君が住んでいた。」
ここで既に便所といふ、安部公房の読者にはお馴染みの凹の形象が登場します。これは一番有名な長編小説の作品で云へば、勿論前期20年の『砂の女』の砂の穴でありませうし、後期20年の『方舟さくら丸』の地下世界の、あの何でも嚥下咀嚼する便器でありませう。
便器もまた、安部公房の世界認識である差異の形象なのであり、確かに便器の穴である凹といふ形は、二つの壁の間の隙間であり、壁の間にある3次元の空間なのです。3次元の空間といへば、初期の短編の『天使』の主人公が冒頭に閉ぢ籠められてゐる、あの正六面体の立方体を思つて下さつても結構です。この立方体も閉鎖空間ですから、いはば、便器と閉鎖空間は別のものではなく、同じ論理に発した形象だといふ事になります。つまり、便器もまた閉鎖空間なのです。そして、共に窓または窓に相当する開口部を有してゐる筈の空間です。
この論理と、この論理の生み出す感情を(或いは、安部公房の感情が此の論理を生み出したといふ事も出来ますが)、安部公房は『シャボン玉の皮』といふ、『箱男』を上梓した直後のエッセイで、次のやうに言つてゐます。
「川や橋や道路や鉄道が交差し合つているような所で、構造上どうしても人間が住めない空間があり、しぜんゴミ捨て場として利用されることになる。さいわいそういう空間は、あまり人目につかない場所にある。街のなかの、影か穴ぼこのような位置に当たっているので、人はそのかたわらを通り過ぎても、めったに立止ったりすることはない。(略)いわば世間にとって未登録の空間なのである。
(略 ぼくもそんな場所に、わざわざ立止ってみたりするわけではない。(略)しかし、通りすがりざま、何か呼びかけてくる声を聞く。」(『シャボン玉の皮ー周辺飛行23』全集第24巻、416ページ)
このあと子供の頃の奉天でのゴミ捨て場である「堤防と鉄道線路がまじわるあたりに」あつた「大きな沼」の話が続きます。さうして、この謂はば何でも飲み込んでしまふ此の「沼のはずれ、ちょうど鉄道に面した位置に常設されていた、晒し首用の台のせいで」、安部公房の中では、この沼は死と結びついてをります。それを、「未来に待ちかまえている過去。人間を咀嚼する大地の口。」と言ひ、この表現で、読者は既に此沼が、後年小説家になり戯曲家になつてから作品に登場する「明日の新聞」であり、『第四間氷期』の陰の主役である予言する電子計算機(コンピュータ)であることを知るのです。
『第四間氷期』といふ題名もまた、氷期と氷期の間にある隙間の空間なのです。ここに「明日の新聞」である予言機械が登場する。この「明日の新聞」の論理が(ヨーロッパの哲学用語でいふ)超越論であるとは、既に論考の諸処にてお話ししてゐる通りです。
さて、このやうな隙間に存在する便所であつてみれば、「貧しい画家のアルゴン君が住んでいた」「三メートル四方の小さな部屋」は、「既にして」「いつの間にか」「何はともあれ」「言ふまでもなく」「四の五のいはずに」「つべこべ言はずに」「説明抜きで」「最初からそもそも」存在である空間なのです。即ち、時間を捨象した、リルケの詩にあるならば純粋空間である存在の部屋なのです。
といふことであれば、この隙間にある存在の部屋には、当然ながら箱男と同じ人間が住んでゐる筈で、後年1969年に安部公房は此の主人公について、次のやうに語つてゐます。
「アルゴン君という、この作品の主人公の名前の由来、一見バタ臭く、奇をてらったように見えるかもしれないが、じつはしごく無味乾燥、単なる化学的命名にすぎないのである。
アルゴン――すなわち、Ar。空気中に約一パーセント含まれている、一原子一分子、原子価0(ゼロ)の稀元素であり、無色無臭、沸点低く、化学的に不活性。
現代の芸術は、芸術そのものの自己否定からしか成立ちえないのだ。涙は失われた芸術の句点である。」(全集第22巻、446ページ)
最後の段落の「現代の芸術は、芸術そのものの自己否定からしか成立ちえない」といふ安部公房の考へを、『魔法のチョーク』の最後で、いや、その他のすべての作品に於いて、失踪や行方不明や、この世での主人公の死といふ形で、読者は見る事になります。
(2)時間
時間は『赤い繭』と同じ「夕食時」であり、昼と夜の時間の間(はざま)、時間の隙間です。
そして、いつもの安部公房の書き方らしく、生理的な感覚に訴へて読者に生々しい感覚を惹起します。ここでは、臭覚に訴求してをります。つまり、お腹が空いて「なんて鼻が敏感になつたんだろう」といふアルゴン君に「いつの間にか」なつてしまふのです。
(3)安部公房の家と存在の部屋
『赤い繭』で、無名の貧しい主人公は、家々の隙間を通る位相幾何学的な、従ひ変形へと通じる道をさ迷つて家々の窓を見上げて自分の家か否かを問ふて歩くのでした。これが、安部公房の家であり窓です。図に示して、次のやうに表す事にします。これを「安部公房の家」と呼びませう。
