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2016年6月24日金曜日

映画『他人の顔』の映画評:More Than Meets the Eye: THE FACE OF ANOTHER

映画『他人の顔』の映画評:More Than Meets the Eye: THE FACE OF ANOTHER

“Hiroshi Teshigahara’s visually inventive film probes the identity crises of postwar Japan.”

Yosef Sayedという人が、映映画『他人の顔』の批評を昨日付けで下記のウエッブサイト、Fandorに寄稿しています。




この評者は、この他人の顔を造形した主人公と其の顔を、大東亜戦争敗戦後の日本の国の姿だとして、次のように述べています。:

While it is too limiting to treat the character as a cohesive metaphor for one thing or another, one might reasonably see Okuyama as an embodiment of Japan, specifically in light of the country’s postwar experience, reflecting an unwillingness to unmask itself and show the ugliness underneath the bandages. This was a nation reconstituting itself after a disastrous involvement in the Second World War, and presented with no choice but to adopt the face of another country. 

他方、同じ作品が、ヨーロッパに対して持っている批評性についても、次のように述べています。:

There is yet another “Another” to which the film refers, and which also refers us to the Second World War, in two scenes that show Okuyama and Hori meeting to discuss their radical experiment amidst the conviviality and song of a Munich-style bierkeller. A musical interlude shot in this German-inspired Tokyo bar, in which a young woman (Bibari Maeda) sings “Wo bist du, von gestern du?” [“Where are you, you from yesterday?”], seems not only to comment on Okuyama’s predicament, but also to wish for the return of an imagined, romantic bygone European culture. This is reinforced by Takemitsu’s memorable waltz, which forms the musical theme of the film. It is a surprising and ironic twist, which finds a grim counterpoint in the excerpts of a Hitler speech that can be heard during the parallel story, as the young woman flees a sexual attack.


十代後半、二十代初めの安部公房が、全集第1巻で哲学談義を親しく交わした友中埜肇宛の書簡にいうところによって明らかなように、そうして後年のJulie Brockによるインタビューでの発言でも尚明らかなように(『安部公房氏と語る』全集第28巻、478ページ下段から479ページ上段))[註1]、若い安部公房が戦後の世上の流行した実存主義が実存主義ならば、自分の実存主義はそんな軽薄なものではなく、従い実存主義なのでは全くなく、新象徴主義哲学ともいうべきものだと言った(『中埜肇宛書簡第10信』全集第1巻、270ページ下段)、その実存主義」については触れることがありません。

[註1]
晩年安部公房自身が、デカルト的思考と自分独自の実存主義に関する理解と仮面についての次の発言がある(『安部公房氏と語る』全集第28巻、478ページ下段から479ページ上段)。ジュリー・ブロックとのインタビュー。1989年、安部公房65歳。傍線筆者。

「ブロック 先生は非常に西洋的であるという説があるけれども、その理由の一つはアイデンディティのことを問題になさるからでしょう。片一方は「他人」であり、もう片一方は「顔」である、というような。
 フランス語でアイデンティティは「ジュ(私)」です。アイデンティティの問題を考えるとき、いつも「ジュ」が答えです。でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでてきませんでした。それで私は、数学のように方程式をつくれば、答えのXが現れると思いました。でも、そのような私の考え方すべてがちがうことに気づき、五年前から勉強を始めて、四年十ヶ月、「私」を探しつづけました。
安部 これは全然批評的な意見ではないんだけど、フランス人の場合、たとえば実存主義というような考え方をするのはわりに楽でしょう。そういう場合の原則というのは、「存在は本質に先行する」ということだけれども、実は「私」というのは本質なんですよ。そして、「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、それは観念論になってしまうということです。
ブロック それは、西洋的な考えにおいてですか。
安部 そうですね。だけど、これはどちらかというと、いわゆるカルテジアン(筆者註:「デカルト的な」の意味)の考え方に近いので、英米では蹴られる思考ですけどね。」

既に18歳の安部公房は、この晩年の発言にある認識に至っていたということがわかります。そうして、何故ジュリー・ブロックが「でも、先生の本を読んで、「ジュ」という答えがでて」来ないかという理由を、上の二つの表(マトリクス)は示しています。

ここには、「ジュ(私)」は有りません。何故ならば、それは、安部公房のいう通り、「実は「私」というのは本質」であるからです。何故ならば、本質とは、実体のあるものではなく、差異であり、関数だからです。

この、安部公房のいう「私」を、西洋の哲学用語で、subject(主観、主体、主辞、主語)と言うのです。

上に表にした、実体の無い、関係概念としての、安部公房のいう此のsubject(「ジュ(私)」)の概念を理解することは、安部公房の文学を理解するために大変大切です。「実は「私」というのは本質なんですよ。そして、「仮面」が実存である。だから、常に実存が先行しなければ、それは観念論になってしまうということです。」という安部公房の発言をよくお考え下さい。上の表は、次のところでダウンロードすることができます:https://ja.scribd.com/doc/266831849/安部公房の読者と作者-我と自我-主体と客体の関係-差異 」(『存在とは何か』もぐら通信第41号)


安部公房文学の備えている、ヨーロッパ近代文明への痛烈苛烈な批判については、上のインタビューでも、その意を汲めば論理的には全く明らかです。詳細の論は後日とします。Julie Brockという女性は、フランス人であるにもかかわらず、よくここまでの認識に至ったと思い、私は驚きます。

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