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2016年11月15日火曜日

何故『砂の女』の主人公の年齢の記述に差異があるのか?

何故『砂の女』の主人公の年齢の記述に差異があるのか?

もぐら通信第51号「埴谷雄高『安部公房のこと』解題 」より、何故名作『砂の女』の主人公仁木順平の年齢の記述に差異があるのかといふ解題の一部を引用して、読者にお伝へします。

この解題の此の箇所の文脈を理解してもらふ為に、安部公房の仮説設定の文学の意義についてのところから引用を始めます。少し長いかもしれませんがお読みください。

埴谷雄高が『安部公房のこと』で出逢つた当時を回想して、安部公房の確立した独自の方法論について、次のやうに云つてゐます。

「「私は思ふが、このやうな首尾一貫した方法論を吾國で確立することはそれ自身すでにひとつの價値であつて、劃期的な出來事である。」

この、安部公房についての回想文で判る事は、次のことである。

「存在感覚とでもいふべきものが正面から扱」うことができ、「かういつた領域を自己の 問題として担ふ作家は、一方では、 

(1)恐ろしい極限までへの凝視に耐へてゐる論理の徹底性と、他方では、
(2)殆ど思ひがけぬ角度から事物の核心に突入する感覚の鋭角性との
(3)「二つを緊密に結びあはせてゐるその作家独自の方法論をもつてゐなければならな
い」

と云うことである。 」

「私は思ふが、このやうな首尾一貫した方法論を吾國で確立することはそれ自身すでにひ とつの價値であつて、劃期的な出來事である。」といふ埴谷雄高の言葉に関係して、以前も ぐら通信に掲載を致しました田中美代子さんの『匿名の神話ー安部公房試論 』(もぐら通 信第31号)に、この三島由紀夫の世界の著名な批評家が安部公房を論じ、そこで福田恆 存の、日本文学は「文学概念の発見と確立」に「いまだに出発点にすら到達してゐない」といふ言葉を引用して鋭く指摘してゐる日本文学の欠陥について、私が思つたことを書いた『夏 目漱石と安部公房 ~日本文学史上の安部公房の位置について~』(もぐら通信第31号) より引用してお伝へします。

安部公房は、「「福田恆存の言葉で言えば、安部公房は「全活動をあげて、ひとつの文学 概念の発見と確立に努力し」たのです。そうして、わたしの眼には、安部公房は、このこと に十分過ぎる位に成功したと思います。 

仮説設定の文学という「文学概念の発見と確立」、そして、「いまだに出発点にすら到達してゐないので」は全然なく、敗戦後の時代の中を生きながら、その文学概念から何度も出発をし、そうして其の度に、あの大好きだつたリルケの『秋』という詩に歌われた唯一者 (神) の両手の窪みに帰還を繰り返して、「伝統への郷愁」などなく(こう書いていても、何という厳しい生活であることでしょう)、「ひとつの伝統の展開」、それも陰画としての「伝統の展開」を行つたということになるからです。 

それも、田中美代子さんのご指摘通りに「自己と外界との関係を逆転させる一種の悪意、 これはもともと西欧的なメトーデではある」其の内部と外部の交換という、19歳のときにリルケに学んで開眼した方法(メトーデ)によつて、そのことを実現したのです(『〈僕は今こ うやつて〉』。全集第1巻、88ページ~89ページ)。

この安部公房の、明治以来の日本文学の成し得なかつた「文学概念の発見と確立」と「「自 己と外界との関係を逆転させる一種の悪意、これはもともと西欧的なメトーデではある」 其の内部と外部の交換という、19歳のときにリルケに学んで開眼した方法(メトーデ)」は、 日本の文学史上に安部公房の齎(もたら)した意義であり、素晴らしい達成なのです。 

この、安部公房の達成した日本文学史上の確固たる地位と素晴らしい業績を、わたしたちは、 安部公房にとつてのリルケの意義(それは、このように其のまま日本文学史上の意義で す) と共に、発掘し、顕彰しなければならないのです。 

この故に、そして此のことを考えることを抜きにして、安部公房を先の戦争後の時代の中で だけ考えようとすると、それが断片的で全体を論ずることが不可能になり、従い、安部公 房の作品は人の耳目を惹きつけること甚だ多いにも拘らず、このような俯瞰した視点から読 者自身によつて真に理解されることが甚だ少なく、また安部公房を論じることに至ると、 辛辣な言い方でありますが、敢えて言えば、群盲象を撫でるということになるのです。安部 公房は、小説論、演技論・演劇論、写真論については、安部公房全集の諸処に於いて、率直 に隠すことなく自分の意見を述べているにも拘らず。但し、この方法(メトーデ)を教わつたリルケのことについて以外は。」 

