人気の投稿

2015年1月31日土曜日

安部公房の単行本(2):『西武のクリエイティブワーク  不思議、大好き』


安部公房の単行本(2):『西武のクリエイティブワーク   不思議、大好き』




リブロポート  1982年  カバー帯付  36.3cm×25.8cm

開高健、浅葉克己、安部公房、伊丹十三、糸井重里、菊竹清訓、坂本龍一、篠山紀信、田中一光、山口昌男、横尾忠則他筆。

安部公房の単行本(1):『人間そっくり』



安部公房の単行本(1):『人間そっくり』

昭和43年3月20日、早川書房発行、新書判


2015年1月30日金曜日

Kindle本『もぐら感覚6:手』の無料キャンペーンのお知らせです


Kindle本『もぐら感覚6:手』の無料キャンペーンのお知らせです

http://goo.gl/b1Zkng

もぐら通信に連載して来た『もぐら感覚』の分冊です。連載第6回目の、安部公房の『手』について論じております。

キャンペーン期間は、明日31日より2月4日までの5日間です。

安部公房にとって、手とは一体何であったかを論じています。

安部公房にとっては、片手と両手は意味の違う手の在り方でした。

その意味を解き明かした論考です。

安部ねりさんの著書『安部公房伝』にあるエピソード、あるとき安部公房がねりさんに、

「「ねり、手って何か特別な感じがしないか」と父は私に話しかけた。私が「どう特別なの?」と言うと、父は「たとえば道に、手が落ちているとする だろう。そうしたら、とてもびっくりするじゃないか」と脱線をし、「それなら足首が落ちてたってびっくりするし、首が落ちていたらもっと驚くじゃない」 と、親子らしいすれ違いをしてしまった。」

とある、安部公房がそのような質問をした理由を解き明かしています。

もちろんこればかりではなく、それぞれの手の在り方が、様々な作品との関係で解き明かされております。

この論考をお読みになれば、安部公房全集第30巻の扉を開いて直ぐにある見開きの安部公房の左手の写真の意味が、なぜ安部公房が自分自身で此の左手(片手)を撮影したのかの深い意味を知ることができることでしょう。

ご興味のある方に、お読み戴けるとありがたく存じます。

http://goo.gl/b1Zkng

2015年1月29日木曜日

来月号のもぐら通信(第30号)の目次が決まりましたのでお知らせします。


来月号のもぐら通信(第30号)の目次が決まりましたのでお知らせします。

⒈ 映画/SFはSF/映画に何を期待できるか:『SFマガジン』(1961年12月号)(*)
⒉ 詩人たちの論じた安部公房(連載第3回):三木卓『非現実小説の陥穽ー安部公房『砂の女』をめぐってー』
⒊ レオの語る『砂の女』感想文:レオ(**)
⒋ 『カンガルー・ノート』~掟破りに疾走するアトラス社製自走式病院用ベッド~:滝口健一郎 
⒌ 海外の書評から:編集部
⒍ 海外で読まれている安部公房作品:編集部
⒎ もぐら感覚23:明日の新聞 :岩田英哉
⒏ 読者感想
⒐ 編集者通信

(*)この座談会は、安部公房全集未収録の座談会です。
(**)レオさんは、大阪在住の 小学校6年生(10歳)の公房読みです。

2015年1月27日火曜日

「もぐら感覚7:透明感覚」の無料キャンペーンのお知らせです。


「もぐら感覚7:透明感覚」の無料キャンペーンのお知らせです。

1月27日(本日)から31日までの5日間です。

安部公房の透明感覚は、もちろんリルケの「マルテの手記」にならってもので、それが何であるのか、そうして、なぜ安部公房の主要な作品の最後にいつも、死の予感として、しかしそのまま自由の予感として出てくるのかを、安部公房の作品に即して、論じております。

あなたが安部公房をより深く理解するお役に立つと思います。

ダウンロードは、次のURlです。:

http://goo.gl/CZrSbm




2015年1月26日月曜日

安部公房の『砂の女』と三島由紀夫の『金閣寺』の結末の反対方向の相同について

安部公房の『砂の女』と三島由紀夫の『金閣寺』の結末の反対方向の相同について

金閣寺の結末を読みましたが、これは砂の女の結末と反対方向に全く同じでした。

前者は、金閣寺の最上階の小部屋(美中の美の存在する)の扉を叩いて、その扉は開かず、その美たる小部屋に拒否されたと思って諦め、炎の中を階段を下におりて外にでて、その後金閣寺は目にみえない状態で(場所にいて)、金閣寺はみえないものの、燃え上がる炎を目にするわけですが、そこで、自殺のために用意した小刀とカルチモンを投げ捨てて、陽画である社会の中に生きて行こうと決心します。

他方、後者、即ち安部公房の砂の女は、地上の上の建築物ではなく、地下に掘られた穴の中で、扉があるわけではなく(強いて言えば縄梯子で)、砂の穴は最初から天が開いていて、その梯子は主人公を拒否することはなく、炎ではなく砂の壁を(縄ばしごで)降りて穴の中に入って、その後は、砂の穴の外はみえない状態で、穴の外側の世界はみえないものの、砂の穴の内側にいて、陰画として流動する(垂直には燃え上がらない)砂を目の当たりにして、発明した留水装置を(捨てることなく)大切にして、砂の穴の外ではなく陰画としての社会の中に生きて行こうと決心します。

