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2016年11月7日月曜日

村上春樹の最大の批判者は、やはり安部公房の読者である(2)

村上春樹の最大の批判者は、やはり安部公房の読者である(2)

アンデルセン文学賞受賞スピーチで村上春樹の引用したアンデルセンの小品「影」[註1]を読みました。

[註1]


しかし、思ったことは、村上春樹のスピーチには、やはりその作品で一番大切で、重要な役割を演じてゐる女性の名前を決して出さずに隠してゐることです。[註2]

[註2]
この物語では、主人公の影が向かい側の女性の部屋へと映されて、その家の中に入り、成長をして、主人公を上回る力を得るのですが、その家の女主がPoetry(総称としての詩)なのです。さうして、それまで主人公がmaster(主人)であり、影が(従僕、従者)であった役割が交換されて、影がmasterに、主人公が従者になり、支配と被支配の関係が逆転するのです。さうして、支配者が被支配者を死刑執行に処する。

ここでいふべきことは次の5つです。

(1)Masterといふ媒介者または媒体を入れることで、さうして、その間に詩といふ女性を置くことで、これまでの主人公と地下世界の関係の話をもっと輻輳させて、これまで主人公は死の恐怖から決して地下世界へと降りて行けなかったものが、降りて行けるようになるといふ小説作法上の可能性が生まれた。

このPoetryという意味での詩とは、勿論村上春樹が愛して喪失した阿美といふthe first beautyに、村上春樹の小説ではなるでせう。

(2)この媒介者はmasterと呼ばれるので、初期3部作に登場するジェイズ・バーのジェイとして、別の名前で登場する小説作法上の可能性が生まれた。

これまでの考察から、ジェイとは、僕といふ一人称と鼠といふ三人称の外側に村上春樹の創造した第三者としてある父親、実は自分自身の中にゐる父親なのでした。

(3)Masterということから、これまで村上春樹が未解決のままに放置して来た父親との関係がやっと此の歳になって、整理することができる可能性が、小説作法上、生まれた。即ち、

(4)自分の中にある村上春樹の父親であるのみならず、自分自身である父親または父親としての自分自身を、アンデルセンの小品でのやうに、殺すことができるといふ小説作法上の可能性が生まれた。これで、

(5)小説構造論上は、村上春樹がやっと浦島太郎の物語と同じ構造を備えた物語を書くことができるといふ、小説作法上の可能性が生まれた。即ち、D.H.体験に基づいて、

①二塁から本塁へと接続線を引くことをするのか、
②二塁から三塁へと主人公(runner)は廻って、本塁へと帰還するのか、
いづれかの話の展開の選択を、小説作法上書くことのできる可能性が生まれた。


この隠匿、隠蔽、秘匿は、すべての村上春樹の作品に共通してゐます。

このアンデルセンの作品を、世界中のハルキストと呼ばれる読者が読んで、その女性のことを議論してほしいものです。

さて、ここまで論を重ねて来て、村上春樹の文学を正確に理解すると、50%は冗談で、60%は本気で、しかも私の故郷の北海道弁で、私は村上春樹を「嘘こき春樹」と呼ぶことにしました。

村上春樹がアンデルセンの「影」をどのやうに語ってゐるかを吟味したところにしたがって、以下の文章とします。

「職業としての小説家」に自分で書いてゐるやうに、作家は詐欺師であると云ふのは、その通りでせうが、それが換喩の世界での引き算の文学である限り、安部公房の世界から眺めれば、その自己言及はまさしく詐欺的であり、この女性の名前の隠蔽のための免罪符にはならないからです。

私が村上春樹と対談をしたら、はっきりとさう伝えるでせう。

この最愛の女性は成仏せずに、「奇妙な」時間と空間の「接面」(と時間と空間の関係をあくまでも換喩の関係(隣接性)ととらへてゐる村上春樹は「職業としての小説家」で、言葉正しくさう使ってゐる)の間を行ったり来たりするだけで、命といふものは永遠に持続するといふことの厳粛な事実に頼って、いつまでもふらふらと三途の川を渡ることができずに、さ迷ってゐるます。

村上春樹の世界は換喩の世界なので「接続」にはならず、時間と空間が交差しないでただ接してゐるだけなので(これを「奇妙な」時間と空間の混在と、小説の中ではなってゐる理由です)、多崎つくるの物語の最後の章のやうに其れまでコツコツと修練して来た話法を駆使してなんとか地上と地下の世界を交差させようとしても、さうすることができないで、換喩のまま、隣接のままで、「職業としての小説家」の中で自ら否定してゐる「説明」文で終ることになったことは、これまでの論考で示した通りです。

この「接面」を「接続面」にするには、換喩ではなく隠喩(metaphor)、即ち掛け算を必要とする。その手応えを多崎つくるの物語では得たと「職業としての小説家」で語ってゐるのはその通りなのです。

この話法の使い方を、村上春樹は受賞スピーチで、" I pass through the dark tunnel of narrative"と呼んでゐるわけです。

トンネルといふ言葉を、余りにも遅すぎるが、しかしそれでも、やっと67歳になって、使えるやうになったのは、良いことですし、悪いことではない。何故ならば、橋を焼くことはできるが、山を水平にあけて穿ったトンネルは焼け落ちることがないから。

そして、トンネルとは、どの言語のどの作家にあっても、上位接続線であり、即ち隠喩(metaphor)であり、掛け算であるからです。やっと隠喩が、初期4部作のやうに、村上春樹は、再び使えるやうになったのでせうか?

