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2016年6月23日木曜日

『燃えつきた地図』の中の三島由紀夫(2) ~『薔薇刑』の写真「第三章 笑ふ時計あるひは怠惰な證人」の解釈~


『燃えつきた地図』の中の三島由紀夫(2)
~『薔薇刑』の写真「第三章 笑ふ時計あるひは怠惰な證人」の解釈~

前回の『『燃えつきた地図』の中の三島由紀夫~二人の交わした時間論について~』の続きを以下にお伝えします。(前回は:https://abekobosplace.blogspot.jp/2016/06/blog-post_6.html

時間を空間化する安部公房、即ち時間の中の出来事を函数関係に変換して時間を捨象して時間を空間化して其処に存在を求め(デジタル変換)、このことを言葉によって更に形象に変換(アナログ変換)した安部公房。

対して、連続する時間を言葉という呪術によって際断して点となし(三島由紀夫のデジタル変換)、時間を捨象し、言葉を用いて形象に変換する(アナログ変換)ことによって其処に存在する存在を求める三島由紀夫。誠に対照的な、裏返った関係にある、同体二顔のシャム双子のような二人です。

勿論、この場合、三島由紀夫のいう存在は、自己の肉体、純粋な筋肉から構成される自己の純粋な肉体のことです。安部公房の語彙を借りて言えば、三島由紀夫は、肉体を純粋空間にしたかったのです。そして、三島由紀夫の大好きな画家ワットー論を読むと、三島由紀夫は其の純粋空間としてある肉体を裏返しにして、その紅の美しい林檎の果肉の中にあって誰も外部からは見ることのできない芯を見せたかったことが判ります。そう書いてあります。これが、三島由紀夫の自刃の理由です。

要約すれば、安部公房は、隙間という空間の差異に純粋空間、即ち存在を求め、他方、三島由紀夫は時間の差異、時間の際断によって時間の隙間を設けることによって、そこに存在、即ち鍛錬されて純粋になった筋肉から構成される自己の肉体という純粋空間を求めたのです。

この要約を示す薔薇刑』(1963年、昭和38年刊)という写真集から「第三章 笑ふ時計あるひは怠惰な證人」題する一葉をとって、三島由紀夫が時間の中に、時間のない(リルケの言葉で言えば)純粋空間を希求したことの説明とし、同時に証明とします。


透明な筋肉より構成されて在る存在としての肉体を持つ三島由紀夫が、向かって右に持つのは柱時計で、針は正午を指しており、これが1日という時間の単位であれば真昼を、一年という時間の単位であれば真夏を示しています。
ともに、永遠の、従い時間の存在しない時間です。時計は、三島由紀夫の十代の詩の動機(モチーフ)の一つです。

夏は、特に真夏は、詩人の季節です。例を挙げると、『午後の曳航』の第1部が夏と題されているのは、そのためです。海の上で船のマストという詩人の高みに登って海を眺める職務を戴く二等航海士(一等航海士の職務ではない)が、従い、子供の英雄として描かれています。対して、第2部は冬と題されていて、陸(おか)に上がった二等航海士は詩人の地位を、実際の性愛を交わすために、自ら降りたのですから、不在の父親が実在の父親になってしまいますので、必然子供達に殺される運命にあるのです。

右手に持っている野球の球(ボール)もまた無時間を示します。この垂直方向は、十代の詩には、やはり塔の高みを表す詩人の位置として頻出しますが、小説においては模』(すかんぽう)という1938年(昭和13年)の作品に初出で、主人公秋彦がボールを垂直に投げ上げて、落ちてくるボールを素手に受け止めることで、青空や雲や空気という自然を口中に味わうことができる其のような方向としてあらわされています。

詩人の高み(垂直方向)で自然を口の中で味わうことができる方向、それが垂直方向なのです。この口中感覚ともいうべき、三島由紀夫独特の感覚は、前述した「歯噛み」や「噛みしめる」という、水平方向の時間の中で生きることを堪え忍ぶという口中感覚に通じており、同時に此の対照を、読者は思うべきでありましょう。

さて他方、同じボールは『模』の他にも後年の『鍵のかかる家』でも登場して、この場合は水平方向に投げられ受け取られる、それも素手ではなく野球のグローヴで受け取られるボールです。主人公が昼休みというやはり正午の(時間の停止した)時間に(「時計の長針と短針が出会うように、女の顔がときどき彼の顔の上に影を落とした」とあります)、それも鍵のかかる部屋へは行かぬ時に、同僚が素手ではなくグローヴをはめて、これは水平方向にキャッチボールをしている場面が始めと終わりに二つありますが、この水平方向のボールのやり取りを見て、主人公は次のように内心思うのです。

