1985年は如何なる歳であったか?
もぐら通信(第15号)に「『一角獣の変身』における1963年の安部公房」を御寄稿戴いた秋川久紫さんの近著、私家版の『秋川久紫散文集 光と闇の祝祭』を、有難いことに戴いて、読んでいて、「1980年代後半の「文学性の喪失」?」を読み、次の箇所に行き当たった(同書136ページ)。
前職の上司から齋藤芽生という、東京芸大の油画科で教官をしている女流画家を教えてもらい、この画家を紹介しているある画廊のサイトにある本人の文章を読んで驚く次の箇所である。驚く理由を次のように続けている。
「1973年生まれの齋藤が、1980年代後半の変化を、とても的確に捉えているように思えたからだ。
「1980年代後半。流行歌の歌詞から情景描写が消えた。ふとそう思ったのが初めだった。様々な表現から、複雑で微妙なニュアンスが消え、当たり障りのない言葉が多用されるようになった。それまで日本人のどんな些細な表現の根底にも残っていた文学性が、いよいよ喪われてゆく予感がした。人が、自らの言葉で語ることをやめてゆく、そんな気がした。」(自己紹介分の冒頭部分)」」
著者も、日本語の詩の世界が確実につまらなくなったと感じて、その世界から離れたのが、1985年当たり、昭和末期から平成初だと書いている。
この詩の世界の動向とは全く別に、小説も詩に劣らず酷い状態であると、わたしもあるときから感じていて、その原因を探ってみて直ぐに思ったのは、ファミコンその他の類いのゲーム機器が子供達の間にあっという間に流行し、蔓延したことが、その主要な原因を3つ挙げよと言ったら、その3つのうちの一つが、これであろうと、わたしは思っていたのである。
それは、子供達が文字を読まなくなって、動画とRPG (Role Playing Game)に夢中になって、より刺戟の強い、直接的な遊びの世界に溺れているということが、物事の半面。もう半面は、日本の若者のうち、文学的な優れた才能と言語能力(論理的思考能力)のある若者達が、文学の世界には来ないで、ゲームソフトの開発のエンジニアとして、この業界にどんどん取られてしまっているのではないかということである。
後者は、確実に、日本の文学の衰退に力を貸していると、わたしは思っている。
著者に誘われるようにして、1985年をWikipeidaで検索すると、果たせるかな、1985は、次のような歳であるのだ。
1985年は電子的なゲーム機が大きな流行になった最初の歳で、次のような記述がある:http://ja.wikipedia.org/wiki/1985年
1985年のゲーム[編集]
• 第1回ハドソン全国キャラバン開催
• 『スーパーマリオブラザーズ』発売(9月13日)が大ヒット。社会現象に発展。
• SG-1000の後継機『セガ・マークIII(正式名称:SG-1000III)(10月20日)』が発売 (セガ・エンタープライゼス)
• 業務用シューティングゲーム『グラディウス』(コナミデジタルエンタテインメ ント)
• 業務用レースゲーム『ハングオン』(セガ・エンタープライゼス)
• 業務用シューティングゲーム『スペースハリアー』(セガ・エンタープライゼ ス)
しかし、よく考えてみれば、小説という言語藝術の世界は、Role Playing Gameの世界と同じである。自分が想像して主人公になって文字を追うのである。RPGと、その根底においては、何を想像するかということと、その主人公と物語の筋の展開の在り方は、変わらない。
多分、1985年から、詩のみならず、文学という言語藝術の世界に、このようなことが起きたのだ。つまり、自然言語による文字で書かれた作品に、若者が面白みを感じなくなった。これは、どちらが原因で、どちらが結果かは、一概には言えない。他方、人工言語で書かれた作品(program)の方が、断然面白いと、若者が思うようになったのだ。
少し時代を遡って歴史を考えて見ると、写真機が誕生して、絵画が廃れたか?映画が生まれて、演劇が、劇場が廃れたか?、TVが生まれて、ラジオが廃れたか?卓上電子計算機が生まれて、算盤が廃れたか?PCが生まれて紙の書物が、書道が廃れたか?電子書籍が生まれて、紙の出版物が廃れたか?と、このように問うてみると良いのではないだろうか。
これらの質問に対しての答えは、結局、Noであり、それぞれの分野でその独自性、本来の固有の性格が何であるかを反省しない分野は衰弱し、そうでない分野は生き残ったということではないかと思う。
或いは、逆に、Yesであれば、固有の性格だけが、余計なものが削ぎ落ちただけ、細身になったということではないのだろうか。従い、これは、その分野を好む人口の減少を、確かに意味するだろう。
しかし、わたしの考えでは、それはそれぞれの分野がNicheになっただけで、表面的な消費の流行から離れて、今も生きていることができることだと思うのである。実際、そうに違いない。
さて、文学のその本来の細身の、固有の性格とは、同著にあるこの女流画家の言葉を引くと、
「あらゆる「表現の土壌」が、個人の複雑な内面にではなく、消費社会の表層に求められる傾向が加速した」
というこの、確かに鋭い発言から言って、表現の土壌を個人の複雑な内面に求めるということであるから、そうなっているのか?と、この問いをそのまま今の文学の世界に対して投げかけて、筆を執る者のすべてに、直接そう問うてみればよいのではないか?
