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2016年11月18日金曜日

安部公房と花田清輝の関係について

安部公房と花田清輝の関係について

「埴谷雄高『安部公房のこと』解題」(もぐら通信第51号)に更に補足的な追記を以下の引用の最後に付して、安部公房と花田清輝では、その論理が全く異なるといふことの解題を、通俗的な誤解を解く為に、新たにしたいと思ひます。

その文脈を理解してもらふ為に、埴谷雄高の文章を前段に措いて、本題に入ります。話は、埴谷雄高が安部公房の『粘土塀』(後に改題して『終りし道の標べに』)発見当時のことから始まります。昭和22年の秋、西暦1947年のことです。

「さて私は、作者の承諾なしに勝手に『個性』へ持ちこんだことをあやまる手紙を、作者に 出した。だが、作者はなかなか現はれなかつた。安部君は、そのとき、北海道に行つてゐて、 自分の作品の動きについては何も知らなかつたのである。さて、やがてつひに安部君が私の 前に現はれたが、そのとき、彼は二つの點で私を非常に驚かせた。その一つは、もつそりと 老成してゐるこの人物がまだ東大醫學部の學生であつたこと、他の一つは、この實存的な言 葉をさかんに使ふ作者がニーチェとハイディガーを讀んでゐるほかは、ヨーロッパ文學につ いては二三の作家を斷片的にしか讀まず、そして、日本文學に至つてはまつたく何も讀んで ゐないことであつた。[註1]從つて、私達の對話はいきほひ、廣大の、無邊の、哲學的とな らざるを得なかつたのである。 

このことは安部公房にとつて特質的な點である。文學者となつてからはじめて文學に觸れ たといふ觀が、彼にあつた。そしてさらに云へば、文學者となつてからはじめて人生に接し はじめた、ともいへるのである。彼は、新たに接するものから强い影響を受けた。椎名麟三 と私の影響が、その後の彼の作品のなかに認められる。安部君が絕えず求めたのは方法論で あつて、彼が影響を受けたのは、椎名麟三にも私にも、觀念を探求手段とするとともに探求 目的ともする方法論を見たからであつた。そのことは、その後の彼が前衞繪畫の手法を見事 に消化し、ピカソ以後の立場に立つたことから振り返つてみると明らかになる。安部君の歷 史を逆に飜して戲言を弄すれば、椎名君と私は、セザンヌといつた位置を占めることになる らしい。つまり、圓錐と圓筒を示して、これが物體に内在する原形であると私達は鹿爪らし く述べたといつた具合である。ところで、そのとき、傍らから現はれた一人物が、そんな觀 念的な觀念にとどまらずに、線と面と立體をもつと前進的に、もつと革命的に搖すぶらなけ れば駄目だ、とアヴァンガルド藝術へ安部君をまつしぐらに押しだしたのであつた。このモ ンドリアンとブルトンを一緖にしたやうな二十世紀的な人物は、花田淸輝であつた......。ここで特筆すべきことは、安部君と日本文學との接觸はそこでまつたくたちきれてしまつたと いふことである。椎名君や私への接觸とは甚だ奇妙なことであるが、しかも、それが最初に して最後の接觸なのであつた。彼は日本文學とまつたく斷絕してゐて、その唯一の奇妙な接 觸點から決してあともどりしなかつた。
(傍線筆者)」

「6。花田清輝

「そのとき、傍らから現はれた一人物が、そんな觀念的な觀念にとどまらずに、線と面と 立體をもつと前進的に、もつと革命的に搖すぶらなければ駄目だ、とアヴァンガルド藝術へ 安部君をまつしぐらに押しだしたのであつた。このモンドリアンとブルトンを一緖にしたや うな二十世紀的な人物は、花田淸輝であつた......。」

中田耕治さんの回想から、初めて安部公房が花田清輝にあつた時のことを引用します。(『安 部公房を巡る想い出(連載第6回) 』もぐら通信第37号)実に貴重な回顧録です。中田さん に感謝致します。
安部公房が処女作『終りし道の標べに』を『個性』(昭和23年2月号) に発表して、すぐに真善美社から「アプレゲール・クレアトリス」というシリーズの一冊と して出版された時のことです。