「球は直線や曲線をえがいて飛び、離れた一対のグローヴは、まるで球をその凹みに強く引き寄せるように見えた。(略)あの球が何か意味があったらあの球に何らかの意味がそなわっていたら、ああは行くまい。球は転がり落ち、どこの叢(くさむら)にも永遠に見つからないだろう。」(傍線筆者)

三島由紀夫を世に出した最初の短編『花ざかりの森』に書かれているように、このグローヴィの凹みは垂直方向に落ちる滝の下の滝壺とその周囲の土地柄、土地の形状であり、ここでは人間は永劫回帰する其の場所の形状なのです。これと同じ凹みが『豊饒の海』の第一巻『春の雪』に主人公松枝清顕が本多繁邦にいってふたりは再び会うことになるという永劫回帰の場所であるのです。

また、水平方向の球の(素手ではない)やり取りは、垂直方向の、それも一人での投げ上げとは異なり、意味がない、無意味であることが判ります。これに対してみれば、垂直方向という方向は、詩人の高みを十代の詩の世界以来保証し保障してくれるものであり、従い、有意味であるのです。

さらに、『鍵のかかる家』にある「時計の長針と短針が出会うように、女の顔がときどき彼の顔の上に影を落とした」という一行の此の直喩を見ると、時間の停止した永遠の正午とは、この小説の主人公の女のみならず、鍵のかかる部屋という(安部公房ならば)閉鎖空間と呼ぶであろう空間においても、一般的に女との性愛の実際の交換は、男である主人公の死を意味しているのです。上の『薔薇刑』に写る透明な筋肉より構成されて在る存在としての肉体を持つ三島由紀夫は、従い、その肉体の透明性から言っても、女と直接の性愛を交わさぬ死者としてあることを意味しています。

さて、最後に、足下の小さな椅子についてですが、これは作者自身の薔薇刑』初版に寄せた『細江英公序説』によれば「玩具の椅子」であり、更に玩具(おもちゃ)といえば、これも十代の少年時代の詩の世界では重要な素材であり動機であるのです。

玩具は、例えば12歳の詩、この年は三島由紀夫が本格的に詩人になろうと決心して、大いに精進をして詩を書き、詩人として成長した年ですが、この年に『HEKIGA』という、そのような意味で画期的な、詩集を出しております。この詩集中に『玩具(おもちや)』という詩があり(決定版全集第37巻122ページ)、これを読むと、玩具の持つ重要な意味がよくわかります。

またこれ以外にも同じ言葉の出て来る詩集『木葉角のうた』中『緑色の夜《LYRIC》』(全集第37巻、221ページ)、詩集『聖室からの詠唱』中『幼き日』(同巻268ページ)、『無題ノート』中『おるごる』(同巻242ページ)、『玩具箱』(同巻552ページ)に出てきます。

これらの詩の中で、三島由紀夫が此の玩具という言葉にどのような意味を割り当てたかは、これらの詩を読むとよくわかります。今この形象に深入りはしませんが、一言でいえば、この世とは異なる別世界にあるものが玩具なのです。曰く、お城、王様、兵隊、妖精、踊り、森、夜、海、船、船の中のホール[註2-1]等々。そうして、まことに安部公房とは対照的であることに、これらの玩具は、岩の割れ目に入っていると動かず、岩がなくなって割れ目がなくなると活発に生動し始めるのです。

[註2-1]
『港町の夜と夕べの歌』の第2連に出てくる椅子をご覧ください(決定版全集第37巻、622ページ)。



鍵のかかる家』でも、主人公が「鍵のかかる部屋」に向かう時には、電車や線路やトンネルが玩具のように小さくなることが語られています。それは、やはり「鍵のかかる部屋」は別世界であり、女性と実際に性愛を交わせば主人公が死ぬ場所であるからなのです。安部公房ならば、割れ目に入ることが存在に棲むことであり、現世から見れば人間の死であるが、しかし真に生きることであるのに対して、三島由紀夫の場合には、玩具が登場すると、主人公の意識も、割れ目である此の現実を抜け出して別世界へと赴き、即ち上に述べたような玩具のトンネルという通路を通って死の空間、即ち時間の無い空間へと入って行くのです。この議論の詳細は稿を改めます。