安部公房が子供の頃から玄関からではなく2階から入ることのある子供であつたこと、また仙川の家も箱根の仕事場の山荘も玄関といふべきものがないことは、前者は『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力』(もぐら通信第32号及び第33号)にて、後者は『安部公房の箱根の仕事場とご贔屓のレストラン「ブライト」を尋ねる~存在の部屋 と『もぐら日記』の中のレストラン~ 』(もぐら通信第49号)にて、お伝へした通りです。
安部公房は窓から入る。読者もまた窓から入る。入つてみませう。この部屋を「存在の部屋」と呼ぶ事にします。この部屋については、上記2つの論考のみならず、『もぐら感覚5:窓』(もぐら通信第3号)にても、窓との関係で論じてをりますので、これもお読みになると、存在の部屋と窓と、これらの言葉を巡る安部公房の存在概念がよくお分かりになる筈です。
上述の複数の論考に書きましたやうに、安部公房の存在の部屋には、家ならば玄関に当たる扉(ドア)がなく、窓しかありません。1946年、安部公房が引き揚げ船の中で起稿した『天使』の冒頭に描かれた存在の部屋を図示すると、次の通りになります。
さて、存在の部屋の中に、このやうに「既にして」存在してゐるアルゴン君は、存在を招来するために呪文を唱へなければなりません。さうしなければ、存在の部屋は存在の部屋にならないのです。
2。呪文を唱える。:名前の列挙と3度立て続けにする欠伸
そこで、アルゴン君は、次の呪文を唱へます。これらの動作はみな繰り返しである事にご注意下さい。呪文は繰り返しであるのです。例へば『砂の女』の第2章の冒頭が、次の呪文で始まるやうにです。この呪文で始まる第2章である故に、この章に於いて、砂の穴が存在の穴(存在の部屋と言つても同じです)になるのです。その象徴であるラジオが、穴の中にやつて来るといふ事実なのです。ラジオが穴の中にやつて来て、外部と内部が交換されて、その凹が存在になる。
「ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ
何の音?
鈴の音
ジャブ ジャブ ジャブ ジャブ
何の音?
鬼の声」
(全集第16巻、156ページ)
この砂の女の歌ふ(直接話法による)呪文と同様に、アルゴン君の呪文は(ここでは間接話法を使つて)、この物語の話者によつて、次のやうに唱へられてゐます。
「蒼い顔、額の皺、上ったり下ったりする喉仏、まがった背、くぼんだ腹、ふるえる膝頭。アルゴン君はポケットに両手をつっこみ臭い生あくびを三度たてつづけにした。」(全集第2巻、499ページ下段)
上の引用で「皺」、「上ったり下ったりする喉仏」、「ふるえる膝頭」、「臭い生あくびを三度たてつづけにした」ことは、みな繰り返しの呪文です。
また、かうしてみると、「蒼い顔」も、震えや、たらたらと垂れる脂汗や冷や汗やに通じてゐて、繰り返しの形象を連想させるといふことから、呪文になつてゐると考へることが出来ます。
そして、「まがった背」は、いつも私が書きますやうに、安部公房はバロックの作家ですから、バロックといふ語の語源が歪んだ真珠であるといふ通りに、物事を連続体(連続量)としてみれば、それは歪みであり(バロックの語源は此れに当たります)、非連続体(非連続量)としてみれば、それは隙間であり、共に総称すれば差異といふ事になりますので、「まがった背」は、連続体(連続量)としての歪みなのであり、「くぼんだ腹」は、確かに空腹によつてさうなりませうけれども、これは其の自然体の姿を装つて、明らかに、かうしてみれば、非連続体(非連続量)としての差異、即ち凹の隙間なのです。
これで、これらのすべての表現が、呪文となりました。
さて、これで、この空間は存在の部屋になりました。差異にあつて呪文を唱えれば、その空間は存在の部屋に変ずるのです。
アルゴン君の部屋が存在になつたからには、時間は捨象されて、純粋空間だけになり、時間は存在せず、超越論的な世界が現出します。そこで、3つ目のプロセスとして「存在を招来する」ことになります。
3。存在を招来する。:記憶喪失、自己喪失と引き換えに存在の部屋が現れる。部屋が存在の部屋になる。夜の部屋である。詩と詩人の部屋であり、もつと遡れば小学生の時の奉天の「クリヌクイ」の詩に歌われた部屋である。
そこで、アルゴン君は、「おや、なんだろう?」といふ時間の無い超越論的な問ひを心の中で立てて、記憶喪失の状態になつて「おぼえがないな」とつぶやき、またもや「赤いチョークを」(この赤い色は『赤い繭』の赤と同じく共産党の赤色でありませう)繰り返しの呪文として「指の間でなぶりながら」、「もう一度大きな生あくび」を呪文の駄目押しとしてしてから、次の段落で、無時間の空間の壁に向かつて超越論的に、
「 思わず、そして何げなく、アルゴン君はそのチョークで壁にいたずら書きはじめていた。」(全集第2巻、499ページ下段)(傍線筆者)