「 ある日、私はこの出版社にいた。  「真善美社」は、赤坂にあつて、溜池という停留所のすぐ近くにあつた。山王下といつ たほうが、わかりが早い。このあたりは、戦災をうけたため、焼け跡の空き地はまだ瓦礫 が片付けられず、かなり大きなどぶ池がひろがつていた。
  (略)  
「真善美社」は、この池の空き地の奥まつたバラック建てだつた。ここに、顧問という か編集長格の花田清輝がいて、ほかに、中野達彦、中野泰彦の兄弟が「総合文化」の編集 を担当していた。  神田の「近代文学社」と並んで、戦後文学の拠点の一つだつたので、人の出入りもたえず、 狭い応接室には、いろいろな作家、評論家が立ち寄つては、花田清輝と会うのだつた。私 は、安部君といつしょに「真善美社」に行つた。

 私は「総合文化」に原稿を届けたのだつた。安部君も私もこの日はじめて花田清輝と会つたのだが、安部君はおもに花田さんと、私は中野泰彦と話をした。中野君は、安部君と同年だつた。つまり、私より3歳上ということになる。」

このとき、中野泰彦の机に、英文のカフカの短編集があり、安部公房は帰り道に中田さん に作家の本のことを尋ねて、その次に中田さんが「二日ばかりたつて、小石川の安部君の部 屋に遊びにいつた」時に、安部公房はジッドの『贋金作り』(白水社版)を、中田さんは 安部公房にカフカの『審判』(白水社版)を交換したのです。

さて、当時の花田清輝を後年になつて回想して安部公房が語つてゐる『玩具箱』より花田清 輝の印象を引用します。(全集第20巻、363ページ) 西暦1966年、昭和41年、 安部公房42歳。

上記に引用した埴谷雄高の印象を最初の段落で書いたあとで、その次に筆は花田清輝に進 みます。
  
「 やつと眼鏡を手にいれて、最初に目に映つたのが、花田清輝である。彼も特徴のある笑 い方をしたが、その笑いは、あまりデモクラチックとは言いがたかつた。口をかくして、恥 ずかしげに笑うのは、単に歯が悪いのを隠すためらしく、しかし、歯にむくいる歯のかわ りに、眼には眼をきかせればいいわけで、たぶんその眼のせいだつたのだろう、彼との対話は、ほとんど成り立たなかつた。それでもべつに差し支えはなかつたので在る。おかげ で、ぼくの印象には、彼のただ一つの面しか残らなかつた。それも、ただ、卓越した芸術家 としての、なめし皮のような魂のマチエールだけが......。そして、その印象は、今も一貫し て鮮明なままで続いている。ぼくが彼から受取つたものは、たぶん影響以上のものだつた にちがいない。」(傍線筆者)

世上言はれ、通俗的に理解され、即ち誤解されてゐるのとは全く異なり、安部公房が「彼と の対話は、ほとんど成り立たなかつた」といふのは、正しいのです。

1948年8月8日に開催された『二十代座談会 世紀の課題について』といふ座談会が あります。ここに花田清輝は出席してをりませんが、しかし当時の安部公房が如何に周囲の 親しい筈の友人たちから理解されてゐないか、言葉が通じないかがよくわかる箇所がありま す。安部公房は、花田清輝のみならず、他の同時代の作家たちにも理解されることが甚だ少 なく、孤独でした。

この問題については、今深く入つて論じることはせずに、別に稿を改めて『安部公房と成 城高等学校』の連載の中で論じる予定です。安部公房の人間観と藝術家のあるべき姿と、先 の敗戦後の周囲の二十代の人間たちとの間に乖離があります。前者は安部公房らしく終始一 貫、個人を主体に其れを(国家を超えて)直接人類との関係で主張してゐるのに対して、他 方ほかの(当時の)若者たちは、日本共産党といふ組織に頼ることを、日本共産党といふ 党に帰属するかどうかは別にして、前提に終始した個人個人のバラバラな好き勝手な主張で あるからです。上に引用した埴谷雄高の『永久革命者の悲哀』を読めば、花田清輝もまた、 これらの若者たちと同じ一員であることが判ります。これでは、安部公房と話が合ふわけは ありません。花田清輝とは、「歯にむくいる歯のかわりに、眼には眼をきかせればいいわ けで、たぶんその眼のせいだつた」といふ関係だつたのです。