こう書いてきても、実に三島由紀夫と安部公房は、同じ接点を共有していながら、お互いに反対方向を向いていると、安部公房がいっている通りの結末だと思いました。

『金閣寺』は昭和35年、1960年の刊行、『砂の女』は昭和37年、1962年、安部公房が日本共産党を除名された翌年の作品です。

2015年1月25日日曜日

安部公房と三島由紀夫の最も共通した主題を『安部公房の広場』へのアクセス数で見ると


安部公房と三島由紀夫の最も共通した主題を『安部公房の広場』へのアクセス数で見ると

本日のこの時刻この投稿の時点で、安部公房と三島由紀夫の最も共通した主題を『安部公房の広場』へのアクセス数で見るとどうなるかを調べてみました。

この『安部公房の広場』で、断トツにアクセス数の多いのが、次の二つの記事です。

1。三島由紀夫の『愛の処刑』と安部公房:1802アクセス
2。弱者への愛にはいつだって殺意がこめられているか?:1643アクセス

これをみると、安部公房と三島由紀夫の共通の主題は、愛であるということになります。

これは、誠に興味深いことです。何故ならば、安部公房スタジオ時代の安部公房は、あるとき役者たちに、ある文脈において、何が一番大切だと思うかと問い、役者たちが答えられないでいると、それは愛なんだと言ったからです。

この安部公房の、いつも別れと死と、そして緑色と一式になっている愛については、『もぐら感覚21:緑色』(もぐら通信第25号と第26号)で論じましたので、お読み下さい。

それでは、三島由紀夫の愛は一体は何であったのか、これを問うて、答えることになるでしょう。

さて、第3位は、『ヤマザキマリのジャコモ・フォスカリを読む』で、1285アクセスです。

ひょっとすると、このヤマザキマリさんの漫画、安部公房と三島由紀夫の登場する此の主題も、愛なのではないかと思われます。


2015年1月24日土曜日

もぐら通信第29号をお届け致します。

こんにちは、

もぐら通信第29号をお届け致します。

今月号は、

1.詩人長田弘 『安部公房を読む』と、
2.岩田英哉 『安部公房と共産主義』

この二つをお届けいたします。

前者の論考では、この一流の詩人による論によって、『砂の女』が如何に安部公房の人生にとって転回的な作品であるかその意義が明らかになりました。この論考は、当時は安部公房の頭のなかで構想されていた筈の安部公房後期の、1970年代の最初の第一作『箱男』に至るまでの読解の射程を備えています。

後者の論考では、この詩人の優れた読解を受け継いで、同時に1950年代の安部公房の日本共産党員時代のテキストを読むことによって、何故安部公房が詩人から散文家に変容することができたのか、そうして安部公房の詩人としての危機は何であったのか、どうやってそれを超克したのか、安部公房がそれによって得たものは何かを明らかにしております。

と、 同時に、何よりも大切なことは、この共産主義を克服する安部公房を知ることによって、その前後のすべての、即ち10代の詩群から最晩年の遺作『飛ぶ男』に至るまでの安部公房の藝術活動がすべて一つにまとまり、整理されて、有機的な関係の総体として、安部公房の人生が、わたしたち読者の目の前に開かれることになったことです。

この第29号という新年号は、その意義においても、もぐら通信と読者にとって転回的な、記念すべき号となりました。

もぐらのあなた自身にとっても、今年が良き歳でありますように。

ダウンロードは、次のURLです:

http://goo.gl/xURrp6

それでは、今月もまた、あなたの巣穴で、安部公房との楽しいひと時をお過ごしください。

では、また次号にてお目にかかります。

もぐら通信

2015年1月23日金曜日

ドナルド・キーンさんがTVに出演《NHK 戦後史証言プロジェクト》


ドナルド・キーンさんがTVに出演

ドナルド・キーンさんが、ETVの1月24日(土)午後11時〜0時30分「日本人は何をめざしてきたのか〜知の巨人たち 第7回 昭和の虚無を駆けぬける〜三島由紀夫〜」:
http://www.nhk.or.jp/postwar/program/schedule/

に出演なさいます。

写真は収録時のスナップです。


他に三輪明宏、横尾忠則、高橋睦郎の各氏も出ているそうです。

安部公房の読者であるあなたには、何故キーンさんが、安部公房と三島由紀夫双方の親しい友であったかをよく考えてもらいたいと思います。

安部公房を自分勝手な思い込みで神聖化したり、絶対化したりして祭り上げ、そうして、自分の思い描いた安部公房像が少しでも傷つけられると、その相手を排除したり否定したりすることは、安部公房が一番嫌い、否定したことだと、わたしは思います。それは、安部公房という言語藝術家に対して敬意を払うことではなく、全く逆のことであると私は思います。

三島由紀夫という誤解されてきた、この安部公房の親しき友に対する誤解は、従い、また同時に、安部公房に対する誤解でもあるのです。

(わたしは、この安部公房についての誤解を解くために、『安部公房と共産主義』と題する論考を書きました。明日発行するもぐら通信(第29号)をお読み下さい。)

三島由紀夫を読むと、実に安部公房がよくわかります。あなたにも、三島作品をお読みになってみることをお勧めいたします。それは、勿論、安部公房をよりよく理解することになるからです。

二人は、シャム双子のように良く似ております。

三島由紀夫全集の編集者でもあり、安部公房全集の編集者でいらした宮西忠正さんは、実に鋭い指摘をなさいました。

三島由紀夫も安部公房も、ふたりとも、大東亜戦争の日本の敗北によって、制服を失った人間たちなのだ、と。

わたしも、そう思います。

キーン先生の言葉に傾聴いたしましょう。






2015年1月21日水曜日

『もぐら感覚5:窓』の無料キャンペーンのお知らせです。

『もぐら感覚5:窓』の無料キャンペーンのお知らせです。

もぐら通信にこれまで連載して参りました『もぐら感覚シリーズ』の5番目『もぐら感覚5:窓』をアマゾンのキンドル本にて上梓しました。

無料キャンペーンの期間は、本日1月21日より1月25日までの5日間です。

この後、順次、およそ半年をかけて、全22作品の『もぐら感覚シリーズ』を分冊にして、単品とし、その都度無料キャンペーンを予定しております。

『もぐら感覚5:窓』のダウンロードについては、次のURLへお越し下さい:

http://goo.gl/jlAvcJ

7作品づつまとめて既に3巻を刊行しておりますので、そちらがよいという方は、次のURLへお越しください。:

1。もぐら感覚1:http://goo.gl/hz7FDD
I もぐらの精神
II もぐら感覚の初出
III もぐらの一番最後の文献
IV もぐらの初出と触覚
V 窓
VI 手
1。存在の手
2。片手と両手
VII 透明感覚

2。もぐら感覚2:http://goo.gl/ZMKQdv
VIII 笑い
IX 顔
X  かいわれ大根
XI 自走するベッド
XII ひとさらい
XIII 放蕩息子
XIV 夜

3。もぐら感覚3:http://goo.gl/W92Ygq
(1)もぐら感覚15:便器
(2)もぐら感覚16:贋の父親
(3)もくら感覚17:笛
(4)もぐら感覚18:部屋
(5)もぐら感覚19:様々と窪み
(6)もぐら感覚20:窪み
(7)もくら関学21:緑色

2015年1月14日水曜日

『もぐら感覚1〜4:もぐらの精神』の無料キャンペーン


『もぐら感覚1〜4:もぐらの精神』の無料キャンペーン

もぐら通信にこれまで連載して参りました『もぐら感覚シリーズ』をアマゾンのキンドル本にて上梓しました。

無料キャンペーンの期間は、明日1月15日より1月19日までです。

この後、順次、およそ半年をかけて、全22作品の『もぐら感覚シリーズ』を分冊にして、単品とし、その都度無料キャンペーンを予定しております。

21世紀の現代のわれわれの意識のありかたにふさわしい形式に合わせようと思いました。

わたしたちは総花的なレコード・アルバムはもはや買いたいとは思いませんが、iTuneで好きな単品の一曲一曲をダウンロードして自分独自のコレクションを作りたいと思っているのです。

安部公房は、その最初期から(『終りし道の標べに』)最晩年に至るまで(『もぐら日記』)、自らをもぐらに譬(たと)えています。もぐらは、安部公房の生涯に亘る自己に対する自己自身の象徴(icon)なのです。

今回の『もぐら感覚1〜4:もぐらの精神』については、次のURLへお越し下さい:

http://goo.gl/dCRvId

7作品づつまとめて既に3巻を刊行しておりますので、そちらがよいという方は、次のURLへお越しください。:

1。もぐら感覚1:http://goo.gl/hz7FDD
I もぐらの精神
II もぐら感覚の初出
III もぐらの一番最後の文献
IV もぐらの初出と触覚
V 窓
VI 手
1。存在の手
2。片手と両手
VII 透明感覚

2。もぐら感覚2:http://goo.gl/ZMKQdv
VIII 笑い
IX 顔
X  かいわれ大根
XI 自走するベッド
XII ひとさらい
XIII 放蕩息子
XIV 夜

3。もぐら感覚3:http://goo.gl/W92Ygq
(1)もぐら感覚15:便器
(2)もぐら感覚16:贋の父親
(3)もくら感覚17:笛
(4)もぐら感覚18:部屋
(5)もぐら感覚19:様々と窪み
(6)もぐら感覚20:窪み
(7)もくら関学21:緑色

2015年1月9日金曜日

何故安部公房はニュートラル( neutral)という言葉を選択して、安部公房スタジオの俳優たちを演技指導したのか?

何故安部公房はニュートラル( neutral)という言葉を選択して、安部公房スタジオの俳優たちを演技指導したのか?

この問いをもっと短く簡潔にすると、何故安部公房はニュートラル(neutral)という言葉を選んだのか、という問いになります。そうして、その言葉で何を安部公房スタジオの俳優たちに伝えたかったのか、それによって安部公房は何を舞台で実現したかったのかという問いになるでしょう。

わたしの仮説は、1970年11月25日に三島由紀夫が切腹による死を選んでから、その衝撃を内心深甚に受けた安部公房は、10代の自分の詩とリルケの詩、即ち後者にあっては尚純粋空間に回帰したという仮説です。

この仮説に従って、この問いに答えることができます。

安部公房は、1961年9月6日に日本共産党を除名された翌年、1962年に『砂の女』を発表して、その作家としての世間的な評価を確立し、その後初版の『終りし道の標べに』(1948年)を改稿して、1965年にそれを公けにしております。

このとき、初版にあった、10代から20代前半、即ち1950年代の半ばまでの間の我が身の命を救い、その身を養ってきた、安部公房の命とも云うべき安部公房独自の哲学用語をすべて消してしまって、それらを隠してしまいました。

さて、1970年11月25日の三島由紀夫の詩に衝撃を受けた安部公房は、この自分の文学の出発点に回帰して、自分の人生を反省し、一体自分の文学はどのようなものであったか、これからどうして生きていったらよいのかを言語藝術家として真剣に考えたのです。

それは、即ち、小説以前、更に即ち詩の世界に回帰することでした。この時期、1970年11月25日から、安部公房スタジオを創立する1973年1月の期間に、安部公房はこのことを考え、そうして23歳で上梓した『無名詩集』(1947年)と其れ以前に書いた10代の詩を読み返したのです。

安部公房全集を読みますと、安部公房の思考の特徴は、何か自分の人生の転機に当たっては、その最初に戻って物を考えるということ、即ち、思考し論ずる対象「以前」に戻って考えるということです。(即ち、時間を捨象して、物事の本来の、根源的なあり方として物事を考える、そのそもそもを考えるのです。存在という言葉の選択が既にそのまま其のことを示しております。)

