安部公房の世界から1970年11月25日の三島由紀夫の死を観る
私が常々不思議に思ふことは、三島由紀夫の読者が其の死に方を自裁といつたり、割腹自殺といつたり、凡そ此の言語藝術家の死に方を、注意めされよ、死ではなく死に方をである、自殺の方向へと説明したがる意識のあることです。
それは、三島由紀夫の読者自身が死を恐れてゐる証左です。何故三島由紀夫は死んだのか、自ら死を選んだのかといふ問ひは、無意味ですし、問ふ値のない問ひです。三島由紀夫の世界にあつては、さう問ふ読者は、自らの死を恐れてゐることを聡明にも自覚すべきことであり、もつと云へば 、自らがいつ死ぬべきかを良く考へるといふことだと、私は思ひます。私は辛辣なことを申し上げてゐるのでせうか?
三島由紀夫の死は切腹である、これは決して自殺ではないと、安部公房ならばはっきりといふでありませう。
安部公房が二十歳の時に書いた『詩と詩人(意識と無意識)』の思想と論理は、その一生を貫く創作の方法論であり、実作を実践篇と呼べば、これは其のための理論篇ですが、先の敗戦前に青春を生きた旧制高校生の間で問はれた死活の問ひ、即ち生か死かといふ問ひに苛烈にも徹底的にも、さうして此れ以外の問ひもまた皆この一番は激しい問ひの前にあつては其の従属的な問ひになつてしまふ程の其の問ひとは、AかBかといふ問ひでありました。
旧制高校生でありますから、当然に其の問ひはeither A or Bといふ英語ではなく、Entweder A oder Bといふドイツ語によつて、若者たちは、この二者択一の選択的問ひを巡つて真摯に議論を交わしたことが、安部公房全集の第1巻に収められた作品を読むと、よく解ります。
安部公房が、成城高等学校で哲学談義を親しく交はした友、中埜肇と議論を交はした重要な問ひの一つが此の問ひでした。当時当然の事ながら、戦時といふことからも世情世相の論理として大人たちも此の問ひに答へようとしてゐたことは、この問ひの形式が、安部公房の学んだ成城高等学校の尋常科の教授職にあつた、三島由紀夫の発見者蓮田善明もまた校友誌『城』に寄稿した論文『純粋技術への決意』の中で論理展開の骨格として位置してゐて、明らかです。(この論文については稿を改めて論じます。)
十代の安部公房の結論は、AでもなくBでもなく、第三の客観を求めることでした。そのための方法論(Methodologie)を論じ確立したのが、上の『詩と詩人(意識と無意識)』です。
生でもなく死でもない第三の客観とは、安部公房の場合には、自らが存在自体になることでした。全集第1巻所収の中埜肇宛の書信に其のことが述べられてをります。存在が第三の客観であり、このAかBかといふ問ひの形式を否定して、その二者択一の問ひの二者の間の向かうへ、その問ひを超えて其の向かうへと果てしなく「次元展開」を繰り返して其の度に自己喪失し記憶を喪って、存在たる第三の客観に至つて、自己を存在自体ならしめること、これが戦時下を生きた安部公房の生涯に亘り変わらぬ結論だつたのです。
そのやうな安部公房であつてみれば、三島由紀夫の死は、自殺でも他殺でもなく、明瞭明白に切腹なのであり、最後者のこれは、その三島由紀夫と共有してゐる選択的問ひの形式からいつても、安部公房の第三の客観、即ち切腹なのです。
二人がドイツ語とドイツ文学を共有してゐて気心が通じ、誠に其の真情の通じてゐたことは、『二十世紀の文学』(安部公房全集第22巻、55ページ)といふ二人の対談を読めばよく判ります。安部公房がドイツ語を使つてMethode(メトーデ)、即ち方法といふ言葉を口にすると、二人は其の儘旧制高校時代の親友になるのです。
