安部公房にとっての詩と小説の関係2:愚者の文学
安部公房の詩集の題名は「無名詩集」という。
前回書いたように、安部公房の小説はすべて「詩以前の事」を書いたものである。特に手記の形式の小説では、そのことがはっきりと出ていると思う。
さて、そうだとして、またそうであれば、安部公房の小説の主人公はみな、無名の人、無名子であるということができる。
そして、主人公は無知の人間として描かれている。
これは、そのまま愚者の文学と呼んでよい領域の文学のひとつが、安部公房の文学だといってもよいと、わたしは思う。
無知な人間ということは、世間的に見れば、役立たず、無能な人間ということであり、馬鹿者、阿呆者ということである。
イワンの馬鹿(ロシア)や、阿呆物語(ドイツ)等々、他にも色々と世界中に、多分民話のような形であるのではないだろうか。
また、無知な人間ということから、そのような人間は成長して行くわけであるから、安部公房の小説は、無知な主人公の成長を描いた一種のBildingsroman、ビルデゥングス•ロマーン(教養小説)と見る事もできると思う。哲学的な、人間の意識の成長と変化、変貌を描いた相当抽象的で、その意味では相当変わったビルデゥングス•ロマーンではあるけれども。
こう書いて来て、このように考えるのであれば、トーマス•マンの魔の山も愚者の文学だということに気がついた。主人公は、なんということのない平凡な名前ハンスという名前の主人公である。
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