従い、このときも安部公房は、詩以前のこと、即ち存在について、演劇以前のこと、即ち存在について、そうして人間が存在することについて考えたのです。この存在は、10代の安部公房の詩と、初版の『終りし道の標べ』にという手記体の散文作品の中核をなす言葉であり概念です。

即ち、個人の視点では未分化の実存と10代の安部公房が呼んだ実存のあり方、他方人間一般のあり方としては、此の人間も個人も含んだ宇宙と世界のあり方の根底にある物事の名前であるこの存在という言葉を思い出し、舞台芸術のために取り上げたのです。

後者、即ち存在を、ドイツ語ではdas Sein(ダス・ザイン)と言います。

ドイツ語の名詞には、3つの文法的な性(gender)があり、男性名詞、女性名詞、中性名詞といます。ドイツ語の文法用語で、それぞれMaskulinum, Femininum, Neutrumといます。

上の存在、das Seinは、dasという定冠詞のついている通りに、これは中性名詞、Netrumです。

敗戦後の日本の教育は、何事も戦勝国のアメリカの風になって英語が流行していますし、日本と組んだドイツを敗戦国でしたから、戦後はドイツ語は廃れてしまい、安部公房の若い読者もドイツ語の名詞に3つの性があり、そのひとつに中性名詞のあること、それがNeutrumとドイツ語で呼ぶことは知らないことでしょう。

しかし、安部公房は戦前の旧制高校の成城高校でドイツ語を選択し、ニーチェの専門家阿部六郎やリルケの専門家星野慎一にドイツ語とドイツ文学を学んでニーチェやリルケに親しんでおりましたから、当然のことながら、この名詞の性とNeutrumについてはよく知っていたのです。

安部公房全集の第1巻を読んでも、ドイツ語が出てまいりますし、戦後安部公房が社会に出て、花田清輝や野間宏と交流が生まれているときでも、自分の思考をまとめるために、そのメモにはドイツ語が出てきております(『MEMORANDUM 1948』。1948年。安部公房全集第1巻、483ページ)。

安部公房スタジオの、安部公房の人生にとって有している意義と、その劇場観と演劇論と演技論については、別に稿を改めて論じます。

既に20歳の時に其れまでの10代の思考の総決算たる論文、詩人の存在を論じ、理論化した『詩と詩人(意識と無意識)』では、自分の持つ劇場観、即ち、言語の観点から社会を劇場と観るという自分の考えを、次のように書いています(全集第1巻、104ページ下段から105ページ上段)。

「必ずしも真理自体が問われたとは限らないが、真理は常に我々人間の精神=文化的生の原動力であった。如何なる問い掛けでも、真理に全く無関心でいる事は絶対に無い。或る時は劇場として或る時は舞台として、或る時は脚本として、或る時は作家若しくは批評家として、或る時は俳優として、真理は常に生の戯曲の一要素であった。」

これは、一言で言えば、社会を劇場と観て、そこに舞台を見、更にその上で役を演ずる役者たちを、真理の顕現として見るというものの考え方です。安部公房の演劇観であり、安部公房スタジオは、10代以来考えてきた此の演劇観の実現を図ったものです。

次のような言葉を引けば、安部公房が自分で創設したこのスタジオの役者たちに何を期待したのかは、明らかです。

安部公房は、演劇論について、三島由紀夫と交わした議論を次のように話しています(『前回の最後にかかげておいた応用問題ー周辺飛行19』。全集第24巻、176ページ上段)。

「俳優が、言葉による存在(原文傍点)でなければならないのは、戯曲以前の問題(下線部筆者)なのである。と言っても、べつに驚く者はいないだろう。大半の俳優たちが、戯曲がなくても俳優は俳優だと信じ込んでいる。たしかに、言葉によって存在する(原文傍点)という条件さえ問わなければ、彼らもまた俳優にちがいない。この楽天主義が、ぼくを絶望させてしまうのだ。」

これが、安部公房のneutralという概念、即ちドイツ語の文法用語、Neutrumということから、それを形容詞としてのneutral(ノイトラール)に置き換えて、綴りは同じですから、それをそのまま戦後風にニュートラルと呼んで、存在であることについての其のこころを伝えようとしたのです。

存在とは、安部公房のすべての主人公が憧れているdas Seinであって、今ここにこうして居る主人公の実存(10代の安部公房は、また『終りし道の標べに』では「現存在」と呼んだ)の存在する閉鎖空間から逃走する先にあるdas Sein、即ち中性でいるということ、男性にも女性にもいづれの名詞の名前でも呼ばれることなく、そうしてdas Seinということから、時間の中に分化して変形して現れることなく、やはり存在として、個人の視点では其の役を演ずる以前の、役者以前の未分化の実存として存在するということ、これを安部公房スタジオの俳優たちに求めたのです。

安部公房のこの考えは、1973年にスタジオを創設して以降の安部公房の文章や発言に幾つも見ることができます。

安部公房の読者は、全集のこの時期の、安部公房の文章(texts)をお読みになるとよいと思います。安部公房という人間をより深く理解するために。もぐらのように自分自身の穴を掘って深く。

Neutralと、名詞ではなく、形容詞にしたところに、わたしは安部公房の優れた言語感覚、詩人のこころを読むことができます。これについても、後日論じましょう。


2015年1月8日木曜日

もぐら通信(第29号)の目次のお知らせです


もぐら通信(第29号)の目次のお知らせです。

1。ニュース&記録&掲示板
2。『SFマガジン』(1961年12月号):
     SF/映画は映画/SFに何を期待できるか:全集未収録の座談会
3。詩人たちの論じた安部公房論:長田弘『安部公房を読む』
4。安部公房と共産主義:岩田英哉
5。もぐら感覚23:明日の新聞
6。読者感想
7。編集者通信
8。編集後記

