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2014年9月30日火曜日

善人より悪人を

高橋さん、

このメールが届くかどうか。

(やはり不達で戻って参りました。docomoの
セキュリティの設定には、やはりどこか欠陥があります。)

お便り、ありがとうございます。

秋色深し、秋は秋でよい季節となりましたね。

詩文楽というブログも、毎週土曜日に詩を訳して
上梓するのですが、わたしの人生の楽しみに
なっております。文字を読み、行間を読んで
翻訳をしているときには、時間の経つのを忘れます。

今月号のもぐら通信に書いていただいた中田耕治さんの
ルクレツィア•ボルジアというイタリアのルネッサンスの
時代を生きた美しい女性の伝記を読んで、当時のイタリアに
興味を持ち、このところ立続けに、塩野七生さんの著作を
読んでいます。人間の歴史というのは、面白い。悪逆非道の
人間達、権謀術数の限りを尽くす男達、のみならず女達も
出て来ますが、これも大した女達で、これが人間というもの
なのだと思います。

どの登場人物も非常に魅力的です。

何故か、昔から、アンパンマンではなく、バイキンマンに
惹かれるのです。たとえが、極端に、飛躍しますけれど。

悪を為す者こそ、魅力的です。

では、よい一日を、

岩田

2014年9月27日土曜日

『箱男』と『箱女』の時代



『箱男』と『箱女』の時代


昨日、朝の最寄り駅のプラットフォームの椅子に坐っていて、みるともなく人の姿をみていると、ある女子中学生が大きなヘッドフォンを両耳につけて、多分音楽を聞いているのだろう、その姿をふと目にした。

と、そう考えて見ると、このソニーのウォークマンという商品(携帯型ステレオカセットプレーヤー)に由来するこの手の商品は、Steve JobsのiPadやiPhoneも含めて、acusticな、聴覚的な箱男の世界をつくっていることに気付く。

だれもダンボール箱を被っては歩いていないが、ヘッドフォンを両耳、片耳につけて、目に見えない聴覚的な小さな、自分の身の丈にぴったりと合った空間を身に纏って歩いているわけである。

Wikipeidaで調べると、ソニーのウォークマンの発売は、1979年。安部公房の『箱男』が、1973年であるから、6年の差がある。

盛田さんという優れた経営者も、やはり時代の潮目を本質的に観ていたのだと、こうしてみると、思う。






もぐら通信(第25号)を発行しました




もぐら通信(第25号)を発行しました。ダウンロードは、次のところへ:



目次は、次の通りです。

1。ニュース&記録…page 2
2。目次…page 5
3。安部公房との時代(1):中田耕治…page 6
4。安部公房世界とサカナクション~一回性の言葉とリズムと旋律と~:
                          篠子良太…page 10
5。更科源蔵と安部公房:岩田英哉…page 12
6。吉田光彦の『毆者(ボクサー)』:編集部…page 21
7。笛井事務所公演『友達』再演を観て:タクランケ…page 23
8。もぐら通信の英語版の翻訳者を求む:編集部…page 25
9。もぐら感覚21(1):緑色:岩田英哉…page 26
10。読者からの感想...page 42
11。編集者短信:世に二つの悪法あり…page 43
12。編集後記...page 45

13。次号予告... page 45

2014年9月23日火曜日

1985年は如何なる歳であったか?


1985年は如何なる歳であったか?

もぐら通信(第15号)に「『一角獣の変身』における1963年の安部公房」を御寄稿戴いた秋川久紫さんの近著、私家版の『秋川久紫散文集 光と闇の祝祭』を、有難いことに戴いて、読んでいて、「1980年代後半の「文学性の喪失」?」を読み、次の箇所に行き当たった(同書136ページ)。

前職の上司から齋藤芽生という、東京芸大の油画科で教官をしている女流画家を教えてもらい、この画家を紹介しているある画廊のサイトにある本人の文章を読んで驚く次の箇所である。驚く理由を次のように続けている。