といふ事になるのです。
「赤いチョーク」が、「何か棒切れ」であるのは、チョークもまた、安部公房にとつては棒の一種であり、小説と戯曲の『棒』に登場する棒と同様に、謂はば「存在の棒」であるからです。としてみれば、前の号の「『赤い繭』論」でみたやうに、縄もまた「存在の縄」と云へませう。何故ならば、位相幾何学的に見れば、相違は硬いか柔らかいかの違ひだけで、棒も縄も同じ形、同じ性質のものであるからです。短編小説『なわ』の最後にあるやうに、「「なわ」は、「棒」とならんで、もっとも古い人間の「道具」 の一つだった」のであり、「「棒」は、悪い空間を遠ざけるために、「なわ」は、善い空間を引きよせるために、人類が発明した、最初の友達だった。「なわ」と「棒」は、人間のいるところならば、どこにでもい」るからなのです。(全集第12巻、253ページ)
悪い空間を遠ざけるために棒を使ふと、小説と戯曲の『棒』がさうであるやうに、自分自身が棒になり、善い空間を引きよせるために縄を使ふと、『赤い繭』がさうであるやうに、内部と外部が交換されて、自分自身が繭になる。チョークといふ棒を使つて、アルゴン君が結局壁になるやうに、さうして壁が上に述べたやうに超越論的な空間を創造する素材であるのであれば、それを食べたアルゴン君は当然に壁といふ存在になり、また『赤い繭』の主人公も、位相幾何学的に見れば縄は繭の糸も同然であれば、当然に存在の繭になるといふ訳です。
存在が二者択一の否定による第三の客観であることは、『詩と詩人(意識と無意識)』で詳細に、安部公房が論じてゐるところです。つまり、存在の棒や縄は、AでもなくBでもなく、善でもなく悪でもなく、第三の客観として存在するのです。繭も、また壁も、同様です。
さて、二つの作品に共通してゐることは、最後に、存在になつた主人公が、小説の『棒』の場合であれば、「誰かが私を踏んづけけ」て、「雨にぬれて、やわらかくなった地面の中に、私は半分ほどめりこんだ」のであり(『方舟さくら丸』にある通りに、地下世界もまた存在の世界。但し其処に隙間があり呪文を唱へたらといふ事ですけれど)、戯曲の『棒』の場合であれば、やはり存在の棒になるので、時間の流れる世界といふ交換関係の世界の外へと出る事になるので、主人公は、地獄の男が観客に向かつて話しかける通りに「罪なき人々」の一人になるのであり、従ひ「裁かれることもなければ、罰せられる気づかいもない」といふ(文字通りに)存在になるのです。(全集第22巻、397ページ)
これは、このまま芥川賞受賞作『S・カルマ氏の犯罪』の重要な動機(モチーフ)であり、最後に罰や裁きを超えて時間のない果てしなく成長する壁になることは、読者ご存知の通りです。以下、『S・カルマ氏の犯罪』から、交換関係といふ時間の中に生きて分化した社会的な役割を演じることと、存在の部屋にゐて無時間の純粋空間にあつて未分化のままにあることとの関係を歌つた詩を引用して、この事をお伝へします。
「すると、ロール・パン氏が悲痛な調子で詩の朗読をはじめました。
これがおまえの部屋でないというのなら
私は色鉛筆を食べて死んでもいい
一ダース百二十円の色鉛筆
半分食べれば確実という証明書つきのやつを
いっぺんに全部食べて死んでもいい
これがおまえの部屋でないというのなら
私は魚の骨を千本喉につきたてて死んでもいい
一匹百円の黒鯛を三匹
思う存分猫にしゃぶらせたかすを
いっぺんに全部飲込んで死んでもいい
しかしこれは確におまえの部屋なのだから
私は色鉛筆を食べなくてもいいのだ
黒鯛の骨も飲まなくいいのだ
私は合計四百二十円もうかった
しかしおまえだって別に損したわけではない
確にこれはおまえの部屋なのに
私は決しておまえから四百二十円もらおうなどと思わ
ないのだ
不思議なことだと思うかもしれないが
よく考えて見ればそうでもない
私は決して恩にきせたりはしないだろう」
(全集第2巻、435~436ページ)
存在の部屋の中にゐれば、時間は存在せず、空間だけですので、私は死ぬことはない。しかし存在の部屋の外へ一旦出ると、そこには時間が流れてをり、交換関係の中に入つて行かねばならず、従ひ、時間の中で私は死なねばならない。前者の私は存在の私であり、社会から見れば(時間の外にゐるのですから)およそ死者に等しく、後者の私は、存在の部屋を知つてゐながら、即ち存在としての私として時間のある社会の中に生きねばならない以上、死ぬ事を覚悟して生きる、いつ死んでも良い覚悟以って生きる、即ち死ぬ覚悟さへあれば、十代の安部公房の認識の至った「未分化の実存」となるのです。
前者の私と後者の私の関係が、すべての安部公房の作者と読者の関係であり(例えば三島由紀夫との対談『二十世紀の文学』の中の「作者の中の読者」、全集第20巻、79~83ページ)、私と私の関係であり、「私は私である。」といふ文の意味するところであり、この認識は、そのまま安部公房のハイデッガーの主著『存在と時間』に関する理解なのです。安部公房は、この哲学者の思想の理解を、ハイデッガーのリルケ論とヘルダーリン論に依つて得たのです。前者は『欠乏の時代の中の詩人』であり、後者は『ヘルダーリンと詩の本質』他の講演や論文です。安部公房のハイデッガー理解については、稿を改めて論じます。