この問題は、成城高校の尋常科の教授であり、安部公房の恩師阿部六郎と親しかつた蓮田 善明が校友会誌『城』に寄稿した論文「純粋技術への決意」に言及してゐる或る思想を、安 部公房が上の座談会で主張しても、誰も理解することが、上に述べた理由で、なかつたとい ふ事実と照らし合はせて、誠に興味深く、また何故三島由紀夫と安部公房が戦後肝胆相照 らす仲であり得たかといふ数在る理由の重要な一つであるからです。

さて、花田清輝が安部公房に及ぼした影響についてです。 

「ぼくが彼から受取つたものは、たぶん影響以上のものだつたにちがいない。」といふ言ひ方で判ることは、安部公房が真剣に集中的に考へる時には超越論になり、超越論で考へ る時にはいつも例外なく「~以前」といふ言葉を使つて考へることは、もぐら通信の諸処 で論じた通りです。[註2] 従ひ、花田清輝から受取つたものが影響「以上」のものであ るといふことは、安部公房の本質的な思考形式を理解するために必要な超越論の領域で は、花田清輝は安部公房を理解することがなかつたと言つてゐるのです。それ故に「影響以 上」のものだつたが、それは受取つた、といふのです。そして、しかし、従ひ、影響は受け なかつた、と、さう言つてゐるのです。更に言へば、花田清輝は安部公房から何かを受け取 つたのでせうか、いや、受け取ることはなかつたと、この修辞は、さう言つてゐるのです。 それが、花田清輝とは、「歯にむくいる歯のかわりに、眼には眼をきかせればいいわけで、 たぶんその眼のせいだつた」といふ関係だつたといふことの意味なのです。

これが、上に引用したやうに、安部公房には『近代文學』の同人の中では「埴谷雄高だけ が、不思議に鮮明な印象を残している」、花田清輝との関係でみると明らかな、理由なの です。

[註2] 
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)より、人生の危機に遭遇していつも「~以前」といふ言葉を 使つて考へる安部公房の姿を以下に引用します。

「安部公房は、何か危機的な時、転機の時には、いつも言語とは何か、文学とは何かを問い、後者 の問いの 次には、必ずといつてよい程、その最初に戻つて物を考え、前者との関係で詩とは何か、 小説とは何か、戯 曲とは何かを問うて、そうして言語以前、詩以前の、即ち未分化の実存と言う 未だ名付けられない存在のこ とを考察してから、その問題の本質へと入つて行きます。即ち、論 ずる対象「以前」に戻つて考えるというこ とを致します。更に即ち、時間を捨象して、物事の本 来の、根源的なあり方として物事を考える、そのそもそ もを存在論的に考えるのです。 そうして 其の根源的な、論ずる対象のあり方を存在と呼び、存在として、即 ちこの世に現れている「以前」 の無名のものとして考え、それを論じる対象との関係にある語彙を使つて次 に有名なものとして 考え、論じるのです。[註22]」

[註22]
この[註22] については、上記「5。リルケ」の[註1]をお読みください。


この章の最後に、安部公房が後年語る花田清輝についての人間像を、少し長い引用になりま すが、引用します。『都市の回路』(第26巻、223ページ下段)。1978年、昭和5 3年、安部公房54歳。

ここで安部公房は率直に自分と花田清輝の類似と相違を語つてゐます。以上の私の考察と併 せて、お読み下さい。花田清輝は散文詩であるエッセイを書いたといふ指摘、また其のエッ セイは抽象化した私小説であるといふ指摘は、一重の傍線を付しましたが、これは実は、 安部公房のことを語つてゐるに等しいのです。文字を赤字にして一重線を施した箇所につい ては、安部公房が当時の、『近代文学』に接した以降のことを語つてゐて、安部公房が戦争
と戦後の関係でどのやうな位置にゐたかの、正確な自己認識になつてゐます。「即ち、安部 公房は戦争や戦後とは直接には何の関係もない孤絶した世界を一生生きたということであ る。」(「私の本棚:高野斗志美著『安部公房論』」(もぐら通信第24号))