「1973年生まれの齋藤が、1980年代後半の変化を、とても的確に捉えているように思えたからだ。

「1980年代後半。流行歌の歌詞から情景描写が消えた。ふとそう思ったのが初めだった。様々な表現から、複雑で微妙なニュアンスが消え、当たり障りのない言葉が多用されるようになった。それまで日本人のどんな些細な表現の根底にも残っていた文学性が、いよいよ喪われてゆく予感がした。人が、自らの言葉で語ることをやめてゆく、そんな気がした。」(自己紹介分の冒頭部分)」」

著者も、日本語の詩の世界が確実につまらなくなったと感じて、その世界から離れたのが、1985年当たり、昭和末期から平成初だと書いている。

この詩の世界の動向とは全く別に、小説も詩に劣らず酷い状態であると、わたしもあるときから感じていて、その原因を探ってみて直ぐに思ったのは、ファミコンその他の類いのゲーム機器が子供達の間にあっという間に流行し、蔓延したことが、その主要な原因を3つ挙げよと言ったら、その3つのうちの一つが、これであろうと、わたしは思っていたのである。

それは、子供達が文字を読まなくなって、動画とRPG (Role Playing Game)に夢中になって、より刺戟の強い、直接的な遊びの世界に溺れているということが、物事の半面。もう半面は、日本の若者のうち、文学的な優れた才能と言語能力(論理的思考能力)のある若者達が、文学の世界には来ないで、ゲームソフトの開発のエンジニアとして、この業界にどんどん取られてしまっているのではないかということである。

後者は、確実に、日本の文学の衰退に力を貸していると、わたしは思っている。

著者に誘われるようにして、1985年をWikipeidaで検索すると、果たせるかな、1985は、次のような歳であるのだ。

1985年は電子的なゲーム機が大きな流行になった最初の歳で、次のような記述がある:http://ja.wikipedia.org/wiki/1985年


1985年のゲーム[編集]
第1回ハドソン全国キャラバン開催
『スーパーマリオブラザーズ』発売(9月13日)が大ヒット。社会現象に発展。
SG-1000の後継機『セガ・マークIII(正式名称:SG-1000III)(10月20日)』が発売    (セガ・エンタープライゼス)
業務用シューティングゲーム『グラディウス』(コナミデジタルエンタテインメ     ント)
業務用レースゲーム『ハングオン』(セガ・エンタープライゼス)
業務用シューティングゲーム『スペースハリアー』(セガ・エンタープライゼ      ス)


しかし、よく考えてみれば、小説という言語藝術の世界は、Role Playing Gameの世界と同じである。自分が想像して主人公になって文字を追うのである。RPGと、その根底においては、何を想像するかということと、その主人公と物語の筋の展開の在り方は、変わらない。

多分、1985年から、詩のみならず、文学という言語藝術の世界に、このようなことが起きたのだ。つまり、自然言語による文字で書かれた作品に、若者が面白みを感じなくなった。これは、どちらが原因で、どちらが結果かは、一概には言えない。他方、人工言語で書かれた作品(program)の方が、断然面白いと、若者が思うようになったのだ。

少し時代を遡って歴史を考えて見ると、写真機が誕生して、絵画が廃れたか?映画が生まれて、演劇が、劇場が廃れたか?、TVが生まれて、ラジオが廃れたか?卓上電子計算機が生まれて、算盤が廃れたか?PCが生まれて紙の書物が、書道が廃れたか?電子書籍が生まれて、紙の出版物が廃れたか?と、このように問うてみると良いのではないだろうか。

これらの質問に対しての答えは、結局、Noであり、それぞれの分野でその独自性、本来の固有の性格が何であるかを反省しない分野は衰弱し、そうでない分野は生き残ったということではないかと思う。

或いは、逆に、Yesであれば、固有の性格だけが、余計なものが削ぎ落ちただけ、細身になったということではないのだろうか。従い、これは、その分野を好む人口の減少を、確かに意味するだろう。

しかし、わたしの考えでは、それはそれぞれの分野がNicheになっただけで、表面的な消費の流行から離れて、今も生きていることができることだと思うのである。実際、そうに違いない。

さて、文学のその本来の細身の、固有の性格とは、同著にあるこの女流画家の言葉を引くと、

「あらゆる「表現の土壌」が、個人の複雑な内面にではなく、消費社会の表層に求められる傾向が加速した」

というこの、確かに鋭い発言から言って、表現の土壌を個人の複雑な内面に求めるということであるから、そうなっているのか?と、この問いをそのまま今の文学の世界に対して投げかけて、筆を執る者のすべてに、直接そう問うてみればよいのではないか?