ハイデッガーもまた20歳の時に安部公房の著した『詩と詩人(意識と無意識)』の思考論理の中に見事に収まつてゐるのです。
閑話休題。
さて、隙間である空間に存在が招来されて、その空間は存在の部屋になりました。
4。存在への立て札を立てる。:「明日の新聞」
次にアルゴン君の為すべきことは、存在への立て札を立てることです。
その目的は、冒頭に書きましたやうに、「主人公と読者のために、存在への方向を指し示す方向指示板たる立て札を存在の十字路(差異)に立て、または案内人か案内書を配し」て、さうするのです。
立て札を立てるまでの間に、アルゴン君は、存在の部屋の中で自己喪失と記憶喪失を繰り返します。小学生の安部公房の書いた「クリヌクイ」の詩の通りに、部屋の中は暗闇です。さうして、昼と夜の交代、覚醒と夢見ることの交代、チョークで描いた物の現実化と消滅の繰り返し、これらの繰り返しの間に挟まれる超越論的な、アルゴン君が存在と化するための契機が、次のやうに表されます。これらは皆、アルゴン君が、これらの交代と繰り返しの間、その隙間に、即ち存在に存在してゐること、即ち境界域にゐること、周辺飛行をしてゐることの表れです。
「次第に意識が暗闇の中にめりこみ」、「まさか……」、「気がつくと」、「……描きあげたと思うと同時に」、「……神様、私は睡くなりました。」(傍線筆者)、「ベッドからおっこちた……のではなかった。」、「まだもやにつつまれて明けきらぬ寂しい街」(傍線は原文傍点)、「再び夕暮時がちかづいた時」、「日没とともに」(全集第2巻、500~502ページ)
さて、これらの経験を積んで、主人公は「今ではこの魔法が太陽の光の前では無効であることが明瞭である」と知ることに至ります。この太陽の光を避けるために、アルゴン君は「窓をふさいで闇の中にとじこもろう」と「ふと思いつく」のです。(全集第2巻、503ページ上段)(傍線筆者)
さて、存在の部屋を暗闇にするために、アルゴン君はその材料を買い出しに行きますが、最後に新聞を買います。そして、新聞以外の材料で部屋の「扉をぴったり釘漬けにし、その上にラシャ紙二枚と毛布をはりつけ」て、「残りの材料で窓をふさぎ、縁を角材でとめて」密室を作ります(全集第2巻、503ページ下段)。
部屋の扉は釘を打つて閉ざしましたが、しかし、安部公房の部屋には窓が必要です。そこで、アルゴン君はチョークで部屋の壁に窓を描きますが、しかし「窓はいつまでも絵のままで、本物の窓にならない」のです。その理由をアルゴン君は、「その窓が(外)を持たないため、つまり窓として十分な条件を備えていないために、実体を獲得できないのでいるのだと気付」きます。
しかし、外部を描かうとしても、時間の流れてゐる、人の住む外部を思ひ描くことができません。何故ならば、
「この仕事は窓を窓にするためにする附属的な仕事じゃない。世界の創造に関わることなのだ。これの一筆が世界を決定するのだ、そんな偶然にまかせていいものだろうか?そうだ、うかつに窓に(外)を与えるようなことをしてはいけない。おれは、まだどんな人間も描いたことがないような絵を描かなければならないのだ。」と考えるからです。このために「もんもん」の一週間を過ごし、「酒と飽食」「狂気に似た絶望」を日いちにちと過ごして、「やけくその結果」、「窓に自分の手で(外)を与える責任からのがれるため」「壁にドアを描き、ドアの外によって(外)を決定しよう」として、実際にドアを描いて開かうとしますが、安部公房の部屋にドアはありませんので、「ドアの外」は「とにかく未知の」「ドアの外」なのであり、存在の部屋の窓からの出入りではありませんから、「そこには代償として死が待ちうけているかもしれぬではないか」と考へます。ドアを開けると、「見渡すかぎり地平線以外、影一つない」「恐ろしいような曠野がぎらぎら正午の太陽に輝いてい」るだけだつたのです。
「チョークは結局なんの解決にもならなかったの」です。
「やはりすべてをはじめから創らねばならないのだ」と思ひ直し、旧約聖書の創世記に書いてある通りに山や水や雲や草木や鳥や獣や魚を描いて、自らが創造神となつて、その「曠野に与えねばならぬのだ」、「それにもまして、再び世界を描かねばならぬのだ」と決心しますが、「次から次へと涙があふれて止まらなかった。」この「あふれて止まらなかった」多量の涙は、小説の最後に存在と化したアルゴン君のたつた一滴の涙となります。ここに作者の小説作法上の、対称性を用ゐた工夫があります。