「都市に向かつて

――安部さんは戦後、「夜の会」「記録芸術の会」「現在の会」など、さまざま文学運動 に積極的に参加されましたね。安部さんがそのような活動をなさるについては、花田清輝 さんとの出会いが大きな意味を持つたと思うのです。その花田さんも四年前に亡くなられた わけですが、振り返つてみて、どのような感想を持たれますか。 

安部 戦後、僕が小説を書き始めてから、一番共感をもてたのはやはり花田清輝だろう。いろいろ意見のくい違いもあつたけど、芸術観というか、感受性でやはり抜群だつたと思うな。  
 とにかくすごく感受性の豊かな、人間嫌いだつた。政治的な発言にしても、運動としての 行動にしても、味方のコミュニケーションよりは常に敵との折衝を重んずる方でね。傷つき やすい人間だつたんだよ。見事なのはレトリックを変装の道具に使つて、どうやつて現世 の火輪をくぐり抜けるかの離れ業だな。だから彼のエッセイは、常にすごく抽象化された私小説だつたような気もする。

 本質的には詩人だつたんだと思う。すべてのエッセイが散文詩として読めるし、散文詩と してエッセイを書いていた。しかし、ある時期からちょつと自由でなくなつたような気がす る。とくにその時代、ポエジーとしての変身の術が、誤解されて論説のように受取られてし まつた。だから、スポークスマン・花田清輝として評価する人がけつこう多いんじゃないか。 僕なんか文壇にまつたく無関心だつたから、よく理解できなかつたけど、彼はけつこう反文 壇に大きなエネルギーを使つていたんだよ。晩年の疲労感はそのせいかもしれないね。

――これはよく知られている事実ですが、安部さんが戦後に書きはじめられたときは、ハ イデガーやリルケの影響を強く受けられていた。その後に、安部さん固有の世界を築いて行 かれるときに、安部さんはルイス・キャロルやカフカ、あるいはシュルレアリスムの方法 に学んで、いわば文学上の大きな選択をなさつた形になる。さらにすすんで、安部さんはコ ミュニズムにも接近なさるわけですが、そのような方向は、花田清輝さんもやはり共有して おられたわけですね。 

安部 そう思うね。いろんなことを教えてもらつたよ。それに花田清輝は人間的に好きだつ たから、彼が運動といえば僕も喜んで乗つかつて一緒にやつたけど、グループとしての仲間 意識はあまりなかつた。彼に劣らずぼくも人間嫌いだつたからね。  
 それに第一、終戦体験というものがひどく違つていた。僕と同世代の連中がほとんど持 つていたと称する価値の転換、あるいは戦時中のイデオロギーからの裏切りという感覚 は、僕にはまつたくなかつた。戦争中から、なんかおかしいという感じのほうがずつと強 かつたから、終戦も突然空が晴れわたつたという感じしかしなかつた。無論戦争イデオロギー以前の教育なり雰囲気なりを知つていた僕らより上の世代の連中もホッとはしただろう。しかし、その連中とも違うんだ。それ以前のことは全然知らないわけだからね。  だから、「近代文学」とか、「夜の会」とかへいつても、どこか外国人と無理につき合 つているようで、一つピンとこないんだ。ただ、そこだけが僕を受け入れてくれたし、ほか に行く所がないからそこにいただけなんだ。でもいま考えると、そのすべたが僕にとつて プラスに作用してくれたように思うね。  
 コミュニズムへの接近も、まつたく過去の屈折なしの接近だつた。転向問題も何も知ら ずにコミュニズムに接近したという点では、むしろずつと後の世代と似ているのかもしれ ない。離れるときも、僕としてはまつすぐ一本の道を歩きつづけてきたつもりだ。結局は すれ違いだつたんだね。」(『都市の回路』、第26巻、223~224ページ)