恐らくは、先の敗戦後になつて、戦前戦中時代の大人たちが鬼籍に入るにつれ喪われた文化の最たるものの一つが、ドイツ語とドイツ文学なのであり、読者に此の大事な教養の欠落してゐることが、二人の文学の理解を一層難しくさせてゐる大きな理由の一つであると、私は思ひます。二人が10代以来共有してゐたリルケとヘルダーリン、即ちリルケを読めば安部公房が解り、ヘルダーリンを読めば三島由紀夫が解るのです。「豊饒の海」ですら、少年時代より後者の一生愛唱した詩『追想』(『Andenken』)に誠に象徴的に美しく深く様式化されて歌われてゐて、大きな河が山巓の源泉より流れ流れ来つて遂には流れ入る海を「豊饒の海」と呼んでゐるといふのに、さうして西暦1964年、昭和39年39歳の作品『絹と明察』でヘルダーリンの此の詩を含み複数の詩を自ら翻訳して引用し、何度も岡野の口を借りて語らせてゐるといふのに、三島由紀夫の読者は此の詩を読むことはないのです。私は辛辣な批評をしてゐるのでせうか。かうして私の云ひたいことは、私の此の強く否定的なものの言ひ方で貴方の胸に伝はつて辛辣に感じた筈の、それほどのドイツ的教養の欠落といふことなのです。
これほどに、戦後に二人があつて話あふリルケ、ヘルダーリン、ニーチェ、ハイデッガー、トーマス・マンの話は、尽きないものがあつたでありませう。
閑話休題
安部公房は戯曲『榎本武揚』で、この主人公がAでもなくBでもない、即ち幕臣でもなく明治新政府の人間でもない、第三の客観たらむとする道を、第三の道と呼んで、安部公房の読者に示してをります。現実の三島由紀夫の死に対して、反対に安部公房は虚構の中で主人公を存在たらしめる道を選ぶのです。三島由紀夫の死後、大江健三郎との『 対談』によれば、 安部公房曰く「彼との接点は、全部うらがえしになっている。」(全集第29巻、73ページ下段)、即ち二人はあらゆる接点を共有していながら互いにすべての接点で正反対の方向、或いは接点そのものの陰陽が裏返っているのですが、しかし、接点は共有してゐる。その重要な接点の一つが、安部公房の上述の論理です。
数学的には、安部公房の得意であつた数学の世界の用語を使へば、否定論理積といひます。この二進数の論理の一つに拠って、安部公房の作品のすべての主人公は、最後に其のさ迷う閉鎖空間から失踪し、または脱出するのです。
これに対して、三島由紀夫は現実の中で自分自身を藝術作品にしてしまつた。三島由紀夫の切腹といふ死に方には、これ以外の解釈は、安部公房の世界から観ますと、あり得ない。
この三島由紀夫の意図と想像力の向かふ方向を、安部公房は写真集『薔薇刑』と映画『憂国』の批評文の中で既に見抜いてをり、親情と感嘆の情と心配の心とを書き残してをります。
ネットの記事に『三島由紀夫の生と死、悠久の時を越えた美少年との出会い』と題した無署名記事があり、記事中「 澁澤龍彥による弔辞と『アポロの杯』」とした中見出しの元に、その筆者が次のやうに書いてゐるのを拝見したので、本題の元に引用して、更に以下に論じます。
親しかつた友、澁澤龍彦の斎場での弔辞は、その通りの三島由紀夫の切腹について、即ち第三の客観、即ち安部公房のいふならば存在になり、ならうとし遂に存在自体となり作品自体になつた三島由紀夫の藝術上の行為について次のやうに述べてをります。(以下傍線筆者):
「私は亡くなったばかりの三島由紀夫氏の秘密の内面に、やくざな分析家の泥足を踏 み込ませているのだろうか。そうは思わない。なぜなら、氏にとって、内面などはどう でもよかったにちがいないからである。そんなものは、もともと他人に勝手に分析さ せておけばよいものだった。「希臘(ギリシア)人は外面を信じた。それは偉大な思 想である 」(『アポロの杯』)と氏自身が書いている。最後まで形をなして残るもの は、作品だけだからである。そして氏は、みずからの肉体、みずからの死をも、傍若無人な一個の作品たらしめたのである。」(『三島由紀夫おぼえがき』)
イタリアを発つ最終日に、再度ヴァチカンを訪れた三島。それは、アンティノウスに別れを告げるためでした。 「私は今日、日本へかえる。さようなら、アンティノウスよ、われらの姿は精神に蝕まれ、すでに年老いて、君の絶美の姿に似る べくもないが、ねがわくはアンティノウスよ、わが作品の形態をして、些かでも君の形態の無上の詩に近づかしめんことを。」この日から18年後。45歳になった三島は、鍛え上げた輝かしい肉体に刃を突き立て、自ら命を絶ちました。澁澤龍彦の弔辞は、三島の死の本質を見事に言い当てていたように思えてなりません。 「 氏にとって、内面などはどうでもよかったにちがいないからである。そんなものは、もともと他人に勝手に分析させておけばよ いものだった。(中略)最後まで形をなして残るものは、作品だけだからである。そして氏は、みずからの肉体、みずからの死を も、傍若無人な一個の作品たらしめたのである。」 [註]