その問いに答えようとして、その筆者がその道を行けば、「安易に自己否定(美術の否定)をするくらいなら、本当に死んでみたらいい。それくらいの覚悟がなければ、美の殺害者としてふるまうな。」という、著者秋川さんの引いている安部公房の言葉を理解するに至るだろう(全集第17巻、272ページ)。

最近、もぐら通信のために安部公房について書いていて、安部公房が確かに美を求める散文家であるということを確信できる、安部公房のtextを読んだ。その美を求める論理も誠に安部公房独自の論理であって、その論理は10代の少年のころから全く変わりはしないのであるけれど。しかし、美を求める散文家というものが果たしているのだろうか?安部公房の読者はこの問いに真剣に答えようとしてみたらいい。

その安部公房であるから、当時1963年の当時の前衛と自称他称していた30代の若い画家達に、その言葉だけの流行する世間に、辛辣な言葉を贈ったのであろう。このときから間違いなく、安部公房は、この前衛とか、アヴァンギャルドなどという流行の浮薄の言葉を一番軽蔑していた筈である。それは、「安部さんの最もおきらいな「前衛」という言葉」とインタビュアーが言っているのが、1985年であり、この歳にして尚そうであるから(1985年のインタビュー『方舟は発進せず』、全集第28巻、58ページ上段)。

安部公房は、この1985年のこのインタビューで、わたしが上で疑問文の形で、その藝術分野の固有の性格は何か?と問えばいいのだと問うたその問いに対する回答を、演劇、新聞や雑誌、TV、それから文学との関係で明快に答えている(全集第28巻、54ページ)。

今この文章を、秋川さんの言葉に触発されながら書いていて不図気付いたのであるが、安部公房のこのインタビューも1985年に行われたのである。このインタビューでの安部公房の(わたしの上の問いに対する)回答は、同時に秋川さんの問いにも答えているということになる。安部公房は、同時代を生きていて、間違いなく、確かに時代の変化をよく見ていたのである。

さて、上のような前衛美術家に贈った辛辣な言葉の根底にあるその論理を、後年安部公房は、「弱者への愛にはいつも殺意がこめられている」という小説『密会』のエピグラフを巡っての、作者の発言として全集にその解説の言葉を残している。このことに言及したわたしの文章から一部をそのまま、時機は少し早いのであるが、ここに転載して、閲覧に供する。

「[註6]
『裏からみたユートピア』(全集第25巻、503ページ)の最後の節「逆転した寓話」に、安部公房は次のようにこの『密会』の愛と殺意と弱者•強者の関係を解説しています。

「この小説のエピグラフとして僕は、「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」という言葉を置いたけれども、それが最後には裏返されて「弱者の幸せには、いつも殺される期待がこめられている」という感じに逆転していった。「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」と言っている立場と、小説を書いている僕の立場とは、ちょうど裏表なんだな。書きながら感じたんだが、強者である「馬人間」を仮に主人公とすると、この小説はやはり、僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いたということになる。ある意味で、「もの凄く美しく地獄を書こうとした」とも言えるし、また、ユートピアを裏から書いたとも言える。」(下線部筆者)

「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」と言っている立場は、強者、即ち「登録された空間に棲む人間達」の立場であり、「弱者の幸せには、いつも殺される期待がこめられている」という立場は、弱者、即ち「世間にとって未登録の空間」の中に孤独に居る「蹲る影」の立場だということになります。

「「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」と言っている立場と、小説を書いている僕の立場とは、ちょうど裏表なんだな」とありますから、小説家安部公房の立場は弱者の立場のように思われますが、実はそうではありません。続けて、「書きながら感じたんだが、強者である「馬人間」を仮に主人公とすると、この小説はやはり、僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いた(下線部筆者)ということになる」と言っているからです。