[註]
上記2の 『SFマガジン』からの転載は、紙面の都合で、次号第30号になる場合があるかもしれません。15ページに亘る結構な座談です。安部公房の写真も実に若い。円谷英二や福島正美が出席をしています。安部公房が、座談の中心になっている貴重な資料です。

2015年1月4日日曜日

雑誌『Brutus』(2013年10月5月号)に安部公房が載っていた


雑誌『Brutus』(2013年10月5月号)に安部公房が載っていた







些か旧聞に属する話になりますが、標記ブルータスという月刊誌が「ブルータスの写真特集 ほめられる写真。」と題して、その82ページからは「プロばかりがうまい写真を撮るわけではない。」という見出しの下に、

1。岡本太郎
2。宮本常一
3。アンディ・ウォーホル
4。寺山修司
5。堀江敏幸
6。安部公房
7。シャルロット・ペリアン
8。ヴィム・ヴェンダース

これら8人の撮影した写真が、解説文とともに掲載されております。

安部公房もアマチュアの写真家として登場しているわけです。

掲載されている写真と文章は、『都市への回路』と題した単行本の1冊からの引用で、編集部がそれに解説をつけるという趣向になっています。

以下、引用されている安部公房の言葉をあらためて読みますと、如何にも安部公房らしい。

「僕は、時間の中で変形してゆく空間、結果だけ求めているときには、ないにも等しいような変形のプロセス、それに非常に関心をもっている。」

また、その84ページの安部公房の箇所の写真です。



安部公房の『箱男』と三島由紀夫の『天人五衰』の共通の主題について


安部公房の『箱男』と三島由紀夫の『天人五衰』の共通の主題について

年末年始にかけて、或る機縁のあったことから、三島由紀夫の『豊饒の海』のうちの小説をふたつ、ひとつは第三巻の『暁の寺』を、もうひとつは第四巻の『天人五衰』を、この順序で読みました。

後者の小説を読みながら、それから実は前者即ち『暁の寺』もそうなのですが、安部公房の『箱男』を幾つもの箇所で連想し、思い出しました。このふたつの作品は、大変よく似ております。

その例のひとつとして、『豊饒の海』という連作の小説の主人公、というよりは、物語の筋の運搬役を担っている本多という男に覗きという趣味のあることを挙げ れば、安部公房の読者には一度きに伝わるでしょう。そうして、主人公にとっては其の行為が、作者にとってはその行為を書くということが、『箱男』の主人公と作者同様に、人間の深い性的な衝動や、思考論理の展開や、その両極端な思考論理の展開から生まれる豊かな譬喩の創造に結びついています。

話を『天人五衰』に絞りますと、この小説の前半の表立った主人公が、少年であって、しかも孤児であるという設定は、やはり安部公房の世界にそのまま通じてお ります。そうして、『豊饒の海』というという此の一連の作品の最後にこのような舞台と配役の設定をしたというところに、三島由紀夫というひとの長年の思うところ、即ち最初の『花ざかりの森』では年配者か老年の言葉を(或いはその文体で)語り、最後の『天人五衰』では、10代の(孤児である)少年を語るというのは、実に自分の人生を、この小説の中のどこかに書いてあったように、人生を終わりから始めた人間にふさわしいものだと思いました。

安部公房の場合は、その位相幾何学の好きであったことから、最初に最後のことを、冒頭に結末を考えるということは、どの小説をとっても其の構造を備えている ことは、言うまでもありませんし、その構造が、時間の中で展開する話の筋としては循環構造になっているということも、言うまでもないことでしょう。

この、三島由紀夫の場合の思考と人生観(人生設計)から生まれる循環構造は、『豊饒の海』という連作の場合は、転生輪廻というインドの思想のこととして描かれております。
そうして、やはり、三島由紀夫にとっての人生は、言葉の中にあったことは間違いが(当たり前ですが)ありません。安部公房が自分で言っている言葉を使えば、「言葉による存在」となるということ、或いは「言葉によって存在する」ということを、三島由紀夫とは共有していたという安部公房の言葉(安部公房全集第 24巻、176ページ上段)の通りの小説でした。三島由紀夫の他の小説についても同様であることは言うまでもありません。

また、『天人五衰』の少年が海が好きだということ、その延々と続く海と少年の意識する自分自身との関係を読むと、修辞を巧みにするためというよりも、やはり 三島由紀夫は海が好きだったのだなあと思いました。1970年代の安部公房は、港が好きだったという山口果林の証言がありますので、このことも二人に共通 しているところです。また、上で言及した『花ざかりの森』との関係で言えば、やはりこの10代の作品でも海が出て参ることも、物事の照応 (correspondence)と対称性(synmetry)のあり方を大切にした此の作家らしいと思いました。

こうして考えて参りますと、この転生輪廻の思想、というよりも時間の中に起きる変化を構造化したいという此の意志(安部公房ならば其の小説・戯曲を通じて時間の空間化をするのだといったこと、即ち時間の変化を函数関係の変化に変換することと同じです)は、『豊饒の海』ではインド人の思想という衣裳をまとって おりますが、既にやはり『花ざかりの森』にある、三島由紀夫の同じ意志だということがわかります。

そうして、最後に至って、本多という主人公が60年振りで奈良の月修寺の老尼を訪ね、この老尼が俗名で呼ばれていた若き時代に愛した松枝清顕のことを尋ねたときに、老尼が 全く事実として松枝清顕のことは、その名前は勿論のこと、一切記憶にないという場面を読んで、これは見事な結末だと思いました。そうして、その言葉を聞いて、本多という主人公にも自分の人生が夢のように思われるということも。

