安部公房の読者ための村上春樹論:「奉天の窓」から村上春樹の暗号を解読する(2)
今明後日の三島由紀夫の読者会での発表のために、「卵をめぐる冒険~三島由紀夫の卵と村上春樹の卵~」と題したメモを書いてゐるのですが、大変興味ふかい、面白いことに気がつきました。
それは次のことです。
1。卵といふ言葉が出てくると、その前後に必ず記憶の喪失があり、その後の覚醒がある。あるいは、この順序が逆であるにせよ、記憶の喪失と覚醒に関係した話が始まるということ、即ち、時間が逆流するのです。これが一つ、
2。二つ目には、上の1の文脈で、処女作「風の歌を聴け」の第10章の最後が、(多崎つくるの物語での沙羅やうに「年上の女」とたまたまにジェイズ・バーのカウンターで一緒に言葉を交はすことになり(そこまでの経緯は勿論、baseball gameの中継をTVで放送してゐて、女が便所に立つ回数も全てbaseball gameの規則通りに進展するわけですが)、「良い時代」だった「60年代ごろ」の話をいふ其の女と別れてジェイズ・バーを出てから「家に帰る途中、ずっと口笛を吹いていた」主人公が「ずっと昔の唄だ」と思って、記憶の中から思い出す歌が、この章の最後に一行でてきます。
この歌はディズニーランドでの夜の催事の行進曲で歌われる(明るい昼ではなく夜に歌われるといふ事が肝要)「ミッキー・マウス・クラブの歌」と呼ばれてゐて、英語の正式名称は”Micky Mouse Club March”であるにもかかわらず、村上春樹は意図的に此の題名を変えて、それは丁度此の作品全体の最後に意図的に自分のためにニーチェの一行をそれらしく模作したやうに、次のやうに英語で書くのです。そして読者は国の内外を問はず、騙される。主人公の思ひ出した其の歌は、
「みんなの楽しい合言葉、
MIC・KEY・MOUSE(エムアイシー・ケーイーワイ・エムオー
ユーエスイー)
確かに良い時代だったのかもしれない。」
といふ暗号の歌なのです。
確かに「職業としての小説家」に語るやうに、この文章を書く作者は楽しい、読者も楽しい、そして読者は騙される。何故ならば、作者の書いた暗号に気づかないから。その暗号とは、
MIC、KEYはMOUSEだよ。MOUSEはKEYなんだよ。KEY-MOUSEは、MICだよ、MICは、KEY-MOUSEのKEYを知つてゐるんだよ、これは、みんなの楽しい合言葉さ。
「確かに良い時代だったのかもしれない。」こんな暗号化ができるのだから。
MICよ、鼠が鍵だよ。鼠は鍵なんだよ。鍵を持つてゐる鼠は、MICだよ。MICは、鍵鼠の鍵を知つてゐるんだよ、これは、みんなの楽しい合言葉さ。エムアイシー・ケーイーワイ・エムオーユーエスイー。
さて、この鼠は、いふまでもなく、ジェイズ・バーでだけ(と云つても良いでせう)出会ふ鼠です。
それでは、MICは?
ここにも、baseball gameが旧約聖書の贋の創世記のgameであることを見抜き、baseball game stadiumが贋の方舟であることを見抜いてゐて、読者には決して此れを伝へない村上春樹がゐます。
今Webster Onlineを引くと、MICとは、旧約聖書の中に登場するMicahといふ、預言者の一人である名前の略称通称です。この預言者がどのやうな役割を旧約聖書の世界で果たしたのかを知れば、預言者としての鼠の役割もまた、私たちは知る事ができるでせう。
さう、この預言者のMicahは、日本語の表記ではミカと呼ばれてゐて、鼠の書いてゐる小説は、実は此の預言の書であるのです。旧約聖書のミカは「ミカ書」を著した。さて、さうして、鼠の書く小説といふ名前の預言者の書の「優れた点が二つある。まずセックス・シーンの無いことと、それから一人も人が死なない事だ」と主人公に言はれる、そのやうな小説または予言の書を書いてゐる。何故この二つの無い、それが書物であるのかは、鼠がミカであることから自明です。あるいはまた、ミカが作者の、またネズミの、愛する女性であるならば、作中で其のやうな振る舞ひに及ぶことは書くことができない。つまり、
鼠はミカである。
既に鼠は村上春樹であることを、私は諸処に書きましたが、同時に(同時にとは何か?です)、鼠はミカといふ預言者であつた。しかし、普通の日本語でミカとカタカナで書けば、聖書の世界に生きない私たちにとって、それは女性の名前に他なりません。
恐らく、これが、『ノルウエーの森』に出てくる学生寮である阿美寮の、阿吽の阿といふ宇宙の始めといふ意味の言葉と美といふ文字で構成される、the first beautyと暗号化された女性の本名でありませう。このthe first beautyの寮に住む男たちの、少し大袈裟に言へば、謂はば春秋が描かれてゐるのが、『ノルウエーの森』といふ小説なのです。
この名前の元に、また下に、全ての人間が、現実の虚構、虚構の現実の中に、生きてゐる。ここでは、封印作の冒頭にある二行「お客さん、列車が来ましたよ!/そして次の瞬間、ことばは死んでいる」事は(封印作『街と、その不確かな壁』)、決して無いのです。即ち、村上春樹の言葉は、現実の虚構、虚構の現実の中に、生きてゐる。