また、『埴谷雄高は存在感覚の変換 ー アヴァンギャルドの道 ー 』といふ安部公房論の中 で、内心内面の安部公房とは別に、周囲から目にしたところに従ひ、当時花田清輝が安部 公房に与えた「影響」について、次のやうに語つてゐます。

「カフカもシュペルヴィエルも安部公房を揺さぶつたけれども、あらゆる事物が異常性をも つことによつて自己解体へ直面し、その自己解体への推移こそ自己確立の脱出口であるこ と、さらに、両端から掘り進んだトンネルの或る箇所でぱつくりと口があき、自と他が顔 を見合わせた瞬間何かがそこをさつと通りすぎること、を教示したのは、そのなかでも特 に、花田清輝である。花田清輝の理論と安部公房の作品について 比較研究し、その影響の 深さを論じたものを私は見ないが、作者が成長しきたつた長い年月の体験から作品の核心 をひきだすこれまでの批評と研究が全崩壊する貴重な踏み出しがその比較研究からもたら されるに違いないと私は思つている。」(『埴谷雄高は存在感覚の変換 ー アヴァンギャル ドの道 ー 』(もぐら通信第35号))(傍線筆者)

誰か「花田清輝の理論と安部公房の作品について比較研究し、その影響の深さを論じ」、「これまでの批評と研究が全崩壊する貴重な踏み出し」をなす者はゐないか?その誰かのために、この解題の此の章が役立つことを願ふ。」

さて、以上をお読み戴いた上で、次のことを追記して述べる事にします。

安部公房に『文芸時評』と題した文章があります(全集第2巻、51ページ)。

第1章と第2章からなつてゐて、前者は椎名麟三の小説『永遠なる序章』を、後者が花田清輝の論考『二つの世界』を論じてゐます。

後者、即ち第2章の第1段落の最後に椎名麟三と花田清輝の共通のこととして、次のやうに述べてゐます。

「此処にも椎名氏の場合に似た積分的な全体に対する否定がある。」

安部公房の確立した文学概念が、仮説設定の文学であること、また其れは安部公房の言語論から言つても、仮説設定の文学とは積分の文学であることは、既に諸所に於いて述べて来た通りです。[註]

[註]
仮説設定の文学については、『安部公房の変形能力2:ポー』(もぐら通信第4号)を、安部公房の言語論については、『安部公房の変形能力17:まとめ~安部公房の人生の見取り図と再帰的人間像~』(もぐら通信第17号)、『梨という名前の天国への階段、天国への階段という名前の梨』(もぐら通信第27号「編集者通信」)その他をお読み下さい。


この1948年の文芸時評を読みますと、上にも引用した以下の安部公房の此の西暦1966年、昭和41年、 安部公房42歳の時に書かれた文章が一層よく理解されることでせう。

安部公房と花田清輝の関係は隣接関係であつた。即ち修辞学の用語を使へば、二人の関係は換喩(metonymy)であつて、積算し積分した関係である隠喩(metaphor)の関係ではなかつた。それを率直に示すのが次の文章である。

「やつと眼鏡を手にいれて、最初に目に映つたのが、花田清輝である。彼も特徴のある笑 い方をしたが、その笑いは、あまりデモクラチックとは言いがたかつた。口をかくして、恥 ずかしげに笑うのは、単に歯が悪いのを隠すためらしく、しかし、歯にむくいる歯のかわ りに、眼には眼をきかせればいいわけで、たぶんその眼のせいだつたのだろう、彼との対話は、ほとんど成り立たなかつた。それでもべつに差し支えはなかつたので在る。おかげ で、ぼくの印象には、彼のただ一つの面しか残らなかつた。それも、ただ、卓越した芸術家 としての、なめし皮のような魂のマチエールだけが......。そして、その印象は、今も一貫し て鮮明なままで続いている。ぼくが彼から受取つたものは、たぶん影響以上のものだつた にちがいない。」(全集第20巻、363ページ) (傍線筆者)

花田清輝が、安部公房とは、後者が埴谷雄高と共有してゐた哲学の領域と其の存在論を共有してゐなかつたことは、上述した通りです。







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