安部公房独自の方法論が、位相幾何学と、この数学と表裏一体の言語機能論であること、 さうして存在といふ概念を巡る文法的にも正確な論理[註6]に依ることは、既にもぐら通信の諸処で述べて来た通りです。 

「日本共産党員になつてまで、乗り越え超克すべきものとしてあるマルクス主義を[註7]、 自分の言語論の正しさを証明し、実証するために命を掛けた安部公房であつてみれば、も し上の段落で挙げた方法論に関する思想をどれか一つに絞れと言はれたら、安部公房独自 の方法論は言語機能論だと断言しても、断言し過ぎることはありません。[註8]もしさう 言はなければ、やはり位相幾何学(topology)といふ事になるでせう。しかし、安部公房 の言語機能論はtopologyを含んでをりますので、このままで良いと、私は考へます。 

言語機能論とは、言葉には意味はなく、言葉が意味であるならば、それは関係に、即ち差 異に生じ、即ち意味とは差異なのであり、差異のそれぞれの値を上位接続して一つに統合するのが其の働き(機能)であるといふ考へ方です。(安部公房はよく言語を二次元の円形を 積分すれば三次元のチューブになることを以って言語の本質(関係)を説明してゐます。) 言ひ換へれば、言葉の意味は使ひ方、即ちcontext、文脈によつて成り立つといふ至極真つ当な考へ方です。 

この考へを安部公房は作品の隅々にまで及ぼしました。

有名な一例であるべき筈のものを、誰もが無名の例のままに54年間放置して来た名作『砂 の女』の主人公仁木順平の年齢の意味について語つて、この例を、今ここで、有名の例とい たします。

『砂の女』のWikipediaには、次のやうにあります。 

「年齢は、本文中、「仁木順平、三十一歳」と書かれているが、最後の「催告」と「審判 書」では、「昭和2年3月7日生」(1927年3月7日生)となつており、失踪時の昭和30年 (1955年)8月には28歳に当り、矛盾している。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/砂の女

これは少しも「矛盾」ではなく、誠に全ての安部公房の主人公たちと同様に、年齢の差異とい ふ此のの時間の差異に生きる仁木順平が存在の男であることを示してゐるのです。勿論、砂 の穴といふ迷宮の神話の世界、即ち時間の存在しない存在への案内人は、他の安部公房の 全ての作品がさうであるやうに、あの「とり逃してしまつた」といふ一度失はれた、即ち予 (あらかじ)め失われたニワハンミョウであることは、読者周知の通りです。 

この「年齢は、本文中、「仁木順平、三十一歳」と書かれているが、」「「昭和2年3月7日 生」(1927年3月7日生)となつており、失踪時の昭和30年(1955年)8月には28歳に当」 るといふ此のテキスト上の事実は、『第四間氷期』の予言計算機や戯曲『友達』や『密会』 その他の作品に最後に登場する「明日の新聞」と同じ思想、即ち超越論であることが解ります。何故ならば、話は結末に至つてみれば、実は過去といふ未来に始まつてをり、未来と いふ過去に終わつてゐるからです。即ち、今日は昨日の明日、今日は明日の昨日といふ時間 の単位の交換によつて、(即ち始めが終わりに、終わりが始めに回帰するといふtopology といふ位相に関する幾何学によつて)、年齢の時差といふ時間の差異と、砂の穴の凹とい ふ形象の窪地の空間の陰画の差異に主人公の男を置いて、安部公房は此の小説を書いたのです。 [註9] 

安部公房の世界認識は、言葉の意味とは差異であり、従ひ、世界は差異である、といふものです。 

この世界認識は、そのまま安部公房の苛烈な自己認識です。 

この苛烈な自己認識を、安部公房が安部公房スタジオの若い俳優たちに「自分の墓を暴け!」と教へたことを、当時スタジオの俳優であつた御一人から聞いて知ることがありました。

このバロック的な苛烈な自己認識に基づく安部公房の奉天体験と小説作法については、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する~安部公房の数学的能力について~』(もぐら通信第 32号及び第33号)に詳述しましたので、これをお読みください。或ひは、今月号の「『赤い繭』論」をお読み下さつても結構です。 