岡山典弘著『三島由紀夫外伝』を読んで知った、 安部公房と三島由紀夫の共有する主題19のうちの一つが、本物と贋物という主題です。(三島由紀夫が安部公房と共有した19の主題については、次のURL へ:http://abekobosplace.blogspot.jp/2014/11/blog-post_80.html

上に挙げたふたつの小説にも、贋物という文字が出てまいります。

特に今回の『天人五衰』の贋物という文字の使い方をみて知ったことは、三島由紀夫のこの『豊饒の海』という作品を貫く主題が転生輪廻であるならば、しかし、 その裏に隠れた更に本当の主題は、この転生輪廻という思想、その人間の人生が其の生死を超えて時間の中で循環するというインド人の思想、そうしてそれはインド人の思想というよりも、三島由紀夫が10代の『花ざかりの森』以来惹かれてやまなかったこの思想の論理自体が、本物なのだろうか贋物なのだろうかという問いに答えることがその主題であろうと思いました。

そうして、最後は、夏の庭の中で、すべてが夢のように終わる。

この夢のように終わるその最後の場面が庭であるということ、その主題が、忘却であるということ、記憶を喪うということ、この老尼の、平然たる自己喪失であることに、わたしは安部公房のすべての主人公の結末と同じ結末をみるのです。

安部公房の場合には、この自己喪失は常に閉鎖空間からの脱出として描かれ、同時に其れは主人公の、ほとんど死を意味しております。

そうして、安部公房の場合には、三島由紀夫のこの夏の庭は、余白と呼ばれ、この作家の言語論の考えとしては、主人公の自己忘却は、述語部と呼ばれる余白で、いつも起きる。これは、安部公房はリルケに学んだことですが、他方、三島由紀夫も『花ざかりの森』を読みますと、10代でリルケを読んでいることが判ります ので、この二人の共有する詩人として、哲学者のニーチェの他に、この詩人のいることは特筆すべきことの一つだと思います。何故ならば、リルケは純粋空間を歌い、純粋という言葉の意味は、時間のないという意味であり、それは生者のこの世から見れば、死者の世界ということのできる空間、自己が存在になる空間であるからです。

さて、この老尼の、そして本多という登場人物の自己喪失、記憶喪失というのは、大東亜戦争後の日本の国民の、戦前からの日本の歴史を忘れたという愚かな現実に対しての、この作家による、小説という虚構(本物の贋物)を創造して、その現実にどのように対処 したかを示していると思います。

安部公房の最初期の小説、『けものたちは故郷をめざす』という孤児の少年の主人公 が、日本という本国、日本という故郷へ満洲から帰還しようとする物語は、そのような日本人たちの軽薄と偽善を嫌う詩人や批評家や読者に読まれ、迎えられた 作品ですが、当時のこれらのひとたちの批評の言葉を読みますと、その軽佻浮薄で愚かな現実に抗して、それを克服する可能性を見た小説だという評言を複数み ることができます。つまり、人間の最初の、そもそもの子供に戻り、少年に戻って考え直すことの豊かさ、裸の人間になって、全てを御破算(と安部公房は言い ましたが)にして一切を考える其の正直さをこの小説は教えたというのです。それは、その通りでありましょう。

そうして、自己喪失という結末は、三島由紀夫の『豊饒の海』第四巻の『天人五衰』のみならず、安部公房のすべての小説の主人公の結末でもあります。

さて、三島由紀夫のこの老尼の自己喪失は、安部公房もそう描いたように、他方そのような戦後の時代とは無関係に、或いは全く離れて、人間のそもそものあり方 として描いたところが、やはり三島由紀夫の素晴しさだと、わたしは思います。「言葉による存在」となるということ、或いは「言葉によって存在する」。そうでなければ、時代を超えて、世紀を跨いで、二人の作家の小説が読まれる筈はありません。

三島由紀夫がこの連作の4作 品の全体に『豊饒の海』という名前をつけたということは、やはり人間のこの在り方は、『天人五衰』の前半に延々と書かれる海のようであり、そうして、それ は豊饒であるという意味は、そのように、自己忘却によって生まれるその世界が夢か現(うつつ)かわからないということ、そして、その機微を自分の人生に於いて知ること、認識するということが豊饒ということなのだという意味なのではないでしょうか。

この『豊饒の海』という連作の全体の題名を最初に思ったときには、既に『天人五衰』も完成していたのでしょう。自分の人生の設計図と同じように。

これもまた、全く安部公房の態度(と、18歳で『問題下降に拠る肯定の批判』を書いた10代の安部公房ならばいうことでしょう)に通っております。

『奔馬』(新潮社文庫)の巻末に、村松剛の解説がついていて、これを読みますと、三島由紀夫から電話がかかってきて、この四部作の構想を語ったときに、村松が第四巻の話を尋ねると、三島由紀夫は「第四部は未来だよ」と回答したとあります。このとき、昭和39年、西暦1964年、東京オリンピック開催の歳です。『新潮』への連載開始が昭和40年、西暦1965年9月です。

安部公房がそのエッセイ『ミリタリィ・ルック』を書いた1968年8月1日のあと2ヶ月後に、三島由紀夫は楯の会を結成して、軍服を身にまといます。

さて、『暁の寺』『豊饒の海』と、このふたつを巻を読んで参り、また安部公房との関係で、上の電話での三島由紀夫の即答(と見えます)を考えますと、この未来とは、明らかに現在のことであることが、わたしにはよく知られるのです。

この現在に現在する未来を、安部公房は、シュールレアリスムの影響ということもできませようが、しかしそれとは離れて考えても、時間をどのように処理する か、変化を止めて構造的な構築物を製作するかということを考えると、この現在に現在する未来を「明日の新聞」と呼んで、いつも物語の最後に、ほとんどの場合 、主人公の死とともに今日配達される新聞として書いているからです。