さて、この時に、「ポケットの中でカサっと鳴るものが」ありました。それが、部屋を密閉するために買い出しに出た時に最後に買った「明日の新聞」です。さて、従ひ、この新聞が登場しますと、明日と今日の関係、今日と昨日の関係が、それぞれが1日といふ単位化された時間として無時間の単位となり、単位は無時間であり交換可能ですから、それらが互いに交換されて、今日は昨日の明日、今日は明日の昨日でありますから、この新聞は明日といふ昨日に今日配達され、また昨日といふ明日に今日配達されることになります。
その様子を次のプロセスで見て見ませう。
5。存在を荘厳(しょうごん)する。:「ポケットの中でカサっと鳴る」「最初の晩、買ったまま忘れていた」「明日の新聞」=超越論的な新聞=時間が存在しない空間を創造する=存在を荘厳する事
「ポケットの中でカサっと鳴」ったものは、「最初の晩、買ったまま忘れていた」「明日の新聞」でした。
そこに「半裸のミス・ニッポン」の写真があり、アルゴン君は此の女性の「ガラスの」肉体を見て、「激しい郷愁」を覚えます。
安部公房の詩も小説も、その最後に(リルケに学んだ)透明感覚が出てきます。この透明感覚が現れると、主人公は現実の世界での死を迎えることになります。例を挙げれば、『砂の女』の最後の濾過装置の水の透明感覚、『他人の顔』の最後の電話ボックス(のガラス)、即ち透明な箱、『燃えつきた地図』の最後の電話ボックス(のガラス)である透明な箱、『箱男』の最後の「じゅうぶんに確保」されてゐる余白と沈黙の「……」のある「落書きのための」透明な箱、『密会』の最後の(『砂の女』の最後と同じ)「コンクリートの壁から滲み出した水滴」(と「明日の新聞」)、『方舟さくら丸』の最後の手が透けて見え、景色も透けて見える透明感覚、『カンガルー・ノート』の最後の透明感覚を巡る会話(「君には見えているの?」/「見えていないと思う?」)[註1]
[註1]
安部公房の透明感覚については、『もぐら感覚7:透明感覚』(もぐら通信第5号)にて詳細に論じてをりますので、これをお読みください。
アルゴン君が「激しい郷愁」を覚えて、「ガラスの」肉体を見た以上、アルゴン君の死は確定したのです。そして、自分の死を代償にして、世界の復活と蘇生を祈り、存在たる壁の中へと、「激しい郷愁」を覚えて、消えて行くのです。それは、時間の流れてゐる現実世界から見れば、死。しかし、最後には、壁の中から「世界をつくりかえるのは、チョークではない」といふ呟きが聞こえ、「丁度絵になったアルゴン君の目のあたりから」「壁の上に一滴のしずくが湧き出した」のですから、存在になつた主人公は、(世間の現実の世界から見れば死者として)永遠に、しかし、生きてゐるのです。
神々しい美しい若者の自己犠牲としての死によつて宇宙が蘇生し脈動するといふ主題は、安部公房がリルケから学んだ主題です(例えば『ドィーノの悲歌』や『オルフェウスへのソネット』など)。
何故天地創造のための男性である主人公が、その半身である筈の女性であるイヴとしてのミス・ニッポンによつて、そして此のイヴが自ら魔法のチョークで壁に描いて現実化したピストルによって、殺されねばならないかといふと、現実の世界での性愛の交換を、もし時間の外にゐる存在たる主人公がすることになれば、この小説の結末にあるやうに、イヴによつて暴力的にドアを開扉されて時間が流れ込み光が射し込み、存在の部屋の闇が雲散霧消して、主人公は死ぬことになるからです。時間の中の性愛の交換はその度に死であることは、リルケもまた其の詩に繰り返し、詩人と乙女の遥かなる(性交不可能なる)距離として常に歌ひ、また決して交はることのない、永遠にまみえることの不可能な詩人(花婿)と花嫁としても歌ふところを見ればお判りでせう。[註2]
[註2]
このことは「リルケの『形象詩集』を読む」(もぐら通信第32号以降の連載)に詳細に論じてをりますので、これらの号をご覧ください。
このことは、イヴがアルゴン君に向かつて云ふ言葉と、それに答へるアルゴン君の言葉によく表れてをります。
「死……死をつくるの。世界をつくるには、まず物事のけじめが大事でしょう。」(原文は傍線は傍点)
「駄目だ。そりゃ終りだよ。およしよ。一番必要のないものだ。」
かうして、アルゴン君は、イヴによつて暴力的に開けられたドアより流れ入つた時間と光の中で死に、「死よりも強くなにものかが」「招いている」、やつて来ることを「強制している」当のものである壁に呼びかけられて、今や壁の素材で体が組成されたアルゴン君は、同じイヴとともに、その中に吸い込まれてしまひます。
後年安部公房が述懐して云ふ「現代の芸術は、芸術そのものの自己否定からしか成立ちえないのだ。涙は失われた芸術の句点である。」と此の作品について語る通りに[註3]、最後にはアルゴン君といふ藝術家は(ほかの全ての主人公と同様に)「芸術そのものの自己否定」によつて存在の壁になり、その目の辺りから流れる一滴の「涙は失われた芸術の句点」となるのです。何故ならば、句点とは、文の最後に打たれて、次の文との間にあり、二つの文の隙間にあつて、即ち存在の宿る此の余白に棲む「一原子一分子、原子価0(ゼロ)」の、即ち存在になつて無名となつたアルゴン君にほかならないからです。