[註6]
安部公房の存在概念については、あちこちで述べて参りまいたが、一番まとめて論じたものが、『存在とは何か~安部公房をより良く理解するために~』(もぐら通信第41号から第44号及びそれ以降の号の連載)をお読み下さい。Topolotyと存在概念も含め、詳細に論じてあります。 

[註7] 中埜肇宛の書簡で安部公房はマルクス主義に惹かれる自分についてかう語つてゐます。 

「マルクスシズムはぼくのアンチテーゼではなく、ぼくの超えるべきものであるやうに思はれます。」(『中 埜肇宛書簡第17信』全集第2巻、333ページ。1950年4月20日付) 

[註8] 
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より引用して、何故安部公房は日本共産党に入党したか、その目的をお話しします。 

「何故安部公房は日本共産党に入党したのでしょうか。1950年代の文章を読むと、日本共産党の党員になつた動機と目的は、次の4つが挙げられます。 

(1)典型的な人間としての詩人の意識と無意識の個人の在り方を、社会と人間の抑圧と被抑圧の関係にまで拡張 して考えたこと。
 『詩と詩人(意識と無意識)』(全集第1巻、104ページ)で確立した人間の典型としての詩人の意識と無意識の境 域に在るその意識・無意識の在り方を、社会と人間の抑圧と被抑圧の関係にまで拡張して考えたこと。『シュー ルレアリスム批判』(全集第2巻、260ページ)と、もぐら通信第15号の『安部公房の変形能力14:シュールレア リズム』を参照下さい。 

(2)生という混沌たる現実の背後に法則を見つけようとしたこと。 『文学における理論と実践』(全集第4巻、314ページ。1954年6月30日) 

(3)言語の観点から、文学における理論と実践の統合を考えた事 『文学における理論と実践』(全集第4巻、314 ページ。1954年6月30日)。これは、 (2)と表裏一体の関係にあります。 大変興味深いことは、このエッセイで、 この時点でマルクス主義に決別することを考え、同時にそのことに迷い、悩みながら書いた『文学における 理論と実践』で引用するレーニンとマル クスとスターリンの言葉は、みな言語に関するものであり、言語の 観点からのものであることからも、安部公房は、共産党に対しても、その言語観の証明と実現のために接近し、急激に左 傾化して、その党員となつたということが判ります。 

同じ考え、すなわち言語の側から考えるということは、『文学理論の確立のために』でも述べられています(全 集第3巻、229ページ、1952年6月10日)。 

(4)日本の国に、言語の側から、革命を起こしたいと思つたこと 『〈人物カルテ〉『社会新報』の談話記事』(全 集第15巻、480ページ、1962年3 月11日)。 また、『偶然の神話から歴史への復帰』(全集第2巻、337ページ。195 0年8月)参照。 池田龍雄の『詩的発明 家---安部公房』(『安部公房を語る』、あさひかわ社、144ページ) によれば、安部公房は、この言語の側から の革命のシナリオを思い描き、革命が1957年 に起きると本気で、そう考え、思い込んでおりました。 [註23] 安部公房がこのことを池 田龍雄に暗い小声で話したのは、間違いなく1955年2月25日以前の時点です。 

つまり、以上4つのことを一言で言うと、言語の観点から現実を捉えようとしたということ、 

そして自分の言語観の正しさを現実の時代の中で実践的に証明しようとしたこと、そして、その正しさによつ て革命、即ち日本人の意識の根本的な変革を起こすことによつて現実を実際に根本から変革しようとしたこと が、安部公房入党の動機です。 

大事なことは、徹頭徹尾、それが言語の観点からなされたということです。これは、共産党員であつた時代に も、終始変わらぬ、10代からの安部公房の姿です。」 

[註9] 「最後の「催告」と「審判書」」といはれてゐるのは、「失踪に関する届出の催告」のことである。以下に整 理する。 

(1)主人公の行方不明の期間:「七年たち、民法第三十条によって、けっきょく志望の認定をうけることに なったのである。」:全集第16巻、118ページ 
(2)本文中:主人公は31歳:全集第16巻、159ページ上段 
(3)最後の「失踪に関する届出の催告」中:主人公は35歳:「生年月日 昭和二年三月七日」:全集24 9ページ。(催告書に記載の生年月日である昭和2年は西暦1927年、その発行年月日は「昭和三十七年二 月十八日」、昭和37年は1962年である。) 


従ひ、(1)と(2)からは、主人公は失踪時38歳、(3)からは35歳となる。」

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