大切なことは、安部公房は強者•弱者のどちらか一方の立場に立って書いたといっているのではなく、「僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いた」と言っていることです。この論理は、この論考の最初で10代の安部公房の詩を解析したときに指摘した安部公房の顕著に特徴的な思考論理、即ち「安部公房は対象の周囲、周辺に着目するのです。対象以外のものに眼をやるのです。そうしておいて、その対象を、周囲にある物ではないものとして陰画で見るのです。」と指摘したことの、安部公房自身による証明になっております。安部公房は率直に自分と作品(対象)の関係を、ここで語っているのです。」

[岩田英哉]




もぐら通信(第25号)の目次が決まりましたのでお伝えします




           目次


1。ニュース&記録…page 2
2。目次…page 5
3。安部公房との時代(1):中田耕治…page 6
4。安部公房世界とサカナクション~一回性の言葉とリズムと旋律と~:
                          篠子良太…page 10
5。更科源蔵と安部公房:岩田英哉…page 12
6。吉田光彦の『毆者(ボクサー)』:編集部…page 21
7。笛井事務所公演『友達』再演を観て:タクランケ…page 23
8。もぐら通信の英語版の翻訳者を求む:編集部…page 25
9。もぐら感覚21(1):緑色:岩田英哉…page 26
10。読者からの感想...page 42
11。編集者短信:世に二つの悪法あり…page 43
12。編集後記...page 45
13。次号予告... page 45


発行は、9月27日、今週土曜日です。

2014年9月8日月曜日

法律の外に棲む子供について


法律の外に棲む子供について

わたしの好きな人間達は、どういうわけか皆、法律の外にいる子供である。以下に挙げてみよう。

1。寒山拾得
2。地下鉄サム

実は、これらの人間は、後でその絵画なり、小説なりを読んでみると、子供ではなく、大人であり、地下鉄サムなどは、どうも二十代後半から三十代前半の年齢に見える。

しかし、尚、これらの人間達は、わたしのこころの中では、法律の外にいる子供の姿として鮮明に記憶され、日々わたしと共に生きているのを感じる。更に、日本語でいうならば、

3。童子、何々童子
4。何々丸

と呼ばれる子供達も、わたしの深い友人である。

椎名麟三の「神の道化師」はよかった。まさしく、法律の外に生きる子供を生々しく描いている。

このような法律の外に棲む子供達が、わたしのこころに生きているので、わたしは安部公房の読者なのであろう。何故なら、安部公房の主人公達はみな法律の外に棲む人間達であるからだ。

そのような安部公房の主人公達を生んだ安部公房を、松岡正剛ははっきりと犯罪者と呼んでいる。『砂の女』と題した松岡正剛の

2014年9月6日土曜日

椎名麟三の短編集を読む


椎名麟三の短編集を読んだ。

実にどれも面白い。少しも古くない。安部公房が椎名麟三という人間を好いた理由もわかるように思う。[註]

そうして、この共産党員であったことのある椎名麟三の小説を読んで思う事は、大東亜戦争の経験から、結局戦後の共産主義者を始めとする左翼は、戦前と同じ間違いを犯したということである。

それは、命令に絶対的に従うことが、実にその人間を陶酔させるという、この人間の弱点ともいうべき性格に盲目的であったということだ。

人間は確かに、その組織とともに、一方の極から他方の極に、振り子のように触れるものである。これは、如何ともし難い、抗い難い運動である。

大事なことは、その運動の外に居るということである。

そこが文学の世界だと、わたしは思う。それは、一言でいうと、苦しみに負けてはならないということである。苦しみの代償に他のものを求めてはならないということである。

それは、純粋に遊びの、嬉遊の、遊戯の世界である。安部公房の世界はそのような世界足り得ている。


また、その世界を知る故に、わたしは、愚かな日本国民よ、愚かな日本人よということができるのだ。勿論、わたし自身を含めてであるが。

[註]
安部公房は、インテリではない、教養のない人間に、そうして貧しい人間に愛があるということを語った後に、次のように椎名麟三について、その最晩年に語っています。