[註3]
「覚え書ー『魔法のチョーク』」(全集第22巻、446ページ)
6。次の存在への立て札を立てる。:壁→この壁はそのまま『S・カルマ氏の犯罪』の最後の壁になる。果てしなく(時間の無い)垂直方向に成長する壁である。
さて、こうして、壁になつたアルゴン君が、いや、アルゴン君の消えて行つた壁が、次の存在への立て札となるのです。
この壁が其のまま『S・カルマ氏の犯罪』の主人公、S・カルマ氏の壁となるのです。
存在となることが、何故社会から見れば犯罪になるのか、何故原因なく裁かれねばならないのかは、上記「3。存在を招来する。」で、同作中のロール・パン氏が悲痛な調子で詩の朗読をするところでお話した通りです。
このことに関して未だ尚論ずべきは、安部公房の作者・読者論であり、主観・客観論であり、謂はば『僕の中の僕』論であり、『私は私である』論の構造、安部公房の『主語・述語』論の構造なのですが、これについては、安部公房のハイデッガー理解と併せて、稿を改めて論じます。安部公房の此の主観・客観論をご理解になれば、安部公房の作品を全てに亘つて一層楽しく理解することができるでせう。これは、結局「奉天の窓」[註4]の豊かさ、基礎的な概念の組み合わせの複雑さを単純に論ずることになるのです。
[註4]
「奉天の窓」については、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~』(もぐら通信第32号及び第33号)をお読み下さい。安部公房の文学の全体が解ります。
追記
最後に付記すべきことがあります。
それは、この『魔法のチョーク』の存在の部屋に関する考へ方と描き方は、安部公房スタジオの演技論として、安部公房が若い役者たちに1970年代を通じて教へたことと全く同じだといふことです。つまり、
存在の部屋の中には、『魔法のチョーク』の冒頭に「三メートル四方の小さな部屋に似合わず、ひろびろと見えるのは、壁ぎわによせて置かれた椅子が一つあるだけ、ほかになんにもなかったからで」あり、そして其の椅子に座つて凝然として動かぬ死刑直前の死刑囚がゐるのです。これがアルゴン君であり、そのほかの作品の安部公房の主人公にとつての理想の人間の姿なのです。
この存在の部屋にこのやうにゐることが、安部公房の演技概念である「ニュートラル」の状態に、その役者がゐることなのです。以下『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~』(もぐら通信第33号)より引用します。
『魔法のチョーク』に関する以上の説明をお読みになれば、「ニュートラル」といふ演技概念も全く同様に其のまま理解することができる筈です。アルゴン君は、存在自体になつたのです。[註5]
「7。安部公房のニュートラルという概念
安部公房は、ニュートラルという概念について、次の文章を書いております(全集第24巻、146~147ページ)。以上述べ来たった奉天の数学的な窓を念頭においてお読みになると、安部公房の言っている言葉は少しも難しくないことがお判りでしょう。(強調赤文字は筆者。傍線は原文は傍点)
「 演技におけるニュートラルという概念は、ぼくが思いついて命名したもので、かならずしも一般的なものではない。それだけに、誤解の可能性も大きいので、今回は多少こまかくその定義づけをしてみよう。
前回であげた例題---聞こえている多数の音の中から、比較的聞き分けやすく、持続的な音を選び出し、それに集中することで、他の感覚を排除する(読者もこの場で、ぜひ一度こころみていただきたい)---は、ニュートラルの重要な原型の一つはあるが、すべてではない。比喩的に言えば、ニュートラルにおけるゼロの状態、もしくは、ゼロのニュートラルにすぎないのである。
この、ゼロのニュートラルを基点にして、無数のニュートラルの変形が存在する。
だが、その説明に入る前に、演技---肉体表現---の意味や構造をさぐるに当たって、なぜぼくがニュートラルという概念をとくに必要としたのか、まずその理由から説明しておく必要があるだろう。
たとえば、次のような情景を思い浮かべていただきたい。開幕を告げる二ベルが鳴る。客席の明かりが消え、期待と疑惑が入り混じった、多少意地の悪い静寂が劇場を包み込む。そっけない音をたてて幕が上がる。舞台は空白で、あいまいな光がその全景を平板に照らし出している。その中央に、なんの特徴もない木の椅子が一つおかれている。俳優がひとり、ぽつねんと掛けている。刻々と時間が過ぎていく。こういうときの時間は、一秒が十秒にも感じられるものだ。俳優は無言である。無言であるばかりか、動こうともしない。身じろぎもせず、ただじっと坐りつづけている......