さて、上掲の写真に話を戻しますと、そのような玩具の椅子の上で、三島由紀夫は透明な純粋な筋肉からなる存在と化して、両手に時間を捨象した、無時間の形象である正午を指す柱時計と、垂直方向に素手で投げられ受け止められる野球のボールという此れも時間の存在しない方向を示す形象を持ち、二等航海士として船員帽を被って笑う三島由紀夫がいるということになります。時計はしっかりと右手に抱え込み、左手のボールは捻りを加えて回転させて垂直方向に飛ばそうという様子です。

また、靴もタイツも、やはり意味のないものは、この垂直方向と玩具の椅子の上に存在するるという詩人の死と性愛の世界には、なく、即ち鍵のかかる家』の例を再々度引けば、「『半ドンの正午のところをまんなかに、上半身は人間で、下半身は魚だ。俺も魚の部分で、思いきり泳いでいけないという法はないわけだな』[註2-2]」とあるように、そうしてこう言う一行の前に更に最初に「『土曜日は人魚だ』」と簡潔に主人公が隠喩で断定するように、この『薔薇刑』での此の、白いタイツをはいている二等航海士の船員は、下半身が性的不能者なのであり、そのように「『半ドンの正午のところをまんなかに、上半身は人間で、下半身は魚』なのであり、この船員も魚の下半身で『思いきり泳いでいけないという法はないわけ』なのです。即ち、鍵のかかる部屋で現実の女性と性愛を交わし、性交の場である絨毯に死の香水を振りまいてから性交する桐子という死の世界の女と、不能の下半身を使って空想の(しかし現実の)世界で交わるというのです。

この桐子が主人公との性交の前に必ず其の場の周囲に絨毯に撒く匂いの強い香水は、12歳の詩『父親』で(決定版全集第37巻、95ページ)、あのペルシャ製の絨毯、即ち少年三島由紀夫の好きだったアラビアンナイトの物語の中の空飛ぶ絨毯、即ち空を飛翔して(イカロスとしての)詩人の高みを保証し保障してくれる絨毯の上に、父親に詩作を全否定されて壊されたインク壺のインクの撒き散らされた其のインクの黒い色と其の匂いなのです。

すでに此の12歳の詩でも、三島由紀夫は、インク壺を床に叩きつけた父親をではなく、父親に其の身を謂わば二つに引き裂かれた当の子供を一人称に入れ替えて、自分の命を救い、また子供ながら此の酷(むご)い父親に対する関係を倫理的に懸命に維持することを精一杯の幼い力で行っております。これが、不在の父親を歌った最初の詩です。短編小説では、同じ主題を書いたのは『酸模』ということになりましょう。

そのように、三島由紀夫が、非道な父親と詩人の自分自身とを交換して此の詩を書いたことを考えると、このペルシャ製の空飛ぶ絨毯ですら、12歳の三島由紀夫の、自分自身の命を救うための詩的創造であったのかも知れないと思うほどです。平岡家の平岡権威公少年の勉強部屋の床には、果たして絨毯が敷いてあったのでしょうか?それも、ペルシャ製の絨毯が。

[註2-2]
三島由紀夫がどのように此の二重鉤括弧の記号に意味を割り当てて使ったかは、既に三島由紀夫の十代の詩を読み解く17:イカロス感覚2:記号と意識(1)』(一般論:https://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html)と『三島由紀夫の十代の詩を読み解く11:イカロス感覚2:記号と意識(7)』(個別『』論:https://shibunraku.blogspot.jp/2015/09/blog-post_86.html)をご覧ください。


さて、最後に此の『薔薇刑』の此の写真に、三島由紀夫自身が付した短い説明文の全体を引用して、お伝えします。以上のことごとが、38歳の三島由紀夫の言葉になれば、次のような言葉になるのです。

この写真では「怠惰なモデルは一轉して、笑者であり證人であることを強ひられる。彼はまづ大きな柱時計とテニスのボールを持つて、玩具の椅子の上に立ち、人間生活全般に対する嘲笑の権利を獲得する。彼は動かない時計の永劫の時間に亘つて、ただ見るための存在になり、天井にひびく自分の甲高い声と嘲笑と、じんわりとした苦痛とにかはるがはる苛まれながら、人間の快楽や苦痛の、もつとも露はな状況に立ちあはされる。しかし彼はただ嗤ひ、ただ見るだけで、何もしないのである。この懲罰はやがて襲つて来るが、その前に彼は、一時ほしいままな変容の世界へ解放される。それが第四章 さまざまな瀆聖である。」

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