安部公房と寺山修司を論ずるための素描(3):安部公房によって描かれた寺山修司の「恐山」by 番場寛教授
些か旧聞に属する紹介ですが、2014年7月に大谷大学の番場先生が、『安部公房によって描かれた寺山修司の「恐山」―『カンガルー・ノート』を読んで―』と題して、エッセイを同校のブログに掲載してをりますので、これを一部抜粋して、お伝へします。安部公房と寺山修司を論ずるための貴重な考察です。本文全体は以下のURLへ:
次のやうに、安部公房と寺山修司の共通性について書かれたものです。ご一読をお勧めします。引用の冒頭「この小説」とは、勿論『カンガルー・ノート』のことです。
「この小説のかなりの部分、とくに「賽の河原にあつまりて 父上恋し 母恋し」という歌が出てくる、「火炎河原」と題された章がまるで寺山修司の映画『田園に死す』の舞台となっている青森の恐山を彷彿させることだ。それだけではない、『カンガルー・ノート』で、脚の脛に「かいわれ大根」が生えてしまった主人公が括りつけられている病院のベッドはまるで生き物のようにレールの上を自走するのだが、それも『田園に死す』のレールの上のトロッコを連想させる。」
「生前実際に二人は触れあわなかったとしても、接点はあった。それを寺山が日本に呼ぶきっかけをつくったと聞いているタディウス・カントールの劇については安部も触れている。寺山も安部もともにガルシア・マルケスを高く評価していた。寺山は彼の『百年の孤独』を最初演劇にし、のちに映画化(『さらば箱舟』)したがマルケス自身が自作との隔たりの大きさからクレームをつけたので、題名変更を余儀なくされたと言われている。」
「寺山も マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや と歌った。劇の『レミング』は、あらゆる部屋から壁が消えていくという話だったが、それを拡大すれば「国家」の否定ともつながる。満州で幼い頃育った安部公房がやがて「クレオ―ル」という「国語」に対立する国境を越える言語に注目したのもひょっとしてそれほど「故郷的なもの」を否定したいほどそれに捕らわれていたのでは、と考えれば、寺山と安部はひょっとして表と裏のような関係で、無視に近いほどお互いに無関心という形で、似たテーマを追求していたのかもしれないと今は思う。」
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