[註]
イタリアへの此の出発は三島由紀夫の人生の二つ目の出発です。『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』と題して、三島由紀夫の人生の3つの出発について、ブログ『詩文楽』にて詳細に論じましたのご覧下さい。(https://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html )
また、自らがならうとした藝術作品としての死と切腹については、三島由紀夫は繰り返しワットオの絵画を論じて、特にその林檎の表皮と芯の関係を論ずることによつて詳細に説明をしてをります。これもまた上の『三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』にて幾つもの文脈と観点から詳細に論じましたので、お読み下さい。又、同じ主題を、私は『剣』論(1)及び(2)と題して論じましたので、これもお読みくださると有難い。
『三島由紀夫の十代の詩を読み解く27:『剣』論(1)』https://shibunraku.blogspot.jp/2015/11/blog-post.html
『三島由紀夫の十代の詩を読み解く28:『剣』論(2)』https://shibunraku.blogspot.jp/2015/11/blog-post_3.html
この45歳の時の切腹といふ第三の客観になる第三の道の選択を、既に二十歳の三島由紀夫は、天皇陛下の詔勅の発せられたあの昭和20年8月15日、西暦1945年8月15日の日本を照らした太陽の日から2ヶ月前に、上の澁澤龍彦が正しく引用し解釈してゐる三島由紀夫のものの考へ方、即ち内面などどうでも良いこと、外面こそが信ずるに値する偉大であるといふ同じ認識を、次の詩に書いてをります。『 三島由紀夫の十代の詩を読み解く9:イカロス感覚1:ダリの十字架(1):三島由紀夫の3つの出発』より引用してお伝へします。(https://shibunraku.blogspot.jp/2015/08/blog-post_23.html)(傍線筆者)
「もはやイロニイはやめよ
イロニイはうるさい
巷には罹災者のむれ
大学は休講つゞき
大学生はやたらに煙草を吹かす
湊の霧のなかで数しれぬ帆柱にまたたく
檣灯のやうに
来ぬ教授を待ちながら
大学生は煙草を吹かす
もはやイロニイはやめよ
もはやイロニイは要らぬ
急げ今こそ汝の形成を
汝の深部に於いてより
汝の浅部に於いて
ああ汝の末端に
急げ汝の形成を」
(決定版第37巻、749~750ページ)
さうして、この詩の意味するところを知って戴くために、更に同じブログの同じ記事より『太陽の含羞(はぢらひ)』と題した十五歳の三島由紀夫の詩 (決定版第37巻、500ページ)についての解説と解釈に付した以下の註釈をお読み下さい。三島由紀夫の外面と縁(へり)について、浅部と末端について、よりよく知る事ができませう。
「[註4]
もつと、この蛇のことを続けますと、次のやうに44歳の三島由紀夫は、15歳の「黄色い丸」を、F104搭乗記の最初の一行で「私には地球を取り巻く巨きな巨きな蛇の環が見えはじめた。すべての対極性を、われとわが尾を噛みつづけることによつて鎮める蛇」と散文で書いてをります。
さうして、次のやうに続けます。傍線筆者。
「すべての相反性に対する嘲笑をひびかせてゐる最終の巨大な蛇。私にはその姿が見えはじめた。
相反するものはその極致にをいて似通い、お互ひにもつとも遠く隔たつたものは、ますます遠ざかることによつて相近づく。蛇の環はこの秘儀を説いてゐた。肉体と精神、感覚的なものと知的なもの、外側と内側とは、どこかで、この地球からやや離れ、白い雲の蛇の環が地球をめぐつてつながる、それよりもさらに高方にをいてつながるだらう。
私は肉体の縁(へり)と精神の縁、肉体の辺境と精神の辺境だけに、いつも興味を寄せてきた人間だ。深淵には興味がなかつた。深淵は他人に委せよう。なぜなら深淵は浅薄だからだ。深淵は凡庸だからだ。