「安部 本当にそうなんだよな。日本の作家では僕は昔から椎名麟三がとても好きだったですよ。もしかして日本で作家と言えるのは椎名麟三だけだったんじゃないかなという気がするのは、その部分(筆者註:椎名麟三には愛があったということ)ですね。」(『境界を超えた世界~小説『カンガルー•ノート』をめぐって』、全集第29巻、223ページ上段)

2014年9月5日金曜日

安部公房にとっての詩と小説の関係3:マルテの手記


安部公房にとっての詩と小説の関係3:マルテの手記


安部公房全集第1巻に「<僕は今こうやって>」と題した、見開き2ページの文章があります。

そこにこう書いてあります。


僕はマルテこそ一つの方向だと思っている。マルテが生とどんな関係を持つか等と云う事はもう殆ど問題ではないのだ。マルテの手記は外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記なのだ。マルテは形を持たない全体だ。マルテは誰と対立する事も無いだろう。


「第1の手紙~第4の手紙」という作品で、手記を書く事は「詩以前の事」を書く事だと言った安部公房は、やはりマルテにならって、そうしてその手記という形式を全く安部公房流に消化し、換骨奪胎して変形させ、「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力の手記」としたのです。

この「外面から内面の為の窪みをえぐり取ろうとする努力」のことを、後年、安部公房は「消しゴムで書く」と言っています。

そうして安部公房は、その消しゴムを以て、顔を書き、手を書き、壷を書いたのだと思います。

その手記はみな、外面と内面の果てしのない交換のことについての手記でありました。

これが、安部公房の小説の根本にあることだと、わたしは思います。

これが一体どのようなことなのかは、安部公房全集第1巻の「詩と詩人」に詳しく論ぜられております。以下、安部公房のこの10代の散文を詳しく読み解きましたので、お読み戴ければと思います。


1。18歳の安部公房

2。19歳、20歳の安部公房


3。19歳、20歳の安部公房2


4。19歳、20歳の安部公房3



尚、これらの論考は、更に手を入れて、ひとつに纏め、キンドル本に仕立て、次のアマゾンのURLにて購入することができます。





2014年9月4日木曜日

安部公房の戯曲『友達』、小説『闖入者』とリルケの『マルテの手記』


先日の笛井事務所による『友達』再演の稽古場の訪問記を、先月号(第24号)のもぐら通信に書きましたが、あと気がついて、ひとつ書き漏らした大事なことを補記します。

『友達』や『闖入者』という作品に出て来る旅する擬似家族という主題は、リルケの『マルテの手記』に出て来ます。

この擬似家族という主題は、そのあとも安部公房の小説に繰り返し、表立ってはいなくとも、出て来るものです。

安部公房が10代で、リルケをどのように読み、換骨奪胎したかということを考えると、その読みの凄まじさに驚く以外にはありません。そうであればこその、後年の安部公房が居るのです。

2014年9月3日水曜日

蘇る恐怖の名作、安部公房『友達』上演へ:笛井事務所



笛井事務所による『友達』再演の記事が、次のURLに掲載されましたので、お伝えします。



演出には文化庁新進芸術家海外留学制度によってブロードウェイ研修を積み、今年2月に嶽本野ばら原作・いしだ壱成主演の「破産」を演出して好評を博した文学座注目の若手・望月純吉、プロデュースは無名塾出身の女優でテレビドラマ等に出演の後、単身渡米し、ニューヨーク留学中に演劇プロジェクト・笛井事務所を立ち上げた奥村飛鳥が手掛けます。


【上演詳細】

日程 2014年9月18日(木)~21日(日)
劇場 明石スタジオ(東京・高円寺)
出演 土田卓 山本祐梨子(劇団俳優座)奥村飛鳥 桂憲一(花組芝居)、他
チケット 3500円~4200円

※タイムテーブル等は笛井事務所Facebookページ(http://www.facebook.com/FeyOffice)を参照


【作品について】

1967年に発表された「友達」は数ある安部公房戯曲の中でも、最も人気のある作品であり、不変の人間社会を描いています。

近年では2012年に起きた尼崎での事件に酷似していると言われ、衝撃が走りましたが、安部公房ファンマガジン「もぐら通信」を発行するコアなファンからは、インターネットやSNSなど情報やツールが溢れる中で他人との付き合い方に悩んだり、コミュニケーション不足によるトラブルに苛まれる私たち現代人の日常にこそ、安部公房が「友達」によって提起した問題が潜んでいると考えられています。