さて、一般的には、これほど退屈な場面もないだろう。退屈の見本とさえ言えるかもしれない。
(略)
もっとも、そのための演技力は、いわゆる名優による名演技とは、あまり関係のないものだ。前にも書いたことだが、俳優が自分の想像のなかで描いた理想の演技をなぞったり、再現したりするほど、無意味なことはない。いわゆる名優の名演技にしばしば伴う陳腐さは、もっぱらその手の自己模倣のせいなのだ。誤解を覚悟のうえで、あえて極端な例をひいてみよう。たとえば、処刑十分前の死刑囚の独房を、秘密の覗き穴からのぞく機会を得たとして、君はその十分間を決して長くは感じないはずである。たぶん、いくら眺めつづけていても、見飽きることはないだろう。しかし、その同じ設定を俳優が舞台で演じた場合、はたして十分間の凝視に耐えうるだろうか。つまり、ぼくが問題にしているのは、俳優の上手、下手ではなく、この死刑囚と俳優の間にはだかっているあまりにも深い溝のことなのである。
むろん、俳優が死刑囚になり切ることは不可能だし、また必要なことでもない。見る側の要求にも当然違いがある。俳優に求められているのは、あくまでも演技としての表現だし、死刑囚が見る者をとらえて離さないのは、その存在自体であって、表現ではない。にもかかわらず、共通しあうものがあるのも確かなのだ。ともかく、そこにそのように存在しているということ。さらに、そのことによって、見る者を捉え、その日常から引離し、目撃ちおう体験の中で、相手に自己の再創造を強制するという点なのである。
言いかえれば、俳優に必要なのは、雄弁術ではなく、存在術だということだ。すでに何度か繰返したことだが、意味や筋書の運搬人(説明役)としてだけでなく、その瞬間々々における状況との関係自体を、(ちょうど死刑囚のように)表現として自立させることが大事なのである。少なくも、演劇が---したがって俳優が---現代の観客の要求にこたえて生きのびていくためには、欠かすことの出来ない条件であるはずだ。
ニュートラルというのは、要するに、存在自体が表現として成立つための、基本条件なのである。
(略)
例題
心理的に、怒り、あるいは恐怖として表現されるものの、生理的対応点をさがせ。極端な生理反応においても、ニュートラルの原則はそのまま適用される。ある生理的集中の方向をつかみ、それを多少変形させることによって、怒りと恐怖の、かなりの部分が(心理を介さずに)表現できるはずである。」(傍線は原文傍点。強調文字は筆者)(『再び肉体表現における、ニュートラルなものの持つ意味について。ー周辺飛行18』全集第24巻、146~147ページ
この最後の例題の「方向」という言葉を目にすると、この役者への例題はこのまま、安部公房が書斎の中で全く孤独に執筆して、安部公房独特の文体を創造するための例題だと言っても同じだと思われます。つまり、安部公房自身が、その交点に存在して執筆するわけですから。そうして、そのことが、リルケに学んだ自己喪失という行為の実践であることは、これまでも私の諸論で繰り返し述べたところです。[註12]
[註12]
この俳優への存在術としての「方向」と「変形」と自己喪失、即ち存在と化することは、すでに19歳の安部公房がリルケに学び、その『マルテの手記』を読んで自得した詩の骨法なのです。『〈僕は今こうやって〉』と題したエッセイに、次の言葉があります。傍線筆者。
「 僕はマルテこそ一つの方向だと思っている。マルテが生とどんな関係を持つか等と云うことはもう殆ど問題ではないのだ。マルテの手記は外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記なのだ。マルテは形を持たない全体だ。マルテは誰と対立する事も無いだろう。
例えば、ヘルデルリーンをマルテと比較する事が出来るであろうか。それは不可能な事に異いない。第一マルテは方法なのだし、ヘルデルリーンは素材なのだ。これを一緒にして考える事等出来るだろうか。」(全集第1巻、89ページ下段)
これは、安部公房が方向という言葉を使うとき、それは時間を一元の直線的な時間では考えているのではないことを意味しています。この方向という言葉と安部公房が若い時に道と呼んだ(例えば『問題下降に拠る肯定の批判』で18歳の安部公房の提出した遊歩場という道。全集第1巻、12~13ページ)と、そして時間の関係をどのように考えていたかの一端は、『株の道と安部公房の道』と題して、もぐら通信第24号で論じましたのでお読みください。
(以下略)」
[註5]
この「存在自体」について、またこの言葉で言ひ表してゐることが、どんなに金山時夫の死に直結してをり、その死に起因してゐるかを、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~』(もぐら通信第33号)(もぐら通信第33号)によつてお読み下さい。