これでやっと、地下世界へと再び(初期4部作のやうに)脈絡がついて、そこへと降りていけるのか。その時に、その登場人物の名前はなんといふのか?鼠か、マスターか、影といふのか?

しかし、それが成就すれば良いが、しかし失敗した場合には、a journey of self discoveryであり、a totally unexpected vision of myselfといふことであるならば、村上春樹よ、それでは、お前は其の深く愛して喪った女性を、自分が生きるための盾にして、自分の身を守るためだけに利用して来たに過ぎないのではないのか?、お前は、それほどに自分さへ良ければ良いといふ、実はegoistだったのではないのか?といふ事になります。

だからいつも、社会的な受賞の場所で、個人の生き方の論理が社会や国家でも実現さるべきだといふ、あの団塊の世代で共産主義(マルクス主義)に共感した人間たちの、余りにも幼稚な理屈を、恥ずかしくもなく口にすることができて来たのではないか?

(是非、私の此の期待を裏切ってもらひたい。)

多崎つくるの次の作品でa totally unexpected vision of myselfを得たとして(このvisionについては「職業としての小説家」にも言及してゐる)、それは本当に今までのstoryの最後がさうであるやうな男女の別れではなく、近松門左衛門のtaleの結末のやうに、二人とも死ぬといふやうな結末があり得るのだらうか?

もし村上春樹といふ小説家に人間としての成長があるならば、次のどれかの結末に、次作はなるだらう。(しかし2はありえない。この場合では、村上春樹の問題は解決しなかったから。)

1。男が死んで、女が生きる
2。男が生きて、女が死ぬ:これは「ノルウエイの森」型
3。男も女も死ぬ

これに、主人公である男の自己分裂を加へて、その二つの分裂した自己を(アンデルセンの「影」のplotを真似て)masterといふ言葉と影といふ言葉で呼び、その二人の片割れ同士を交換関係(隠喩の関係)に置、更に支配と被支配の関係を交換して、最後に村上春樹の至る物語の、登場人物と役割の関係を考えることは、安部公房の世界、即ち「奉天の窓」から眺めれば、次のやうなmatrixを考へる事になる。



さて、このmatrixを眺めてあり得る次作の話の筋は、次のやうなものではないだらうか。

1。地下世界の自己の片割れである影が、地下世界の女(やはり影)を捨てて、地上の女と結婚する。この場合に、次の二つがある:
(1)地下世界の自己の片割れである影が、masterである場合と
(2)地下世界の自己の片割れである影が、masterに支配されてゐる影である場合

2。masterである(影ではない)地上世界の男が、地下世界の女(影)を捨てて、地上の女と結婚する
3。地下世界の女(影)が、地上世界の(主人公の)片割れである男(影)を殺して、他の(地下世界または地上世界の)男(前者は影、後者は人間)と結婚する
4。地下世界の女(影)が、地下世界の(主人公の)片割れである影(男)を殺して、(地下世界または地上世界の)男(前者は影、後者は人間)と結婚する

といふ結末のいづれかになるのではないだらうか。

さうして、話(tale。storyの話にあらず)は、これでは終らずに、永劫に結婚後の話を繰り返す。村上春樹が現実に死ぬまでの間。これは、浦島太郎が故郷に帰った後の物語である。

しかし、村上春樹よ、とここで言ひたいことが言ひたくなって、言葉が少し俗になることを読者は赦されよ、お前さん、よく言ってくれるな、「風の歌を聴け」の最後にニーチェの言葉を、それらしく模作して、

「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」

と書いたが、今デンマークの授賞式でお前が口にしてゐる英語は、

Light that doesn’t generate shadows is not the light.
複数の影を生み出さない光など、光ではない。

とは、よく言ってくれるではないか。

その間影だとして生きた、あんたの父親(男)と、あの最愛の女性(女)といふ二人の影たちは、成仏できなかったといふ、この英語は、これは告白なのだな?この理解は正しいのだな?

「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」
「複数の影を生み出さない光など、光ではない」

この二つの文の間の距離に、この間の時間に、お前は橋をかけたのか?トンネルを掘ったのか?それとも、この二つの文をただ並べて置いただけなのか?

次作でそれがわかるだらう。しかし、お前が、相変わらず最後者の換喩の世界にとどまって、前二者の隠喩の世界の創造が、70歳も間近だといふのに出来ないのであれば、上の二つの文の間のお前の人生は、全て虚妄であったといふことになるのだ。

その時には、お前は世界中の読者を欺いたといふことになるのだ。

もし成功したら?

さう、もし成功したら、一体誰からおめでたうといふ言葉がもらえるのだらうか?その時には、阿美といふ、(阿は阿吽の阿)、the first beauty, the initial beautyの名前を口にしてほしいものだ。授賞式といふ公の場で。さう、今頃第2稿、第3稿の原稿をチェックしてゐる地上の恐妻を捨ててでも。さう、それこそをハードボイルドといふのではないのか?、村上春樹よ。

村上春樹の最大の批判者は、やはり安部公房の読者なのである。





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