安部公房にとっての詩と小説の関係2:愚者の文学


安部公房にとっての詩と小説の関係2:愚者の文学


安部公房の詩集の題名は「無名詩集」という。


前回書いたように、安部公房の小説はすべて「詩以前の事」を書いたものである。特に手記の形式の小説では、そのことがはっきりと出ていると思う。

さて、そうだとして、またそうであれば、安部公房の小説の主人公はみな、無名の人、無名子であるということができる。

そして、主人公は無知の人間として描かれている。

これは、そのまま愚者の文学と呼んでよい領域の文学のひとつが、安部公房の文学だといってもよいと、わたしは思う。

無知な人間ということは、世間的に見れば、役立たず、無能な人間ということであり、馬鹿者、阿呆者ということである。

イワンの馬鹿(ロシア)や、阿呆物語(ドイツ)等々、他にも色々と世界中に、多分民話のような形であるのではないだろうか。

また、無知な人間ということから、そのような人間は成長して行くわけであるから、安部公房の小説は、無知な主人公の成長を描いた一種のBildingsroman、ビルデゥングス•ロマーン(教養小説)と見る事もできると思う。哲学的な、人間の意識の成長と変化、変貌を描いた相当抽象的で、その意味では相当変わったビルデゥングス•ロマーンではあるけれども。

こう書いて来て、このように考えるのであれば、トーマス•マンの魔の山も愚者の文学だということに気がついた。主人公は、なんということのない平凡な名前ハンスという名前の主人公である。


2014年9月2日火曜日

安部公房にとっての詩と小説の関係について



安部公房にとっての詩と小説の関係について

安部公房全集第1巻に「第1の手紙ー第4の手紙」という作品がある。これは、1947年の作品。

これは、安部公房が詩について書いた文章です。手紙の体裁をとっていて、いつも誰か見知らぬ相手、あるいはもっと言えば安部公房自身の中のもうひとりの読者に向かって書いている手紙体、または手記の形の作品です。

そうして、その安部公房の典型的な手記の形式を以て、詩について書いているのです。

第1の手紙を少し読み進めますと、次の一節があります。


驚かないで下さい。此の僕の取った未知と云うのは、<詩以前の事>について書く事だったのです。勿論それにこだわる事は止しましょう。だが、<詩以前の事>は、森に包まれた山路の様なものです。


この一文で明らかなことは、安部公房にとって、手記という形式の散文は、その言葉をそのまま信じると「詩以前の事」を書いているものなのである。そうして、これは、その通りだと信じてよいと思われる。

この「詩以前の事」の「詩以前」とは、時間の中で詩の生まれた先後をいうのではなく、むしろ全くその逆で、時間を捨象して(これが安部公房らしい)、「詩以前」と言っているということなのです。

詩の前にある事、そうして詩の基礎になっている物事を書く事、それも手紙や手記の形式でそのような「詩以前の」物事を書く事、これが安部公房にとっての散文の意味であり、それがひとに小説と呼ばれるものになった最初の姿なのだということがわかります。

従い、安部公房にとって、詩と小説の関係は、詩は詩、「詩以前の事」を書いたのが小説ということになるでしょう。

安部公房がこのように考えて小説を書いたということは、とても大切な事だと思います。

安部公房は無名詩集をとても大切にしていて、小説家として名をなしてからも、自分のよき理解者には、この詩集を手渡して、そのこころを表していました。

追記:

第1の手紙は、詩と「詩以前の事」について、
第2の手紙は、歩道について[これは既に「問題の下降に依る肯定の批判」(1942年)という10代のエッセイでは、遊歩道として出て来たものと同じイメージのものです。]
第3の手紙は、顔と手について[仮面と手袋を装着することについて]
第4の手紙は、やはり顔と手について[装着した後の顔と手について]

遊歩道や顔や手は、安部公房がその種子から大切に育て、はぐくんだイメージ、形象のひとつです。


これらについては稿を改めて論じたいと思います。