「『終りし道の標べに』:
この表紙裏にある言葉、亡き金山時夫への鎮魂の献辞は、やはり自己と金山時夫との差異についての言葉で始められていることに、改めて、気づきます。
「亡き友金山時夫に
何故そうしつように故郷を拒んだのだ。
僕だけが帰って来たことさえ君は拒むだろうか。
そんなにも愛されることを拒み客死せねばならなかった君に、
記念碑を建てようとすることはそれ自身君を殺した理由につな
がるのかも知れぬが......。」
これは未分化の実存(性の分化しない年齢)である時代からの親友の死と自己の生の差異を書いた鎮魂の献辞ですから、その差異を埋めるための安部公房の感情は、鎮魂の、弔(とむら)いの感情ということができます。
この鎮魂と弔意の感情は、この後の小説の冒頭の全てに立ち現れていると理解することができます。中埜肇に当時金山時夫の訃報に接した安部公房は、高校時代以来の親しい友人、高谷治に次のように書いています。
「 尚ほ、今の計画としては、金山の伝記を書き度いと思つてゐる。これは容易な仕事ではない。詩であつてもならないし、伝説であつてもならない。やはり、悩み、生き、そして最后に、存在に対決する為に、永遠の孤独に消えて行つて、人知れず夜の中に潜入して、悲しみでもない悦びでもない歌を信じながら死んで行つた一人の友を、此処で再び永遠に生かさねばならないのだとしたら......」(『高谷治宛書簡』全集第29巻、277ページ)
ここに書いてある23歳の安部公房の思い、親友への鎮魂と弔いの念は、この処女作も含み、遺作『飛ぶ男』と『さまざまな父』までの全ての著作に及んでいます。何故ならば、これらの作品の主人公は皆「存在の中に姿を消した」主人公、即ち金山時夫であるからです。
更に、何故ならば、安部公房の造形する主人公たちは皆、「やはり、悩み、生き、そして最后に、存在に対決する為に、永遠の孤独に消えて行つて、人知れず夜の中に潜入して、悲しみでもない悦びでもない歌を信じながら死んで行つた一人の友」であるからです。
そうして、この鎮魂と弔いの念は、この「一人の友を、此処で再び永遠に生かさねばならないのだとしたら」一体どういう「詩であつてもならないし、伝説であつてもならない」そのような散文を書くべきかという問いに答えることを安部公房に要求し、そうして安部公房は、その死者を「此処で再び永遠に生かさねばならない」という鎮魂と弔いのこころで、作品を書いたからです。
従い、このように、安部公房は、その物語の最初に死者を蘇生させ、復活させ、その物語の空間に呼び出し、招来するための差異という数学的な認識に裏打ちされた呪文をまづ唱えてから話を始めるというこの儀式を誰にも、読者にも知られぬように姿を隠して唱えている透明なるシャーマンなのです。
『終りし道の標べに』の表紙裏にある言葉、亡き金山時夫への鎮魂の献辞は、この奉天の親友の霊魂を呼び出す、実は呪文であったのです。
安部公房の語り批判するシャーマンは、公共の儀式の場では、祖国の詩を歌いますが(『シャーマンは祖国を歌う』全集第28巻、229ページ)、他方、実はシャーマンである安部公房自身は、認識された差異に在る存在を歌うことによって、死者と其の霊魂を招来して、神話の世界である存在を、やはり詩として歌うのです。[註37]
かうしてみますと、安部公房は、実は隠れたシャーマンなのです。
シャーマンですから、安部公房は、古代的な感覚を持った人間であり、古代的な感覚を持った存在であるといっていいでしょう。『カンガルー・ノート』に至って、遂に賽の河原の歌が登場することは、少しも不思議ではないのです。賽の河原で御詠歌を歌う子供たちは、『終りし道の標べに』の表紙裏にある言葉、奉天以来の親友であり子供である亡き金山時夫への鎮魂の献辞と同じこころで歌われているからです。見事に、処女作と最後の作品が照応しております。従い、この間にあるすべての作品も、同じこころで書かれたと理解することができます。」
また、1946年12月23日付で成城高校時代に親しく哲学談義をした友、中埜肇宛に次のやうに語つてゐます。安部公房は存在自体になりたかつたのです。
「 詩人、若しくは作家として生きる事は、やはり僕には宿命的なものです。ペンを捨てゝ生きると言ふ事は、恐らく僕を無意味な狂人に了らせはしまいかと思ひます。勿論、僕自身としては、どんな生き方をしても、完全な存在自体――愚かな表現ですけれど――であれば良いのですが、唯その為に、僕としては、仕事として制作といふ事が必要なのです。これが僕の仕事であり労働です。」(『中埜肇宛書簡第8信』全集第1巻、188ページ)
追記2
以上の論考を更に註を付して明細にしたものを、もぐら通信第52号に掲載しましたので、これをごらんください。当時の安部公房が如何様に詩人から小説家に変貌したか、その努力の跡を知ることができます。