縁の縁、そこには何があるのか。虚無へ向つて垂れた縁飾りがあるだけなのか。」
この散文を書いた三島由紀夫は44歳であり、1970年に亡くなる1年前の文章です。この同じことを、20歳の三島由紀夫は、次のやうに、『もはやイロニイはやめよ』と題した詩で歌つてをります。最後の7行に注目下さい。傍線筆者。
「もはやイロニイはやめよ
イロニイはうるさい
巷には罹災者のむれ
大学は休講つゞき
大学生はやたらに煙草を吹かす
湊の霧のなかで数しれぬ帆柱にまたたく
檣灯のやうに
来ぬ教授を待ちながら
大学生は煙草を吹かす
もはやイロニイはやめよ
もはやイロニイは要らぬ
急げ今こそ汝の形成を
汝の深部に於いてより
汝の浅部に於いて
ああ汝の末端に
急げ汝の形成を」
(決定版第37巻、749~750ページ)
先の戦争の終わつたのが、1945年、昭和20年の8月15 日とすると、この詩は、6月と日付があるので、その2ヶ月前に書かれたことになります。
大学の授業に出席しても、授業が成り立たなかつたのでありませう。何か少し捨て鉢な、やけっぱちな気分のある詩です。
しかし、いづれにせよ、何があつたにせよ、三島由紀夫はが決心したことは、若いくせに大人の真似をして煙草を吸ふやうな、世間に楯突いて嫌ふやうな態度、即ちイロニイはやめて、何故ならそんなことは、煙草の煙で自分の周りに煙幕を張つて人を遠ざけて「湊の霧のなかで数しれぬ帆柱にまたたく/ 檣灯のやうに/来ぬ教授を待」つやうなものであるから、さうやつて煙幕をはつて、待てど来ぬやうな知識をあてどなく待つのではなく、もっと現実に触れて、現実を見て、即ち「急げ今こそ汝の形成を / 汝の深部に於いてより/汝の浅部に於いて/ ああ汝の末端に /急げ汝の形成を」と、20歳の三島由紀夫は決心したのです。
この20歳の決心は、F104搭乗記の冒頭を読む限り、このときまで、全く変はることがなかつたことを意味してゐます。即ち、『三島由紀夫の人生の見取り図』による下記の25年の間、この二十歳(はたち)の決心は、変わることがなかつたのです。この間、三島由紀夫は散文家であつたといふことになります。
2. 2 1946年~1949年:21歳~24歳:詩人から散文家(ザインからゾルレンの言語藝術家)へと変身する時代:4年
この時期に安部公房に初めて会ふ。
(1)1947年:22歳:エッセイ『重症者の凶器』
(2)1948年:23歳:小説『盗賊』
(3)1949年:24歳:小説『仮面の告白』、最初の戯曲『火宅』
3. 1950年~1963年:古典主義の時代(ゾルレンの時代:太陽と鉄の時代):25歳~38歳:14年間
4. 1964年~1970年:晩年の時代(ダーザインの時代:ハイムケール(帰郷)の時代:10代の抒情詩の世界へと回帰する時代):39歳~45歳:7年間
この縁と縁の探究者であるといふ三島由紀夫の考えと実践は、その方向が正反対であつたとはいへ、全く安部公房と共有する接点でありました。何故ならば、これは、安部公房の思考論理でもあるからです。それ故に、後者は「彼との接点は、全部うらがえしになっている。」(「『対談』[対談者]大江健三郎、安部公房」安部公房全集第29巻、73ページ下段)と回想してゐるのです。どのやうに「全部うらがえしになっている」かは、三島由紀夫の十代の詩を論ずる中で、自づと出て参りませう。 」
十九歳の安部公房もまた、次のやうな認識を得たことをメモのやうなエッセイに書いてをります。
「よく考えてみれば僕達が普段内面と言っている様なものは、全て外面から来る想像に過ぎなかったのではないだろうか。(略)一体僕達の知り、そして感じ得るものに外面でないものがあったであろうか。『僕』がと云う事が既にもう外面のしるしだったのではないだろうか。(略)僕達の立つ所総て、僕はそれを外面と呼ぶのだ。」(『僕は今こうやって』全集第1巻、88ページ)
この一文を、安部公房の文學世界の読者の一人として、安部公房の親しき友、癩王のテラスで見事に切腹した三島由紀夫の霊に捧げます。
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