「第四部は未来だよ」と答えた三島由紀夫は、このとき既に自己喪失、即ち自分の死を思っていたということになります。この「明日の新聞」を幾多の小説や戯曲の中で(『友達』)登場させるときには、安部公房も自分の死を思っていたのです。

そうして、「第四部は未来だよ」という意味は、同時に、安部公房の世界から眺めますと、主人公の自己忘却、自己喪失、即ちほんとんど死とというべき状態にあっ て、それを契機に、その主人公は最初の出発地点に戻るというのが、安部公房の小説のプロットなのです。そうして、これを未来永劫に繰り返すのです。この永 劫回帰は、言うまでもなく此の言葉から、10代に安部公房が、リルケと同様に耽読したニーチェの『ツァラトゥストラ』の受容であることは、言うまでもあり ません。安部公房の場合は、リルケに学んだ自己忘却と合わせて、統合されていて、そうして、いつも物語の最後に現れるわけですけれども。

さて、自己忘却というこの最後の情景を念頭に置きますと、この第四部の最後の一行は永劫回帰をするのだという意味であると思います。即ち、第四部の最後の一行は、第一部の『春の雪』の最初の一行に永劫回帰するということになります。

さうしてみると、確かに『春の雪』の第一行は、次のようにあって、記憶の不鮮明であることの一文であり、この記憶のあり方の話(これも過去の記憶)であり、それも日露戦争という、戦争についての過去の記憶がないということの、即ち自己のあり方も含めたその国の戦争の歴史の忘却又は喪失の、しかも、それも幼児の時の記憶の喪失の話で始まるのです。この後者の、即ち幼児の記憶の喪失、これはこのまま、『天人五衰』の主役である安永透が孤児であるということに深く関係のある設定であると思います。

「学校で日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、もっとも親しい友だちの本多繁邦に、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかにおぼえているだけであった。」

将来まとめるための『安部公房と三島由紀夫』という論考のための備忘として、ここに以上の文章を残しておくことに致します。

追記:
今『奔馬』を読んでいますが、この第三巻を読みますと、神風連の乱のこと、また当時の本多の生きた時代のこと、前者は幕末明治の動乱期、後者は当時の戦前の日本の国情を書いて いて、しかしこれはもう敗戦後の日本の痛烈な批判であり、しかし他方、その言葉は、よく均衡を保った美的な言語表現に変換されていて、これは素晴らしいことです。飯沼勲の話 は、もう盾の会となんらかわらないように思われる。この主人公の純粋を思ったこと、反乱軍の人選に当たっての人心の試し方、その人選に当たってひとりひとりに掛けた言葉、特に最後者は其のまま、三島由紀夫がどんな声でどんな言葉を口にして、これはと思った其の若者を盾の会の隊員になるように誘ったたかまで、よくわかります。その箇所を読んでいて、わたしには、恰も三島由紀夫が盾の会への入会を誘うその若者の頬にかかる三島由紀夫の息までが感じられるかの如くに思われました。

また、巻末の村松剛の解説を読むと、『堤中納言物語』に、当時この原本が発見されたので、『豊饒の海』は着想を得ているとあって、やはりそうかと思いました。第三巻『暁の寺』の月光姫(ジン・ジャン)は、この平安朝の短編集の中の『虫めづる姫君』だと、その最初の描写に触れて思った直観は正しかった。

 追記2:
第一巻の『春の雪』の最後の註に、上の『堤中納言物語』のこととともに、この連作の総体の題名である『豊饒の海』という題名が、「月の海の一つのラテン名なるMare Foecunditatisの邦訳である。」とありました。

これを読んで直ぐに思ったことは、これは全体の名前は月の海でありますから、それは月ということから、lunaticということから、lunatic seaであり、従い当然に気違いの、狂気の海という意味であり、更に従い、その狂気の海の一部が此の個別の海としての豊饒の海であるmare foecunditatisであるならば、この豊饒の海という名前は、第四巻の『天人五衰』の最後の一行にある夏の庭そのものであらうということでした。

何故ならば、それは庭であって母屋ではなく、主体(subject)ではなく客体(object)であり、主体に従属する一部(安部公房ならば従属文たる余白と呼んだ無償の空間)であるからであり、従い月の海ではなく、豊饒の海であるからです。即ち、後者は前者の中にある、狂気の海の中に豊饒の海があるのです。

そうして、大切なことは、月とは其れ自体では光を発せずにいて、夜に太陽の光を受けて、その光を反射して輝く天体であるということです。この天体は、またしても、地球の従属物であり、客体であり、太陽の陽に対して陰である其のような小さな天体です。

更に言えば、この天体の陰のものとしての在り方は、この小説4作を通じての主人公である松枝清顕の考え方と生き方、即ち純粋、即ち全く無名の存在として歴史にその身を没して其の名も身も喪い(自己忘却、自己喪失)、それ故に歴史に蘇る、他者として蘇る其の陰画のこころを表しているからです。第二巻の『奔馬』の第19章では、「清顕において、本当に一回的な(アインマーリヒ)なものは、美だけだったのだ。その余のものは、たしかに蘇りを必要とし、転生を 希求[註]したのだ。清顕において叶えられなかったもの、彼にすべての負数の形で(下線部筆者)しか賦与されていなかったもの......」と言われている松枝清顕の在り方です。

これは実際に三島由紀夫という言語藝術家の願ってやまなかった人生ではないでしょうか。

[註]
希求の希の字は、原文はねがうと訓ずる、驥から馬偏をとった文字。

この人間の典型の志と其のありかたについては、安部公房との関係で論ずべきことが多々有りますが、ここまでとしてこの追記の中に筆を留めることに致します。

追記3:
今更に『豊饒の海』の第一巻『春の雪』を読み始めたところ、第36章の最初に、松枝清顕と綾倉聡子との次の会話がある。これは、このまま第四巻『天人五衰』の結末と、全4巻の総称が『豊饒の海』であるという意味をそのまま示し、そのままそれを明かしている。