読者は時間の中で村上春樹の死者の「ことば」を、生きた「言語」として読み、村上春樹は、この二つの種類の言葉を読者のために、読者が地上と地下の世界を互ひに往還する事ができるようにして小説といふ虚構の物語を書く。村上春樹は「言語」生者(『職業としての小説家』)の、「ことば」を死者の(『街と、その不確かな壁』)、それぞれの言葉だとして文字によつて書き分けてをります。
既に諸処で論じたやうに、二者の関係は、換喩であり、この二つの世界は、小説の中でも、また現実の中でも、隣接関係にだけあつて、作者と読者は正解しあふ事はなく、さう意味では誤解しあふ以外には無い。これが、今までの村上春樹の文学の世界です。アンデルセン文学賞を受賞した後には、その受賞スピーチに言はれたことを信ずれば、この後に変はる事があるかも知れませんけれど。
既に諸処で論じたやうに、二者の関係は、換喩であり、この二つの世界は、小説の中でも、また現実の中でも、隣接関係にだけあつて、作者と読者は正解しあふ事はなく、さう意味では誤解しあふ以外には無い。これが、今までの村上春樹の文学の世界です。アンデルセン文学賞を受賞した後には、その受賞スピーチに言はれたことを信ずれば、この後に変はる事があるかも知れませんけれど。
閑話休題。
鼠は僕であり、ミカである。
恐らく、この女性が、十代の村上春樹が本当に愛し、そして喪失した、肌の色の白い、そして水の中に入水して自殺をした、美しい女性の名前であるのでありませう。「ノルウエーの森」では、「奇妙な」時間と空間に存在する庭に現れる「かもめ」(と主人公によつて名付けられる猫)として、繰り返しまたそのほかの作品では白い色と関係して呼ばれる全ての女性たちの、これが喪はれた本名なのです。
この「僕=鼠=ミカ」の方程式を、如何に変形させて、より高次の代数的な方程式にするかに腐心し苦心したか、即ち文法的には人称と話法の問題の解決に如何に心を砕き精進したか、その間8年がかかつてやつと書簡の形式を導入することによつて二人称の呼称を登場させることに成功した『ノルウエーの森』に至つたかといふ事は、作者が『職業としての小説家』に書いてゐる通りです。
一流の作家のテキスト(texts)を読む事は、暗号を解読することに他ならないといふ感慨を深くします。何故ならば、私の解読したHart Craneといふアメリカの男色詩人の世界でも、安部公房の世界でも、また三島由紀夫の世界でも、結局考へてみれば、私のして来た事は、暗号の解読であつたからです。
このやうに文字を使つてテキストを暗号化する藝術の世界の人間をなんと呼ぶのでせうか。
それは、詩人です。
この意義に於いて、村上春樹がアンデルセン文学賞受賞のスピーチで、アンデルセンの小品『影』を取り上げて、やはり村上春樹の常ながら作中の本質的な役割を果たす女性の名前は隠して決して口にしなかつたけれども、この女性の名前は作品を読めば読者に冒頭に直ちに明らかなやうに、女性であつて、poetry(詩)と呼ばれ、更には女性であれば、ヨーロッパの文藝の歴史の文脈(context)の中で読めば、これが詩の女神であり、Museである事は、多崎つくるの後の、現在執筆中の作品の展開に大きな意味を持つてゐるでありませう。何故ならば、作者自身が、登壇して、初期の、読者からみれば魅力的な叙情のある、作品に回帰するといつてゐるからです。自分も年をとつたのだと云ひながら。
「みんなの楽しい合言葉、
MIC・KEY・MOUSE(エムアイシー・ケーイーワイ・エムオーユーエスイー)
確かに良い時代だったのかもしれない。」
「確かに良い時代だったのかもしれない」時代に回帰しようといふのです、村上春樹は。
MICはKEYなんだよ、KEY MOUSEなんだよ、MOUSEはKEYなんだよ、だから「MIC・KEY・MOUSE(エムアイシー・ケーイーワイ・エムオーユーエスイー)なんだよ、多崎つくるの物語の4人の仲間の、これは「みんなの合言葉」なんだよ、だからシロといふMICは密室で死んだんだよ、密室といふ時間の存在しない閉鎖空間の中で。
と、安部公房ならば、さう云ふことでせう。
三島由紀夫ならば『鍵のかかる部屋』で内側から自分で鍵を掛けて殺されたんだよ、と云ふことでせう。
と、安部公房ならば、さう云ふことでせう。
三島由紀夫ならば『鍵のかかる部屋』で内側から自分で鍵を掛けて殺されたんだよ、と云ふことでせう。
わたしならば、次回作は、MICといふ預言者であつて、「僕=鼠=ミカ」である以上、両性を往来することのできる男性か女性かが、しかし多分やはり女性が、密室である世界の外へと脱出して、浦島太郎と乙姫さまの(現代の人々にはほとんど忘れられてゐる)結末のやうに、蓬莱山といふ無時間の高い山の上、超越論的な高地で、二人でめでたく暮らしましたとさ、めでたしめでたし、と云ふことでせう。
追記
今、以上のことを読解した上で、処女作『風の歌を聴け』を読み直しますと、このミカといふ白い肌の美しい白鼠の女性は、どこかの土地の高台に家のある医者の娘さんでありませう。かう考へてみれば、白い肌の女性の病を得てにせよ何にせよ理由はともかくとして、何故MICはいつも高地へゆき、または高地にゐるのかの、その理由を知ることになるのではないでせうか。
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