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2015年1月9日金曜日

何故安部公房はニュートラル( neutral)という言葉を選択して、安部公房スタジオの俳優たちを演技指導したのか?

何故安部公房はニュートラル( neutral)という言葉を選択して、安部公房スタジオの俳優たちを演技指導したのか?

この問いをもっと短く簡潔にすると、何故安部公房はニュートラル(neutral)という言葉を選んだのか、という問いになります。そうして、その言葉で何を安部公房スタジオの俳優たちに伝えたかったのか、それによって安部公房は何を舞台で実現したかったのかという問いになるでしょう。

わたしの仮説は、1970年11月25日に三島由紀夫が切腹による死を選んでから、その衝撃を内心深甚に受けた安部公房は、10代の自分の詩とリルケの詩、即ち後者にあっては尚純粋空間に回帰したという仮説です。

この仮説に従って、この問いに答えることができます。

安部公房は、1961年9月6日に日本共産党を除名された翌年、1962年に『砂の女』を発表して、その作家としての世間的な評価を確立し、その後初版の『終りし道の標べに』(1948年)を改稿して、1965年にそれを公けにしております。

このとき、初版にあった、10代から20代前半、即ち1950年代の半ばまでの間の我が身の命を救い、その身を養ってきた、安部公房の命とも云うべき安部公房独自の哲学用語をすべて消してしまって、それらを隠してしまいました。

さて、1970年11月25日の三島由紀夫の詩に衝撃を受けた安部公房は、この自分の文学の出発点に回帰して、自分の人生を反省し、一体自分の文学はどのようなものであったか、これからどうして生きていったらよいのかを言語藝術家として真剣に考えたのです。

それは、即ち、小説以前、更に即ち詩の世界に回帰することでした。この時期、1970年11月25日から、安部公房スタジオを創立する1973年1月の期間に、安部公房はこのことを考え、そうして23歳で上梓した『無名詩集』(1947年)と其れ以前に書いた10代の詩を読み返したのです。

安部公房全集を読みますと、安部公房の思考の特徴は、何か自分の人生の転機に当たっては、その最初に戻って物を考えるということ、即ち、思考し論ずる対象「以前」に戻って考えるということです。(即ち、時間を捨象して、物事の本来の、根源的なあり方として物事を考える、そのそもそもを考えるのです。存在という言葉の選択が既にそのまま其のことを示しております。)

従い、このときも安部公房は、詩以前のこと、即ち存在について、演劇以前のこと、即ち存在について、そうして人間が存在することについて考えたのです。この存在は、10代の安部公房の詩と、初版の『終りし道の標べ』にという手記体の散文作品の中核をなす言葉であり概念です。

即ち、個人の視点では未分化の実存と10代の安部公房が呼んだ実存のあり方、他方人間一般のあり方としては、此の人間も個人も含んだ宇宙と世界のあり方の根底にある物事の名前であるこの存在という言葉を思い出し、舞台芸術のために取り上げたのです。

後者、即ち存在を、ドイツ語ではdas Sein(ダス・ザイン)と言います。

ドイツ語の名詞には、3つの文法的な性(gender)があり、男性名詞、女性名詞、中性名詞といます。ドイツ語の文法用語で、それぞれMaskulinum, Femininum, Neutrumといます。

上の存在、das Seinは、dasという定冠詞のついている通りに、これは中性名詞、Netrumです。

敗戦後の日本の教育は、何事も戦勝国のアメリカの風になって英語が流行していますし、日本と組んだドイツを敗戦国でしたから、戦後はドイツ語は廃れてしまい、安部公房の若い読者もドイツ語の名詞に3つの性があり、そのひとつに中性名詞のあること、それがNeutrumとドイツ語で呼ぶことは知らないことでしょう。

しかし、安部公房は戦前の旧制高校の成城高校でドイツ語を選択し、ニーチェの専門家阿部六郎やリルケの専門家星野慎一にドイツ語とドイツ文学を学んでニーチェやリルケに親しんでおりましたから、当然のことながら、この名詞の性とNeutrumについてはよく知っていたのです。

安部公房全集の第1巻を読んでも、ドイツ語が出てまいりますし、戦後安部公房が社会に出て、花田清輝や野間宏と交流が生まれているときでも、自分の思考をまとめるために、そのメモにはドイツ語が出てきております(『MEMORANDUM 1948』。1948年。安部公房全集第1巻、483ページ)。

安部公房スタジオの、安部公房の人生にとって有している意義と、その劇場観と演劇論と演技論については、別に稿を改めて論じます。

既に20歳の時に其れまでの10代の思考の総決算たる論文、詩人の存在を論じ、理論化した『詩と詩人(意識と無意識)』では、自分の持つ劇場観、即ち、言語の観点から社会を劇場と観るという自分の考えを、次のように書いています(全集第1巻、104ページ下段から105ページ上段)。

「必ずしも真理自体が問われたとは限らないが、真理は常に我々人間の精神=文化的生の原動力であった。如何なる問い掛けでも、真理に全く無関心でいる事は絶対に無い。或る時は劇場として或る時は舞台として、或る時は脚本として、或る時は作家若しくは批評家として、或る時は俳優として、真理は常に生の戯曲の一要素であった。」

これは、一言で言えば、社会を劇場と観て、そこに舞台を見、更にその上で役を演ずる役者たちを、真理の顕現として見るというものの考え方です。安部公房の演劇観であり、安部公房スタジオは、10代以来考えてきた此の演劇観の実現を図ったものです。

次のような言葉を引けば、安部公房が自分で創設したこのスタジオの役者たちに何を期待したのかは、明らかです。

安部公房は、演劇論について、三島由紀夫と交わした議論を次のように話しています(『前回の最後にかかげておいた応用問題ー周辺飛行19』。全集第24巻、176ページ上段)。

「俳優が、言葉による存在(原文傍点)でなければならないのは、戯曲以前の問題(下線部筆者)なのである。と言っても、べつに驚く者はいないだろう。大半の俳優たちが、戯曲がなくても俳優は俳優だと信じ込んでいる。たしかに、言葉によって存在する(原文傍点)という条件さえ問わなければ、彼らもまた俳優にちがいない。この楽天主義が、ぼくを絶望させてしまうのだ。」

これが、安部公房のneutralという概念、即ちドイツ語の文法用語、Neutrumということから、それを形容詞としてのneutral(ノイトラール)に置き換えて、綴りは同じですから、それをそのまま戦後風にニュートラルと呼んで、存在であることについての其のこころを伝えようとしたのです。

存在とは、安部公房のすべての主人公が憧れているdas Seinであって、今ここにこうして居る主人公の実存(10代の安部公房は、また『終りし道の標べに』では「現存在」と呼んだ)の存在する閉鎖空間から逃走する先にあるdas Sein、即ち中性でいるということ、男性にも女性にもいづれの名詞の名前でも呼ばれることなく、そうしてdas Seinということから、時間の中に分化して変形して現れることなく、やはり存在として、個人の視点では其の役を演ずる以前の、役者以前の未分化の実存として存在するということ、これを安部公房スタジオの俳優たちに求めたのです。

安部公房のこの考えは、1973年にスタジオを創設して以降の安部公房の文章や発言に幾つも見ることができます。

安部公房の読者は、全集のこの時期の、安部公房の文章(texts)をお読みになるとよいと思います。安部公房という人間をより深く理解するために。もぐらのように自分自身の穴を掘って深く。

Neutralと、名詞ではなく、形容詞にしたところに、わたしは安部公房の優れた言語感覚、詩人のこころを読むことができます。これについても、後日論じましょう。


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