「「何を仰言るの、清様。罪もあまり重くなれば、やさしい心を押し潰してしまいます。そうならぬうちに、あと何度お目にかかれるか、数えていたほうがましでございます」
 「君はのちのちすべてを忘れる決心がついているんだね」
 「ええ。どういう形でか、それはまだわかりませんけれど。私たちの歩いている道は、道ではなくて桟橋ですから、どこかでそれが終わって、海がはじまるのは仕方がございませんわ」」

この桟橋という橋は、わたしには第三巻『奔馬』の第9章の「神風連史話 山尾綱紀著」の「その三 昇天」に加々見十郎の辞世に歌う天の浮橋の橋と同義に思われる。

「やまとなる神のみかげに存(ながら)へて
   今日よりのぼる天のうき橋」

2015年1月2日金曜日

安部公房のOS(Operating System)

安部公房のOS(Operating System)

安部公房のOSは、日本語という自然言語で20歳のときに書いた論文『詩と詩人(意識と無意識)』である。その根底にあるのは、安部公房の言語機能論である。つまり、

言語の本質(関数であること)>その理論化:20歳の『詩と詩人(意識と無意識)』>個別の領域の個々の作品

という関係にある。

そうして、このOSは、地下に潜って、謂わば球根のようにあるのだ。

安部公房は、わたしの言い方で言えばこの地下にある球根という自分の発明したOSを使って創作する自分の創作活動を、若かった当時、sur-realism(surは現実を超えるという意味)ではなく、地下に潜っているので、sub-realism(subはサブマリーン、潜水艦のsub)と冗談半分に言っていたということを、最近信州大学の友田義行先生の論文『地下茎状の原作ー安部公房「友達」論』の註釈で桂川寛の言葉のあるのを読んで知った(http://senryokaitakuki.com/fenceless001/fenceless001_07tomoda.pdf)。

詩は、その最初のapplicationであった。これは、10代の詩群と23歳のときに、それまでの10代の問題に解答を定立した『無形詩集』は、最初の、安部公房のprogramsである

その次に小説を書いた。これも、『詩と詩人(意識と無意識)』というOSで書いた、散文としての、小説のプログラムである。

そのあとに、戯曲を書き、映画やラジオドラマのscenarioを書いた。これが、第三のプグラムである。

これらのプログラムのアプリケーションを、海外の小説家や戯曲 家や映画監督が読んで、それを更に個別言語で展開した。この場合、次の3つのapplicationsがある。

(1)そのまま翻訳をした翻訳物としてのapplication
(2)翻案したapplication
   ①スェーデン人の映画監督の『友達』は、これ。
(3)まったく自由に、安部公房の作品に想を得て、自作の中に取り入れて、作品を創作した、個別言語(日本語やその他の言語)のapplications。読者の書く感想文も、これに入るだろう。

この場合、これらのapplicationsの基礎になっているのは、安部公房のOS、即ち言語機能論であり、20歳のときに書いた『詩と詩人(意識と無意識)』が、その思考論理と形象を具体化したOSなのである。MacintoshにはMachintoshのOS-Xがあるように、WindowsのOSはMS-DOSであるように、安部公房のOSはAK-OS(AbeKobo-OS)と呼びたいものだ。

これが、何故安部公房が多ジャンル、多領域で仕事をできたか、したかという理由を説明するための一番適切な譬喩(ひゆ)であり、しかし譬喩という以上にほとんど事実そのものであると、わたしには思われる。

何故安部公房が多ジャンルで活躍できたのかの言語論的な説明は、前回のこの編集者通信で『梨という名前の天国への階段、天国への階段という名前の梨〜従属文の中の安部公房〜』と題して論じたの、これを読んでくださると、嬉しい。



2015年1月1日木曜日

「何故川端康成は安部公房の『壁』を芥川賞に推したのか?」の無料キャンペーンのお知らせです。


「何故川端康成は安部公房の『壁』を芥川賞に推したのか?」の無料キャンペーンのお知らせです。

無料キャンペーンの期間は、1月2日から1月6日までの5日間です。


http://goo.gl/PaEC39

1951年下半期の芥川賞を安部公房が受賞したときに、川端康成と滝井孝作の強い推薦がありました。

特に、前者が何故安部公房を推したのかに焦点を当てて論じたのが、この一文です。他方、しかしまた、後者、即ち安部公房の全面的に否定した私小説の作家、滝井孝作は、安部公房の小説が仮説設定の文学であることを既にこのとき見抜いておりました。

文学という言語藝術の広さと奥深さを、従いその素晴らしさを思います。

安部公房が芥川賞を受賞したそのときの言葉から始まり、マルクス主義と日本共産党の考えと自分の文学観の相違を自覚し、自分の文学の実現に苦しみ抜いていたときの1954年までの安部公房を、芥川賞を中心に簡潔にまとめました。

そうして、何故川端康成は安部公房を芥川賞に推したのか、その理由を解いたのが、この短いながら、川端康成と安部公房の文学の本質を、そうしてその共通性を論じた、論考です。

安部公房と川端康成は、何を共有していたのか?その共有していた3つのものについて語ります。

もぐら通信(第28号)の編集者通信に掲載したものを更に改稿して、1954年時点での安部公房による芥川受賞についての感想の言葉を付け加え、一層、安部公房にとっての芥川賞の意味を、選者と受賞者の双方の立場から、どのようなものであったのかを、明らかにした論考です。

是非、お読み戴ければ、有り難く思います。 ダウンロードは、以下のURLです。

http://goo.gl/PaEC39