その問いに答えようとして、その筆者がその道を行けば、「安易に自己否定(美術の否定)をするくらいなら、本当に死んでみたらいい。それくらいの覚悟がなければ、美の殺害者としてふるまうな。」という、著者秋川さんの引いている安部公房の言葉を理解するに至るだろう(全集第17巻、272ページ)。
最近、もぐら通信のために安部公房について書いていて、安部公房が確かに美を求める散文家であるということを確信できる、安部公房のtextを読んだ。その美を求める論理も誠に安部公房独自の論理であって、その論理は10代の少年のころから全く変わりはしないのであるけれど。しかし、美を求める散文家というものが果たしているのだろうか?安部公房の読者はこの問いに真剣に答えようとしてみたらいい。
その安部公房であるから、当時1963年の当時の前衛と自称他称していた30代の若い画家達に、その言葉だけの流行する世間に、辛辣な言葉を贈ったのであろう。このときから間違いなく、安部公房は、この前衛とか、アヴァンギャルドなどという流行の浮薄の言葉を一番軽蔑していた筈である。それは、「安部さんの最もおきらいな「前衛」という言葉」とインタビュアーが言っているのが、1985年であり、この歳にして尚そうであるから(1985年のインタビュー『方舟は発進せず』、全集第28巻、58ページ上段)。
安部公房は、この1985年のこのインタビューで、わたしが上で疑問文の形で、その藝術分野の固有の性格は何か?と問えばいいのだと問うたその問いに対する回答を、演劇、新聞や雑誌、TV、それから文学との関係で明快に答えている(全集第28巻、54ページ)。
今この文章を、秋川さんの言葉に触発されながら書いていて不図気付いたのであるが、安部公房のこのインタビューも1985年に行われたのである。このインタビューでの安部公房の(わたしの上の問いに対する)回答は、同時に秋川さんの問いにも答えているということになる。安部公房は、同時代を生きていて、間違いなく、確かに時代の変化をよく見ていたのである。
さて、上のような前衛美術家に贈った辛辣な言葉の根底にあるその論理を、後年安部公房は、「弱者への愛にはいつも殺意がこめられている」という小説『密会』のエピグラフを巡っての、作者の発言として全集にその解説の言葉を残している。このことに言及したわたしの文章から一部をそのまま、時機は少し早いのであるが、ここに転載して、閲覧に供する。
「[註6]
『裏からみたユートピア』(全集第25巻、503ページ)の最後の節「逆転した寓話」に、安部公房は次のようにこの『密会』の愛と殺意と弱者•強者の関係を解説しています。
「この小説のエピグラフとして僕は、「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」という言葉を置いたけれども、それが最後には裏返されて「弱者の幸せには、いつも殺される期待がこめられている」という感じに逆転していった。「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」と言っている立場と、小説を書いている僕の立場とは、ちょうど裏表なんだな。書きながら感じたんだが、強者である「馬人間」を仮に主人公とすると、この小説はやはり、僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いたということになる。ある意味で、「もの凄く美しく地獄を書こうとした」とも言えるし、また、ユートピアを裏から書いたとも言える。」(下線部筆者)
「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」と言っている立場は、強者、即ち「登録された空間に棲む人間達」の立場であり、「弱者の幸せには、いつも殺される期待がこめられている」という立場は、弱者、即ち「世間にとって未登録の空間」の中に孤独に居る「蹲る影」の立場だということになります。
「「弱者への愛には、いつも殺意がこめられている」と言っている立場と、小説を書いている僕の立場とは、ちょうど裏表なんだな」とありますから、小説家安部公房の立場は弱者の立場のように思われますが、実はそうではありません。続けて、「書きながら感じたんだが、強者である「馬人間」を仮に主人公とすると、この小説はやはり、僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いた(下線部筆者)ということになる」と言っているからです。
大切なことは、安部公房は強者•弱者のどちらか一方の立場に立って書いたといっているのではなく、「僕の眼で書いたのではなく、僕が自分の眼にはしたくない眼でこの世の中を書いた」と言っていることです。この論理は、この論考の最初で10代の安部公房の詩を解析したときに指摘した安部公房の顕著に特徴的な思考論理、即ち「安部公房は対象の周囲、周辺に着目するのです。対象以外のものに眼をやるのです。そうしておいて、その対象を、周囲にある物ではないものとして陰画で見るのです。」と指摘したことの、安部公房自身による証明になっております。安部公房は率直に自分と作品(対象)の関係を、ここで語っているのです。」
[岩田英哉]
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